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ようこそ、最前線の地獄(職場)へ。 私、リナ8歳です ~軍師は囁き、世界は躍りだす~  作者: 輝夜
第十一章:『一年という名の礎』

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第323話:『軍師の苦悩と、甘い警告』

 

 卓上のカンテラが、夜の冷気に震えて橙色の光を爆ぜさせた。

『枯れたオアシス跡』でのエノク老師との会談を終え、北壁の砦へ帰還した後のこと。


「うーん……うーん……」

 私室のテーブルに突っ伏し、私は両手で頭を抱え込んでいた。

 北壁の砦、軍師の私室。そこに広げられた北方地図の上を、小柄な少女の指先が、獲物を追う蜘蛛のように這う。

 盤面は、私の描いた絵図通りに進んでいる。


「…………」


 沈黙が重く室内におりていた。

 私の脳裏では今、幾百キロも先の『黒の宮殿』が鮮明に組み上がっている。ヴィクトルの怜悧な眼鏡の奥、温度を欠いたあの灰色の瞳。彼が屈辱をただ呑み下すはずがない。配給、管理、名声――散らばるパズルが最悪の形に組み合わさっていく。

(必ず、バラク殿を失脚させるための罠を仕掛けてくる……!)


 ふと、視界の端で銀色が閃いた。

 スッ、と音もなく差し出されたフォークの先で、深紅の苺が濃厚なカスタードの海に沈んでいる。


「あむっ」


 条件反射で口が開いた。

 芳醇な甘みが舌の上で爆ぜる。だが、私の意識はその味を「幸福」と定義するより早く、再び北の泥濘ぬかるみへと引き戻された。


 ヴィクトルがバラクから奪い取ったのは、ただの泥だらけの根ではない。それは「生殺与奪」という名の主導権だ。ならば、その中身を、あの男ならどう書き換えるか。

 答えは一つしかなかった。


 ガタッ、と。

 椅子の脚が床を鳴らし、部屋の静寂を鋭く引き裂いた。


 ちょうどその時、背後の扉ノックされ、一人の巨漢が滑り込んできた。

 シュタイナー中将。

 扉を開けたヴォルフラムさんに目配せされた彼は、地図に齧り付く私の背中と、機械的に食事を運ぶクララの姿を一瞥し、すべてを察したようにセラへと片手を挙げた。寄ろうとしたセラの動きを無言で制し、さらにクララへ向かって「そのまま続けろ」と顎で合図を送る。

 私は、その巨大な影にも気づいていなかった。


 背筋を駆け上がる悪寒。喉の奥に、鉄の味がせり上がってくる。

 毒。バラクを救世主から大罪人へ叩き落とすための、最も安易で最も効果的な劇薬。


「……リナ様。次はこちらのピンクを。あーん」

「もごっ……」


 思考の加速に合わせて滑り込んできたマカロンを、私は必死に咀嚼した。もどかしさに胸をかきむしりながら、虚空を睨み据える。


「……ゲッコーさん」


 タペストリーの影から、夜そのものが剥がれ落ちるように影が形を成した。

「……はっ」


「ナディムさんたちに伝えてください。……全土に、『警告』を流すのです」


 私は口の端にマカロンの粉をつけたまま、カンテラの火を真っ直ぐに射抜いた。

「『覇王の薬は家畜から』。……絶対に人間が先に飲んではならないと。あらゆる部族の長の耳に届けて......」


 ゲッコーが頷こうとした、その瞬間。

 私の思考の歯車が、軋みを検知した。


 脳裏を掠めるのは、エノクの深く刻まれた皺。そして、あの本拠地を蠢く、略奪を娯楽とするような戦士たちの姿。

 カナン人を家畜のように扱う部族に、この「警告」を届けたらどうなるか。

 彼らは感謝ではなく、密告を対価にするだろう。そうなればエノクは、そして蜘蛛の巣のように張り巡らされた同胞たちは、明日には雪を紅く染める骸となる。


 私は喉元まで出かかった言葉を、物理的な重みと共に飲み込んだ。


 テーブルの下。膝の上で小さな手が、白くなるほど握りしめられている。

 伝えるか。伝えないか。

 それは、誰を見捨てるのかを、この手で選別することに他ならない。


「……リナ様?」


 ゲッコーの、感情を排した静かな声。

 私は彼と目を合わせることができなかった。視線は、皿の上で半分に割れたマカロンの、その無残な断面へと逃げた。


「……ゲッコーさん。……エノク老師に、こう。……『情報の漏洩、組織の安全を最優先にせよ』と」


 私は一度、目を強く閉じた。


「……伝えるべき部族。伏せるべき部族。……その判断は、……エノク老師の裁量に委ねます」


 語尾が、か細く震える。

 私は、決定の責任を、あの苦労しきった老人の肩に押し付けた。誰かを切り捨てるという「汚れ」を。


 影が闇へ消える気配がした。

 だが、私の意識は依然として、暗い後悔の底に沈んだまま動けずにいた。


「――何をボサッとしとるかッ!!」


 突如、鼓膜を震わせる怒号が落ちてきた。

 爆風に煽られたかのように、私の意識が強制的に現実へ引き戻される。


「ひゃ、ひゃい!?」


 驚愕に跳ねた視界を、巨大な影が覆い尽くした。

 いつの間にか、シュタイナーが私の目の前に仁王立ちしていた。岩のような顔面が、鼻先が触れそうな距離まで迫っている。


「良い目じゃったぞ、リナ! 迷い、もがき、泥を啜ってでも勝とうとする。それが戦場に立つ者の面構えじゃ!」


 言い落とすと同時に、丸太のような太い腕が伸びた。

 私の頭を鷲掴みにし、わしわしと力任せに掻き回す。


「あ、ひゃい、あが、あがががっ!」


 クララの手で完璧に整えられていた私の髪は、彼の大きな手のひらの中で容赦なく掻き乱され、一瞬にして爆発したような有様になっていく。


「非情になりきれんのは、貴様に『心』があるからじゃ。だが、責任を他人に預けたなら、その相手が背負うた以上のものを、貴様が盤の上で返してやるのが礼儀というもんじゃろうが!」


 頭蓋ごと揺さぶられる衝撃。

 あまりの荒っぽさに、先刻まで私を苛んでいた沈痛な罪悪感が、物理的に脳から振り落とされていく。


「ち、中将……あたま、頭がもげますっ……!」


 私が涙目で抗議すると、シュタイナーは満足げに手を離した。

 私の頭上には、ボサボサに逆立った「たてがみ」だけが残り、セラが「もう、中将閣下ったら……」と苦笑しながらブラシを手に歩み寄ってくる。


 シュタイナーは、ひしゃげた苺タルトの皿を一瞥し、それから真っ直ぐに私の目を見た。


「……悩み、選び、そして食え。それでこそ、この北壁を背負う資格があるというもんじゃ」


 その言葉は、どんな戦略指南よりも重く、私の冷えた胸の内に確かな灯を点した。

 髪を直されながら、私は小さく、深く呼吸する。


 私の出した「警告」は、今この瞬間も、影を伝って北へと走っている。

 誰かを救い、誰かを捨てる。その業を背負ったまま、私はまた一口、セラが差し出した温かい紅茶を、今度は自分の意思で啜った。


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― 新着の感想 ―
 輝夜さん、こんにちは。 「ようこそ、最前線の地獄(職場)へ。 私、リナ8歳です 第323話:『軍師の苦悩と、甘い警告』」拝読致しました。  予定通り、うまく進んでいる。  そして、相手もそれは分か…
更新お疲れ様です。 『天翼の軍師』としての冷徹な判断、『リナ』としての情の狭間で揺れ動く懊悩・・・・(TT) そこへ人生の先達者としての中将の力強い励まし?が^^ 次回も楽しみにしています。
 頭を使うと、糖分が欲しくなりますものね・・・本能ですね、うん。  リナはまだ子供です、中身は大人かもしれませんが平和な日本で育ったのでは、戦国の世では子供みたいなものです。周囲の大人は、そんな子供を…
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