第326話:『報いの杯、静かなる証人』
ヴォルガルド覇国、黒の宮殿。
ヴィクトルの執務室は外で荒れ狂う氷雪の咆哮を分厚い獣皮で完全に遮断し、息苦しいほどの静寂に包まれていた。部屋の空気を満たすのは血と獣脂の匂いではなく、彼が好む南の国から取り寄せた上質なダージリンの甘く渋い香りだ。
磨き上げられた黒檀の机上。そこに各地の部族から早馬で届けられた報告書が無造作かつうず高く積まれていた。
「……」
ヴィクトルは白く細い指先でその一枚を摘み上げ、優雅な手つきで裏返した。
そこには震える筆致で書き殴られた『惨状』と『呪詛』が並んでいる。
『激しい嘔吐』『胃が焼け焦げるような苦痛』『薬を飲んだ直後に倒れた』。そして何よりどの報告書も一様に、一つの名に向けて口から泡を飛ばすような憎悪を吐き出していた。
――バラク。あの老いぼれが我々を毒牙にかけたのだと。
「……完璧ですね。いや、私の書いた三流の脚本よりもよほど迫真に迫る名演技だ」
ヴィクトルは報告書の束を机にコトリと落とし、薄い唇を三日月の形に歪めた。レンズの奥の灰色の瞳が陶酔の色に濡れている。
毒を盛られた部族が苦痛に悶えバラクを呪う。そこまでは当然の計算通りだ。だがヴィクトルにとって心地よかったのは、あの「カナン人を重用する小賢しい部族」までもが他の部族以上の悲鳴と怨嗟の報告を上げてきたことだった。
(……やはり飢えと恐怖の前では浅知恵など無力。獣は獣らしく目の前の毒に飛びつき、無様に苦しむしかない)
ヴィクトルは襟元の乱れを指先で完璧に整え直すと、最も被害が甚大であったと記された数枚の報告書を手に取った。
靴音が静かな執務室にコツンと響く。
さて舞台は整った。あとは主役に気持ちよく踊っていただくだけだ。
◇◆◇
玉座の間ではむせ返るような熱気の中で、クルガンが苛立たしげに黄金の酒杯を弄んでいた。
巨躯から無意識に漏れ出る退屈と暴力の気配が周囲に控える漆黒の近衛たちの息を物理的に詰まらせている。
そこへ足音一つ立てずにヴィクトルが歩み寄った。
「……どうしたヴィクトル。足取りが随分と軽いではないか。何かこの退屈を紛らす面白いことでも起きたか」
クルガンが黄金の杯越しに黄色い獣の瞳を向ける。
「ええ、覇王陛下。我が国の『膿』を綺麗に絞り出す決定的な証拠が揃いましたゆえ」
ヴィクトルは慇懃に一礼し、報告書の束をクルガンの膝元へ恭しく差し出した。
「お聞きください。バラクが献上したあの薬草……やはり猛毒が仕込まれておりました」
ヴィクトルはさも我が事のように心を痛めている悲痛な顔を作り、大仰な溜め息と共に語り始めた。
「陛下のご威光を信じ、あの薬を煎じて飲んだ哀れな民たちが、胃の腑を焼かれるような激痛にのたうち回り苦しんでおります。中には……命を落とした者も出たとの報告が。被害は甚大。もはや看過できる事態ではありません」
ピシリと。
空気が凍った。
クルガンの黄色い瞳が不吉な光を放って収縮する。
だが彼が見ているのは苦しむ民の姿などではなかった。彼は自らがヴィクトルに命じて混ぜさせた「毒」が見事に役割を果たしたという事実を噛み締め、その口の端を歪に吊り上げようとした。
しかし玉座の周囲には近衛や将軍たちが控えている。クルガンは即座にその嗜虐的な笑みを引っ込め、代わりに自らの顔に泥を塗った辺境の族長に対する計算された「激怒」の形相を作った。
「……あの老いぼれ、やはり俺を出し抜こうとしたのか。俺の民を毒で苦しめ、その救世主気取りで俺を見下すために……!」
メシャリッ。
クルガンが握りしめた純金の杯が赤子の玩具のように無残にひしゃげる。歪んだ金属の隙間から赤い酒が血のように滴り落ち、獣皮の絨毯を汚した。
自作自演の毒劇。だがクルガンの中で「バラクが本気で自分から英雄の座を奪おうとした」というヴィクトルの吹き込んだ被害妄想だけは本物であり、その強迫観念が彼の怒りを本物の狂気へと染め上げていく。
「バラクめ……! 許さん! 俺の支配を腐らせようとする輩など生かしてはおけん!」
クルガンは玉座を蹴り飛ばすようにして立ち上がり、腰の剣の柄を乱暴に掴んだ。大剣が鞘の中で飢えたように鳴る。
「全軍へ通達しろ! 『バラクは覇国の恩寵を汚し民を毒牙にかけた逆賊であった。奴の首を獲り無辜の民の無念を晴らすことを我は誓おう!』とな!」
「御意に」
ヴィクトルは深く、深く頭を下げた。
床に向けられたその顔で、彼の口元はもはや隠しきれない完璧な勝利の嘲笑に歪んでいる。クルガンにはそれが見えない。
同時にクルガンもまた頭を下げる参謀を見下ろしながら、獣のように鼻で短く笑っていた。
(……これでバラクは終わりだ。北の大地から完全に孤立し、我が軍勢の蹄の下ですり潰される!)
ヴィクトルは自らの知略が覇王の怒りさえも意のままに操り、北の盤面を完全に支配したという絶対的な優越感に酔いしれていた。
◇◆◇
だがその狂騒のすぐ裏側で。
本拠地の末端。氷を噛むような寒風が吹き込む薄暗い武器庫の影。
エノクは分厚い手袋を外したひび割れた指先で、古びた帳簿をパタンと閉じた。
彼の目には疲労と、それ以上に重い「業」の影が落ちている。
南の軍師――あの小さな少女から託された『命の選別』。
『伝えるべき部族。伏せるべき部族。……その判断はエノク老師の裁量に委ねます』
その言葉の通りエノクは冷徹に線を引いた。
カナンの民を家畜のように扱い、忠告など聞き入れず逆に密告するであろう「愚かで傲慢な部族」には警告を届けなかった。彼らはヴィクトルの毒をその身で受け、文字通り地獄の苦しみを味わいそして一部は死んでいった。
エノクは自らの沈黙が彼らを苦しめたことを自覚している。帳簿に書き込まれた死者の数は覇国の悪逆を示す証拠であると同時に、エノク自身の手を濡らした血の記録でもあった。
「……甘い娘じゃと思っていたが。あの御方も修羅の道を歩まれる覚悟がおありだったと見える」
エノクは枯れた声でポツリと呟いた。
手を汚す覚悟のない者に真の勝利は掴めない。少女は自らの手を汚す痛みに耐えながら、最も確実な道を選ぶための判断を自分に委ねたのだ。
(……踊るがいい、愚かな毒蛇と狂王よ。お前たちが撒いた毒はお前たち自身の首を絞める鎖となる)
背後でカサリと藁が鳴った。
闇の中から現れたのは粗末な外套に身を包んだ男たち。彼らはエノクの警告によって毒を回避しつつ、ヴィクトルを欺くために『最も毒の被害が甚大だった』という偽の報告を上げた部族の代表者たちだ。
彼らはエノクに対し、覇王に向けるよりも遥かに深く真摯な敬意を持って跪いていた。
「……老師。各部族の『死した者たち』の偽装、すべて手筈通りに。覇国の使者は疑う様子もなくあの嘘の報告書を持ち帰りました」
男の一人が声を殺して報告する。その瞳にはかつて覇国に向けていた怯えはない。命を救ってくれたカナン遺民、そしてバラクへの絶対的な期待の光が宿っていた。
同時に男はふと周囲の闇を気にし、声を一段と潜めた。
「……それにしても老師の仰った通りでした。南の帝国の国境にはすべてを見通す『天の目』が光っているというのは……まことなのですな。我らの窮地をこうして見事に見抜いてくださった」
その怯えたような、しかしどこか崇拝に近い響きにエノクはピクリと眉を動かした。
(……ほう?)
最近カナン遺民の間でも、そして覇国の末端の兵士たちの間でも奇妙な噂が囁かれ始めている。
『南の帝国には天翼の軍師がおり、その眼は千里の彼方まで見通す。敵対すれば地の果てにいようと必ず天罰が下る』と。
エノクは知っている。バラクと帝国が裏で手を結んでいるという『事実』はリナの厳命により、ごく一部の幹部以外には絶対に伏せられている。それが露見すればバラクへの支持は一瞬で崩れ去るからだ。
だが『天翼の軍師という超常の存在に対する畏怖』だけがどこからともなく、異常な熱と真実味を帯びて広がりつつあった。
(……あの娘さんの手の者たちが意図的に流しているのか? それとも自然発生的な民の信仰か。……どちらにせよあの嬢ちゃんは、我々の想像を遥かに超える盤面を描いておるようじゃ)
エノクは帳簿の重みを胸に抱いたまま、シワだらけの顔に深い笑みを刻んだ。
「……さあな。天の目があるかは分からぬが、少なくとも今、我らの足元は確かな石畳の上にある。……ご苦労じゃったな」
ヴィクトルが完璧だと思い込んでいる『悲鳴の報告書』の半数以上は、全てカナン遺民と彼らに命を救われた部族が共謀して作り上げた「完璧な偽造品」だった。
エノクの背負った血の代償はバラク陣営の結束を強固にし、ヴィクトルの目を完全に塞ぐという最大の戦果を上げていた。
エノクは帳簿を懐にしまい、南の空へと深く頭を下げた。
北の荒野の天秤は目に見えないところで、ゆっくりと、だが決定的に南へと傾き始めていた。




