第324話:『紫の盾、空回りする毒牙』
木桶に張られた水は、表面に薄く氷の膜を張るほどに冷え切っていた。
覇国の本拠地、その一角に急ごしらえで設けられた薬師寮。隙間だらけの天幕を北風が容赦なく揺らし、むせ返るような泥の匂いと、薬草の青臭さが冷気に混じって澱んでいる。
「……クソッ、洗っても洗っても、泥水しか出ねえ!」
凍傷で赤黒く腫れ上がった手をさすりながら、一人の薬師が吐き捨てるように悪態をついた。
彼の目の前には、バラクが献上した『星影草』が、ただの土くれの塊のように無造作に積み上げられている。泥を落とし、刻み、乾燥させ、さらに覇王の威光を示す豪奢な袋へと詰め直す。その終わりなき単純作業が、彼らの指先の感覚と精神を削り取っていた。
ザクッ、と。
天幕の入り口の霜を踏み砕く、硬質な足音が響いた。
風の音が一瞬止み、ランプの炎が大きく揺らぐ。
影が、落ちた。
ヴィクトル・フォン・ローゼンベルク。
彼の銀縁眼鏡が揺らめく炎を冷たく反射し、泥に這いつくばる薬師たちを射抜いた。
「……作業の進み具合はどうですか」
声に温度はない。だが、その一言で薬師たちの肩がびくりと跳ね、作業の手が止まった。
「さ、参謀殿……! は、はい、なんとか……」
薬師の長が、脂汗を滲ませながら頭を垂れる。
ヴィクトルは土にまみれた床を避けるように優雅な足取りで近づくと、懐から小さな白い紙の包みをいくつか取り出した。カサリ、と乾いた音を立てて、それを作業台の上に置く。
「では、仕上げです。これから私が指定する『特定の部族』へ送る袋にだけ、これを均等に混ぜなさい。……彼らの忠誠を試すための、覇王陛下からの『特別なしつらえ』です」
薬師が震える指で包みを開く。中に入っていたのは、細かく挽かれた灰緑色の粉末だった。
その特有のツンとした匂いを嗅いだ瞬間、薬師の顔から一気に血の気が引いた。
「こ、これは……激しい嘔吐と腹痛を引き起こす毒草……! いくらなんでも、これを弱り切った病人に飲ませれば、最悪の場合は……!」
「命に別状はありませんよ。ただ、少しばかり『苦しむ』だけです」
ヴィクトルの声は、まるで明日の天気を語るように平坦だった。
「バラクが持ち込んだ薬は、民を害する劣悪な毒だった。……そういうことですよ。分かりますね?」
抗えば、ここで首が飛ぶ。
薬師は奥歯をガチガチと鳴らしながら、ただ深く、絶望のままに頷くしかなかった。
ヴィクトルの口角が、ゆっくりと三日月の形に歪む。
(……これでバラクは終わりだ。民を毒牙にかけた逆賊として、北の大地から永遠に消し去ってやる)
自らの描いた完璧な悲劇。その甘美な結末を想像し、彼は鼻腔の奥で冷たく笑った。
◇◆◇
数日後。
鉛色の雲が垂れ込める荒野を、覇国の使者たちが土煙を上げて駆け抜けていた。
「覇王陛下より、恩賜の薬である! ひれ伏して受け取れ!」
傲岸な怒号と共に、豪華な刺繍が施された袋が、凍てついた土の上に次々と投げ捨てられる。
クルガンへの忠誠が厚い部族には「本物の薬」が。
そして、バラクと親交の深い部族、あるいは不満分子と目される部族には、ヴィクトルの手による「毒入りの薬」が。
使者たちの馬蹄が遠ざかり、砂塵が風に流されていく。
静寂を取り戻した野営地の一角、族長のゲルの中では、重苦しい空気が立ち込めていた。
卓上には、二つの袋が並んでいる。
一つは、先ほど使者が投げ捨てていった覇国の豪奢な袋。
もう一つは、数日前に名もなき行商人——カナン遺民——が、夜陰に紛れて置いていった、粗末な麻袋。その口は、鮮やかな『紫の紐』で固く結ばれている。
族長は、腕を組んだまま、その二つの袋をじっと睨みつけていた。
彼の脳裏に、行商人が去り際に残した、氷のように冷たい囁きが蘇る。
『……覇国から配られる薬には、何が混ざっているか分からない。必ず最初に家畜で試せ。紫の袋以外のものを、絶対に人間が先に口にしてはならない』
「……族長。いかがなされますか」
側近が、息を殺して問う。
「……試す」
族長は顎でしゃくった。
側近が覇国の袋を解き、中の根を煮出す。立ち上る湯気は一見普通の薬草のそれに思えたが、よく嗅げば、土の匂いの中に微かに鼻を突く異臭が混じっていた。
ゲルに連れてこられたのは、もはや長くないであろう痩せこけた老羊だった。
側近が無理やりその口をこじ開け、煮出した汁を流し込む。
一刻の、重い静寂。
風が天幕を揺らすバタバタという音だけが響いていた。
不意に、羊の体がビクンと大きく跳ねた。
「メェェェェッ!」
それは鳴き声というより、喉をかき毟るような悲鳴だった。羊は四肢を硬直させてその場に倒れ込み、口から大量の白い泡を吹き始めた。白目がむき出しになり、腹部が異様な痙攣を繰り返す。
もがき苦しむこと数分。やがて羊は大きく体を反らせた後、完全に動かなくなった。
「…………」
誰も、言葉を発することができなかった。
死に絶えた羊を見下ろす族長の顔から、血の気が完全に失せている。だが、その顔色は瞬く間にどす黒い怒りへと変わっていった。
「……なんという、ことだ……」
側近の震える声が、静寂を破る。
「我らを救うといいながら、平然と毒を配り……それをバラク殿のせいにするつもりか!」
ギリッ、と。
族長の奥歯が鳴る音が、はっきりと聞こえた。
卓上に置かれた覇国の袋を掴むその手は、怒りで白く、激しく震えている。爪が手のひらに食い込み、微かに血が滲んでいた。
「……クルガンめ……ヴィクトルめ……!」
獣のような低い唸り声。
彼らの心に、覇国に対する恐怖はもうない。あるのは、自らの民を平然と毒殺しようとした者への、底なしの憎悪だけだった。
同時に、彼らの視線はもう一つの袋――『紫の紐』へと注がれる。
もし、あの警告がなければ。今頃、愛する家族が、民が、あの羊のように泡を吹いて死んでいたのかもしれない。




