第325話:『沈黙の代償、共犯者の契り』
凍てつくような北の夜風が、天幕の隙間から細く鋭い音を立てて忍び込む。
『剛石の民』と呼ばれるその部族の野営地は、血の匂いと、脂の焦げる不快な煙、そして弱者を蔑む粗野な笑い声に支配されていた。
天幕の深い影に同化するように、サリムは息を殺していた。
あかぎれでひび割れた両手を、薄汚れた衣の胸元で必死に温める。数日前、族長の機嫌を損ねただけで蹴り上げられた脇腹が、呼吸のたびに鈍く軋んだ。
彼らカナン遺民にとって、この部族での日々は泥を啜るような地獄だ。家畜以下の扱いを受け、暴力と村八分の中で、ただ命を繋ぐことだけを強いられてきた。
広場の中央で、炎が爆ぜた。
覇王の使者がもたらしたという、豪奢な袋。族長はそれを頭上に掲げ、酔ったような声で喚いている。
「見よ! これぞ覇王陛下の下賜された秘薬! 病を払う奇跡の草だ!」
サリムは、奥歯を噛み締めた。
エノク老師から、密かな伝手を通じて彼ら「目」へと下されていた厳命。
『――何が起きようと、ただ見守り、紙に刻め』
あの豪華な袋の中身が何であるか。サリムは知っていた。それが、決して命を救うものではないということを。
族長が、熱に浮かされ呻く戦士や子供たちの口へ、煎じたその汁を流し込んでいく。
サリムは目を伏せようとして、やめた。見届けなければならない。
異変は、数刻と待たずに訪れた。
「……がっ……あァァァァッ!」
静寂を切り裂く、腹の底を掻きむしるような絶叫。
先ほど薬を飲んだ屈強な戦士が、胃液と血の混じった黒い泡を吹き、土の上をのたうち回り始めた。それに呼応するように、あちこちの天幕から、幼い子供の金切り声と、肉親の悲鳴が連鎖していく。
「い、痛いぃぃッ! 腹が、腹が焼けるぅッ!」
「おい、どうした! しっかりしろ! 誰か、水を持て!」
野営地は、瞬く間に阿鼻叫喚の地獄へと姿を変えた。
弱っていた病人は激痛に耐えきれず、次々と白目を剥いて痙攣し、動かなくなっていく。
族長は血走った目でその惨状を見下ろし、震える手で空の袋を握りしめた。
「ば、バラクめ……! あの老いぼれ、秘薬と偽って我らを毒殺する気か……!」
ヴィクトルの思惑通り、族長の憎悪は完全にバラクへと向けられていた。
樽の陰にうずくまるサリムの肩が、小刻みに震えていた。
恐怖ではない。
助けを求める悲鳴を聞き、彼の喉の奥まで「それは毒だ」という言葉がせり上がった。だが、言葉は氷のように固まって出てこない。
もし今、自分が飛び出して真実を告げればどうなるか。
『カナン人が妙なことを吹き込んだ』と、怒り狂う族長の刃で真っ先に首を刎ねられるだろう。それだけではない。背後にいるエノク老師、そして、カナンを取り戻すと約束してくれた、あの銀の仮面の軍師の盤面を、完全に破壊してしまう。
サリムは、ぎゅっと目を閉じた。
その時、彼の脳裏をよぎったのは、慈悲ではなかった。
昨日、無抵抗な同胞が笑いながら鞭打たれた光景。奪われた故郷。踏みにじられた女神像。
(……苦しめ)
胸の奥底から、泥のように黒く、どろりとした感情が湧き上がってくる。
(お前たちも、俺たちと同じ痛みを味わえばいい。血を吐いて、絶望の中で死んでいけ……!)
口の端が、無意識に歪んだ。
どす黒い歓喜と、見殺しにする罪悪感。二つの感情がサリムの魂を両側から引き裂き、彼は声にならない嗚咽を漏らしながら、ひび割れた手で顔を覆った。歯の根が合わず、カチカチと乾いた音が鳴る。
その時。
不意に風が止み、サリムの背後に、音もなく温かい影が落ちた。
「――よく、耐えた」
耳元で、落ち葉が擦れるような低い声が囁かれた。
ビクリと身を強張らせるサリムの震える両手を、もう一回り大きな、分厚い布を纏った手がそっと包み込んだ。
エノクが放った、カナンの暗部。その『影』は、サリムの抱える醜い歓喜も、耐え難い罪悪感も、全てを肯定するように力強く彼の手を握った。
「お前のその震えが、痛みが、我らの故郷を……カナンを取り戻すための礎となる」
影は、サリムの懐に、新しいインク瓶と滑らかな紙を静かに滑り込ませた。
「もう少しの辛抱だ。……全てを、その目に焼き付け、記録しろ。我らの夜明けは、近い」
影はそう言い残すと、来た時と同じように、夜の闇へと溶けて消えた。
サリムは、手渡された紙の感触を確かめ、ゆっくりと顔を上げた。その瞳から迷いは消え、冷徹な記録者の光が宿っていた。
彼は凍える指でペンを握り、カリカリと、ただ事実だけを紙に刻み込んでいく。
『いつ、どの使者が、どの部族に、どれだけの毒を持ってきたか』
『そして、その毒がどれほどの命を奪ったか』
それは、覇国の悪逆非道を示す揺るぎない証拠であり、彼ら自身が背負う十字架でもあった。
◇◆◇
一方、事前の警告により『紫の袋』の本物の薬草を手に入れ、毒を回避した部族の野営地。
族長の天幕では、凍りつくような沈黙が落ちていた。
足元には、覇国から配られた薬を飲まされ、口から泡を吹いて絶命した数頭の羊が転がっている。
「……覇王は、我らを……間引く気か……」
族長は血の気を失った顔で、震える指を羊の死骸に向けた。
その対面。天幕の影に立つカナンの男は、サリムとは違う、研ぎ澄まされた工作員の顔で静かに囁いた。
「……覇国の毒牙は、防げましたな。ですが、これでお終いではありません」
男の冷徹な声が、族長の心臓を掴む。
「覇国は、貴方がたが薬で苦しむことを期待しています。もし、この部族だけが無事であることが知れれば、どうなるか」
「なっ……」
族長が息を呑む。
「『バラクから本物の薬を隠し貰っていた逆賊』として、討伐軍を向けられるでしょうな」
「な、ならばどうすれば良いのだ!」
「……お芝居をしていただきます。覇王の薬を飲み、多大な被害が出た、と。……他の部族と同じように」
男は、氷のような目で族長を見据えた。
「偽の死人の数、苦しむ者の様子。全て、我々が台本を用意します。覇国の使者が視察に来た際は、その通りに恨み言を並べ、バラクを呪ってみせてください」
族長の額に、冷たい汗が滲んだ。
それは、覇国を完全に欺くための「共犯関係」への誘いだった。一度この嘘をつき通せば、もはや後戻りはできない。嘘が露見すれば、部族ごと皆殺しにされる。
だが、彼らの命を救ったのは覇国ではなく、バラクと、目の前のカナン人なのだ。
族長は目を閉じ、深く、重い息を吐き出した。
「……分かった。地獄の底まで、貴殿らの筋書きに付き合おう」
共通の秘密と、命の恩義。
それらが強固な鎖となり、北の荒野にヴィクトルの計算を遥かに超えた「見えざる同盟」が、静かに、しかし鋼鉄の強度で結成されていった。




