第323話:『軍師の苦悩と、甘い警告』
卓上のカンテラが、夜の冷気に震えて橙色の光を爆ぜさせた。
『枯れたオアシス跡』でのエノク老師との会談を終え、北壁の砦へ帰還した後のこと。
「うーん……うーん……」
私室のテーブルに突っ伏し、私は両手で頭を抱え込んでいた。
北壁の砦、軍師の私室。そこに広げられた北方地図の上を、小柄な少女の指先が、獲物を追う蜘蛛のように這う。
盤面は、私の描いた絵図通りに進んでいる。
「…………」
沈黙が重く室内におりていた。
私の脳裏では今、幾百キロも先の『黒の宮殿』が鮮明に組み上がっている。ヴィクトルの怜悧な眼鏡の奥、温度を欠いたあの灰色の瞳。彼が屈辱をただ呑み下すはずがない。配給、管理、名声――散らばるパズルが最悪の形に組み合わさっていく。
(必ず、バラク殿を失脚させるための罠を仕掛けてくる……!)
ふと、視界の端で銀色が閃いた。
スッ、と音もなく差し出されたフォークの先で、深紅の苺が濃厚なカスタードの海に沈んでいる。
「あむっ」
条件反射で口が開いた。
芳醇な甘みが舌の上で爆ぜる。だが、私の意識はその味を「幸福」と定義するより早く、再び北の泥濘へと引き戻された。
ヴィクトルがバラクから奪い取ったのは、ただの泥だらけの根ではない。それは「生殺与奪」という名の主導権だ。ならば、その中身を、あの男ならどう書き換えるか。
答えは一つしかなかった。
ガタッ、と。
椅子の脚が床を鳴らし、部屋の静寂を鋭く引き裂いた。
ちょうどその時、背後の扉ノックされ、一人の巨漢が滑り込んできた。
シュタイナー中将。
扉を開けたヴォルフラムさんに目配せされた彼は、地図に齧り付く私の背中と、機械的に食事を運ぶクララの姿を一瞥し、すべてを察したようにセラへと片手を挙げた。寄ろうとしたセラの動きを無言で制し、さらにクララへ向かって「そのまま続けろ」と顎で合図を送る。
私は、その巨大な影にも気づいていなかった。
背筋を駆け上がる悪寒。喉の奥に、鉄の味がせり上がってくる。
毒。バラクを救世主から大罪人へ叩き落とすための、最も安易で最も効果的な劇薬。
「……リナ様。次はこちらのピンクを。あーん」
「もごっ……」
思考の加速に合わせて滑り込んできたマカロンを、私は必死に咀嚼した。もどかしさに胸をかきむしりながら、虚空を睨み据える。
「……ゲッコーさん」
タペストリーの影から、夜そのものが剥がれ落ちるように影が形を成した。
「……はっ」
「ナディムさんたちに伝えてください。……全土に、『警告』を流すのです」
私は口の端にマカロンの粉をつけたまま、カンテラの火を真っ直ぐに射抜いた。
「『覇王の薬は家畜から』。……絶対に人間が先に飲んではならないと。あらゆる部族の長の耳に届けて......」
ゲッコーが頷こうとした、その瞬間。
私の思考の歯車が、軋みを検知した。
脳裏を掠めるのは、エノクの深く刻まれた皺。そして、あの本拠地を蠢く、略奪を娯楽とするような戦士たちの姿。
カナン人を家畜のように扱う部族に、この「警告」を届けたらどうなるか。
彼らは感謝ではなく、密告を対価にするだろう。そうなればエノクは、そして蜘蛛の巣のように張り巡らされた同胞たちは、明日には雪を紅く染める骸となる。
私は喉元まで出かかった言葉を、物理的な重みと共に飲み込んだ。
テーブルの下。膝の上で小さな手が、白くなるほど握りしめられている。
伝えるか。伝えないか。
それは、誰を見捨てるのかを、この手で選別することに他ならない。
「……リナ様?」
ゲッコーの、感情を排した静かな声。
私は彼と目を合わせることができなかった。視線は、皿の上で半分に割れたマカロンの、その無残な断面へと逃げた。
「……ゲッコーさん。……エノク老師に、こう。……『情報の漏洩、組織の安全を最優先にせよ』と」
私は一度、目を強く閉じた。
「……伝えるべき部族。伏せるべき部族。……その判断は、……エノク老師の裁量に委ねます」
語尾が、か細く震える。
私は、決定の責任を、あの苦労しきった老人の肩に押し付けた。誰かを切り捨てるという「汚れ」を。
影が闇へ消える気配がした。
だが、私の意識は依然として、暗い後悔の底に沈んだまま動けずにいた。
「――何をボサッとしとるかッ!!」
突如、鼓膜を震わせる怒号が落ちてきた。
爆風に煽られたかのように、私の意識が強制的に現実へ引き戻される。
「ひゃ、ひゃい!?」
驚愕に跳ねた視界を、巨大な影が覆い尽くした。
いつの間にか、シュタイナーが私の目の前に仁王立ちしていた。岩のような顔面が、鼻先が触れそうな距離まで迫っている。
「良い目じゃったぞ、リナ! 迷い、もがき、泥を啜ってでも勝とうとする。それが戦場に立つ者の面構えじゃ!」
言い落とすと同時に、丸太のような太い腕が伸びた。
私の頭を鷲掴みにし、わしわしと力任せに掻き回す。
「あ、ひゃい、あが、あがががっ!」
クララの手で完璧に整えられていた私の髪は、彼の大きな手のひらの中で容赦なく掻き乱され、一瞬にして爆発したような有様になっていく。
「非情になりきれんのは、貴様に『心』があるからじゃ。だが、責任を他人に預けたなら、その相手が背負うた以上のものを、貴様が盤の上で返してやるのが礼儀というもんじゃろうが!」
頭蓋ごと揺さぶられる衝撃。
あまりの荒っぽさに、先刻まで私を苛んでいた沈痛な罪悪感が、物理的に脳から振り落とされていく。
「ち、中将……あたま、頭がもげますっ……!」
私が涙目で抗議すると、シュタイナーは満足げに手を離した。
私の頭上には、ボサボサに逆立った「たてがみ」だけが残り、セラが「もう、中将閣下ったら……」と苦笑しながらブラシを手に歩み寄ってくる。
シュタイナーは、ひしゃげた苺タルトの皿を一瞥し、それから真っ直ぐに私の目を見た。
「……悩み、選び、そして食え。それでこそ、この北壁を背負う資格があるというもんじゃ」
その言葉は、どんな戦略指南よりも重く、私の冷えた胸の内に確かな灯を点した。
髪を直されながら、私は小さく、深く呼吸する。
私の出した「警告」は、今この瞬間も、影を伝って北へと走っている。
誰かを救い、誰かを捨てる。その業を背負ったまま、私はまた一口、セラが差し出した温かい紅茶を、今度は自分の意思で啜った。




