第329話:『天秤の上の独善、笑い合う未来へ』
硝煙の匂いはない。ただ熱せられた鉄が発する独特の焦げた匂いだけが、冷たい風に乗って岩棚を漂っていた。
私は土嚢の傍らに立ち尽くしたまま、鉄板に穿たれた風穴から目を離せずにいた。
一千メートルという人の叫びも届かぬ絶対の距離。そこから一方的に命を刈り取るあまりにも純粋な暴力。
私は自らの手で生み出したその黒い鉄塊を直視できず、ぎゅっと拳を握りしめた。
(……私は侵略も制圧もしないと誓ったはずだ)
風が頬を撫でる。だが私の内側は冷や汗で濡れていた。
自国を守るためとはいえ、この凶悪な牙を敵陣の深くへ突き立てようとしている。それは私が忌み嫌う『侵略』と何が違うのだろうか。
(クルガンが築いたあの覇国にも、彼らなりの存在する意味や価値があるのではないか?)
極寒の荒野で生き抜くために強き者が弱き者を力で統べる。それは悲しいが、彼らが血を流して見つけた一つの答えなのかもしれない。
それを南の豊かな国から来た私が、私の価値観で一方的に叩き潰そうとしている。それはただの傲慢ではないか。独善ではないのか。
視点を変えれば。覇国の民から見れば、私こそが見えざる空から無慈悲な死を降らせる悪逆非道な侵略者だ。
呼吸が浅くなる。足元の砂利がひどく不安定に感じられた。
この兵器の引き金を引くのは選ばれた影たちではない。私だ。私の言葉が誰かの父親を、誰かの息子を気付く暇すら与えずに肉片に変える。
その血の重さに私の小さな肩が震えた。
(……やめるべきか。これは一線を越えている……)
目を閉じると、孤児院の庭で笑うトムやアンナの顔が浮かんだ。
そして――あの北壁の野戦病院で冷たくなっていく兵士の手を握った記憶が、泥のように蘇る。
『……もう多くの人の血は流させない』
あの時誓ったではないか。
カッと。
私の内側で燻っていた火種に酸素が送り込まれた。
(……違う。クルガンのやり方は間違っている)
彼は自分の覇道のために味方であるはずの民に毒牙を剥いた。恐怖と偽りで人を縛り、かつてカナンの民から故郷を、誇りを奪い取った。
あの暴力を放置すれば遠からず北の荒野は死の海となり、その波はいずれ帝国の国境を越え、孤児院の子供たちの明日すらも焼き尽くす。
客観的に見てもあれは正さなければならない狂気だ。
(誰も傷つけず誰からも恨まれない方法なんて……この戦場にはない)
綺麗事で世界は救えない。ならば私が泥を被る。
この『マキナ・キャノン』という呪われた力もヴィクトルを出し抜くための謀略も、すべて私が背負う。
敵も味方も。最小限の被害で抑え込むために。
せめてすべてが終わった後――北方の子供たちも帝国の子供たちも同じ空の下で笑い合える結末を全力で目指すために。
(迷ってはダメだ。最善を尽くす。最高を尽くすんだ!)
私は固く閉じていた目を見開き、胸の奥で叫んだ。
(よしッ!)
顔を上げ、大きく息を吸い込んだ。冷たい空気が肺を満たし、私の心を再び『天翼の軍師』のそれへと凍てつかせる。
――ふと。
私は周囲の異様な気配に気がついた。
「……え?」
風の音しかしない。
振り返るとそこには信じられない光景が広がっていた。
皇帝陛下、グレイグ中将、シュタイナー中将、アイゼンハルト監査官、ユリウス皇子たち……。
この帝国を動かす錚々たる顔ぶれが誰一人としてピクリとも動かず、声一つ発さずただ彫像のように私を見つめていたのだ。
彼らは私が黒い鉄塊を前にして真剣な顔で固まり、一人果てしない思索の深淵に潜っていることを察し、その思考を邪魔しまいと全員で息を殺して固唾を呑んで見守っていたのだ。
私の目と彼らの目が合った。
数秒の奇妙な沈黙。
「……なんだか分からんが、結論は出たのかの?」
付け髭の『商人』――皇帝陛下が張り詰めた空気を解くようにふっと口元を緩めて尋ねた。
その温かく全てを委ねるような深い信頼の眼差しに、私は自分の顔がカアアアッと沸騰していくのを感じた。
「っ! は、はいぃっ!」
私は慌てて居住まいを正し、ぶんぶんと首を縦に振った。
「ええ、大丈夫です! ちょっと……甘えた考えに迷いそうになっただけで、もう大丈夫です!」
顔の熱さを誤魔化すように私は両手で自分の頬をパンッと叩いた。
そして居並ぶ帝国の重鎮たちや若き獅子たちへ向けて、照れ隠しと胸に決めた絶対の覚悟を込めてニッと笑いかけた。
「さぁ、これから全力で行きますよ! 皆さん遅れないでついて来てくださいね!」
その少しだけ強がりな八歳の少女の宣言。
だがその声には大陸の命運を引っ張っていく者の揺るぎない覇気が宿っていた。
ふうっと。
岩棚を包んでいた異様な緊張感が一斉に解けた。誰もが安堵の息を吐き、あるいは微かに笑みをこぼす。
「がっはっは! 頼もしいことだ!」
グレイグ中将が豪快に笑い、シュタイナー中将も満足げに頷いた。
「うむ。若き導き手の迷いが晴れたのなら重畳。……では」
皇帝陛下が大きく伸びをしながら言った。
「飯にしようか。わしは腹が減ったぞ」
その拍子抜けするほど日常的な一言に私たちは顔を見合わせ、思わず吹き出した。
張り詰めた戦場の一角で温かな笑い声が風に溶けていく。
私が背負う決意は重い。だが私の隣には共にその重さを背負ってくれる頼もしい大人たちと仲間たちがいた。




