第328話:『見えざる凶刃、沈黙の穿孔』
やがて、準備が整った。
三基のマキナ・キャノンが、遥か一千メートル以上先の荒野に立てられた標的を捉えている。
標的は、帝国軍の標準的な鉄の盾を三枚重ねて縛り上げ、丸太に固定したものだ。
銃身の上部に取り付けられた照準器は、何枚もの特殊なクリスタルレンズを精緻に重ね合わせた、この時代にはあり得ないような代物だった。さすがマキナというところか。そして、観測手がそのレンズを覗き込み、風向きと距離を声に出して射手に伝える。
「距離、一千二百。風、北東より微風。……照準、よし」
射手の影が、引き金に繋がるワイヤーを固く握りしめた。
技術者が、蒸気発生器の熱源ユニットを起動する。シュゥゥ……という、獣の微かな吐息のような音が鳴り始めた。
土嚢の背後で全員が息を呑む。
皇帝も、将軍たちも、若き獅子たちも、ただその黒い鉄の塊に視線を縫い付けられていた。
「――放て!」
ゲッコーの鋭い号令が飛んだ。
ワイヤーが引かれる。
――キィィィィィィィンッ!
鼓膜を劈く、金属の鞭が空気を引き裂くような甲高い絶叫。
巨大な銃身が「ぐおおおっ!」と低い唸りを上げて猛烈な勢いで後方へ滑走し、台座の蒸気圧緩衝器から「プシュウウッ!」と真っ白な高圧蒸気が噴き上がる。
火薬の爆発音はない。ただ、真空を破って飛び出したタングステンの弾頭が、空気に陽炎のような一瞬の歪みだけを残して消え去った。
静寂。
あまりの速さに、発射されたのかどうかすら肉眼では分からない。
遥か彼方の標的にも、爆発や粉塵が上がる気配はなかった。
「……外れたのか?」
ゼイドが、拍子抜けしたように呟く。
照準器を覗き込んでいた観測手も、眉をひそめた。
「……弾道は確かに標的を捉えました。ですが、盾が砕け散った様子はなく、そのままで……」
「あんな豆粒みたいなやつの当否を、この距離で分かるわけがなかろう」
グレイグが怪訝そうに言い、自らの部下に顎でしゃくった。
「おい、馬を出せ! 標的を直接確認し、新しい的と取り換えてこい!」
数騎の兵士が新しい盾を抱えて砂塵を巻き上げ、標的へと向かって疾走していく。
土嚢の背後では、重苦しい沈黙が続いていた。新兵器の威力が不発だったのではないかという疑念が、誰の心にもよぎる。
やがて、標的に到着した兵士たちの動きが、遠目にもぴたりと止まるのが見えた。
彼らは馬から降り、丸太に固定された盾の前に立ち尽くしたまま、しばらく動かない。そして、二人がかりで古い盾を乱暴に取り外すと、一人がそれを馬に括り付け、猛烈な速度で高台へと引き返してきた。
馬を乗り捨て、息を切らせて駆け上がってきた兵士の顔は、恐怖に引き攣り、完全に血の気が引いていた。
彼が足元にドサリと投げ出したものを見て、その場にいた全員が絶句した。
三枚重ねにされた、分厚い鋼鉄の盾。
その中心から少し外れた位置に――まるで熱した針で蝋を刺したかのように、ぽっかりと、綺麗な円錐状の風穴が空いていたのだ。
「ほ、報告いたします……ッ!」
兵士はグレイグの前に膝をつき、震える声で告げた。
「命中しております! 盾が砕けなかったのは、威力が足りなかったからではありません。……速すぎて、盾が『自分が撃ち抜かれたことすら気づかなかった』のです……!」
「何だと……?」
グレイグが風穴の空いた盾を拾い上げ、信じられないものを見る目でその断面を指でなぞった。純粋で圧倒的な速度と質量の暴力。
残る二基も順次試射が行われ、金属の軋むような独特の排気音だけを残して弾頭が放たれた。
結果は同じだった。回収された盾には、今度はほぼ中心の赤い印を狂いもなく貫き通した風穴が穿たれていた。
もし、あそこに人が立っていたら。
どれほどの重装甲を纏っていようと、音を聞くより早く、痛みを感じる暇すらなく、その身体の一部を完全に消し飛ばされている。
「……これが、軍師殿の隠し玉か」
皇帝が、付け髭を撫でながら低く唸った。その瞳に、背筋を凍らせるような冷たい歓喜が宿る。
レオンは眼鏡の奥で目を見開き、アイゼンハルトは胃を押さえた手をそのまま硬直させて戦慄していた。戦いのルールが、今、彼らの目の前で根本から書き換えられたのだ。
その熱を帯びた驚愕の中にあって、私だけは、仮面の下で長く、重い息を吐き出していた。
素直に喜ぶことはできなかった。
マキナが作り上げたこの兵器の成果、精度、そして威力。それは私の要求を完璧に満たしていると同時に――あまりにも危険すぎた。
もしこれが世に放たれ、量産されれば、これまでの戦の概念は完全に崩壊し、無数の命が一方的な「的」として消し飛ばされる時代が来る。
(……だからこそ、この力は今日ここで、絶対に秘匿しなければならない)
そして、この見えざる刃の「引き金」を引かせる権限を持つのは、私だ。一千メートル先の人命を、私のたった一言で刈り取る。その見えないスイッチを握るという事実が、再び恐ろしい質量となって私の小さな両肩にのしかかってくる。
指先が、微かに震えそうになる。
だが――私はその両手をギュッと握り込み、自らの太ももを密かに、強く抓った。
(迷うな。泥を被る覚悟は、もう決めたでしょ!)
あの作戦室で、シュタイナー中将に叱咤され、自ら選んだ道だ。誰にも恨まれない綺麗な結末などない。最小の犠牲で最大の成果を得るために、私自身がこの呪われた力の管理者になるのだ。
私は自らを奮い立たせるように、仮面の下の表情を冷徹に引き締めた。
この『見えざる刃』で、狂王と毒蛇の絶対的な安全圏を、音もなく彼方から穿ち抜いてみせる。
私は土嚢の陰から立ち上がると、居並ぶ者たちを、そして何より好奇心に満ちた目を輝かせている『商人』を冷徹な視線で射抜いた。
「――皆様。本日の試射でご覧になったものは、ただの『幻』です」
私の静かな、しかし絶対の服従を強いる声が、高台の風を切り裂いた。
「この兵器は、この世に存在しません。運用も、構造も、その威力も。一切の言及を禁じます。もし万が一、この情報が漏れれば、それは帝国の致命的な損失を招く。……商人様、貴方様にも、固く守秘をお願いいたします。決して、世間話の種などになさらぬよう」
「ふはは……よかろう。商人の信用にかけて、この口は貝のように閉ざしておこう」
皇帝は愉快そうに付け髭を撫でた。
(……まぁ、代わりに、『天翼の軍師』の逸話がまた一つ増えるだけだがな。姿を見せず、遥か彼方から天罰を下す……まさに、背に翼を持つ者の仕業、というわけだ)
声に出さずとも、その瞳は雄弁に語っていた。
皇帝の了承を得た私は、ゲッコーが選抜した四名の『影』へと向き直る。彼らは先ほどの反動と威力に、まだ顔色を失っていた。
「あなた方には、この『存在しない兵器』を託します」
私は一歩近づき、彼らにのみ聞こえるよう声を落とした。
「……必ず、標的の一点を射抜くこと。誤差は許されません。いかなる風の中であろうと、一〇〇パーセントの命中精度を誇るまで、この高台で訓練を積んでください。……確実な運用ができぬ限り、実戦での投入は許可しません」
「「「「はっ!」」」」
影たちは、恐怖を飲み込み、自らも修羅の道に踏み入る覚悟を宿した目で、力強く敬礼した。




