【追憶の覇道】第7話:『砕かれた女神 ~サーリアの涙~』
注意:数年前の話です
※クルガンの起こり、カナンの受難
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雪混じりの冷たい風がカナンの街を吹き抜けていく。
略奪の嵐が過ぎ去り、かつての黄金の都は見るも無惨な姿を晒していた。壊された家々、泥にまみれた商品。
そしてついに最後まで街に残り、同胞たちの行く末を見届けようとしていたエノクたち長老格にも無慈悲な退去命令が下った。
「さっさと出ていけ! ここは今日から俺たちの兵舎だ!」
兵士に背中を突き飛ばされ、エノクはよろめきながら家を追い出された。
彼が懐に忍ばせているのは金貨でも宝石でもない。隠し金庫から持ち出した一冊の古びた帳簿だけ。それはカナンの歴史と誇り、そして奪われた富の全てを刻んだ彼の魂そのものだった。
◇◆◇
連行される列は街の中央広場へと差し掛かった。
そこには白く滑らかな大理石で彫られた美しい像が、瓦礫の山を見下ろすように静かに佇んでいた。
『交易の女神サーリア像』。
かつて荒れ狂う北方の地に道を拓き、人々に富と秩序をもたらしたとされる伝説の聖女。その慈悲深い面差しは足元の泉と大地を鎮めるポーズと共に、カナンの民が大切にしてきた「知恵と共存」の精神を象徴していた。
エノクたちはその像を見上げるたびに心を奮い立たせ、誇りを取り戻していたのだ。
だが、その広場に不吉な蹄の音が響き渡った。
「――なんだこの弱そうな女は」
ボルガス将軍が巨大な軍馬を像の目の前まで乗り入れ、侮蔑に満ちた声で吐き捨てた。
「こんな石塊に祈っているからお前らは弱いのだ。力こそが全てだというのに」
その傍らでヴィクトルが冷ややかな笑みを浮かべて解説する。
「ボルガス殿。それは彼らの『過去の栄光』であり『心の拠り所』ですよ。……我々が築く新しい秩序には最も不要でかつ邪魔な遺物です」
ヴィクトルがまるでゴミでも捨てるかのように軽く手を振った。
その合図で数人の兵士が土足で像によじ登り、女神の細く美しい首に泥だらけの太いロープを乱暴に巻き付けた。
「やめろッ!」
エノクの喉から悲鳴のような叫びが迸った。
「やめてくれ! それは我らの母だ! 我らの魂だ! その像だけは……!」
彼は兵士の手を振りほどき像の元へ駆け寄ろうとした。だがすぐに別の兵士に足を払われ、泥水の中に無様に転がされた。
他の長老たちも叫びすがりつくが、蹴り飛ばされ嘲笑されるだけだ。
「引けェッ!」
ボルガスの号令と共に数頭の軍馬が一斉に鞭打たれた。
ロープがピーンと張り詰める。
ギギギ……と石が悲鳴を上げるような嫌な音が広場に響き渡り、巨大なサーリア像が台座からゆっくりと傾いた。
そして――。
ズドオオオォォォンッ!
地響きと共に女神像は地面に激突した。
その慈悲深かった首が胴体から無残にへし折れ、砕け散る。
飛び散った鋭い石の破片が泥にまみれたエノクの頬を浅く切り裂いた。熱い血が流れ落ち、冷たい泥と混じり合う。
「ハハハハ! 見ろ! 粉々だ!」
「古い神は死んだ! これからはクルガン様こそが神だ!」
砕けた女神の顔を泥靴で踏みつけにし、クルガン兵たちが勝ち鬨を上げる。その哄笑がエノクの耳を聾する。
エノクは泥にまみれ、見る影もなく砕かれたサーリアの首の破片をただじっと見つめていた。
震える拳を握りしめ、爪が掌に食い込む。
その瞳から涙は消えていた。
代わりに宿っていたのは決して消えることのない黒い復讐の炎だった。
「……よくも。……よくも我らの母を」
カナンという名は地図から消え、街は死んだ。
遺民たちの心には癒えることのない「永遠の呪い」が深く、深く刻み込まれた。
本日は、あと1話投下予定です。
重い話も、後1話。お付き合いくださいませ。




