【追憶の覇道】第1話:『甘い囁き、覇王の慈偽(じぎ)』
注意:数年前の話です
※クルガンの起こり、カナンの受難
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北の冬の夜は、音もなく忍び寄る白い死神だ。
空も大地も凍てつき、刃のように鋭い冷気があらゆる命の熱をじわじわと削ぎ落としていく。
『灰狼の民』の野営地は、その凍える闇の中で静かに息絶えようとしていた。
族長はひび割れ凍傷で黒ずんだ両手で自らの顔を覆っていた。
天幕の隙間から入り込む風が、とうに火の気のない炉の灰を虚しく巻き上げる。外からは寒さに耐えきれなくなった家畜の弱々しい断末魔が聞こえ、やがてそれも途絶えた。
ゲルの外には多くの同胞たちが身を寄せ合い、ただ死を待っている。子供たちは泣く気力すら失い、うわ言を漏らしながら母親の胸に抱かれて静かに冷たくなっていく。
選択肢は二つしかなかった。
夜明けを待たずに隣の部族を襲い、同胞の血にまみれた食料を奪うか。
それとも誇り高くこのまま全部族と共に凍え死ぬのを待つか。
だが飢えた男たちの腕に、もはや槍を振るう力など残っていなかった。
「……もう、終わりか」
族長の掠れた呟きが白く濁って空気に溶けようとした、その時。
ザクッ、ザクッ。
静寂を切り裂き、外の雪を踏みしめる硬質な足音が響いた。
バサリと天幕の厚い布が乱暴に跳ね上げられる。
吹き込んだ猛烈な吹雪と共に、二つの黒い影が姿を現した。
一人は山のように巨大な男だった。
分厚い獣の毛皮を纏い、岩のような体躯から発せられる熱気が周囲の冷気さえも歪ませている。その瞳には凍てつく夜を焦がすような獰猛な光が宿っていた。
もう一人は対照的に細身の男だった。この極寒の地には不釣り合いなほど一分の隙もなく整った身なり。冷たいレンズの奥で灰色の瞳が族長を虫でも見るかのように観察していた。
彼らの背後には松明を掲げた屈強な戦士たちが控えている。その装備は真新しく、彼らの体からは飢えとは無縁の豊かな熱と力が満ち溢れていた。
「な、何者だ……!」
族長は震える足で立ち上がり、腰の短剣に手をかけた。だが指先は感覚を失っており、柄をうまく握ることすらできない。
細身の男――ヴィクトルが優雅な仕草で一歩前へ出た。彼の手には武器はない。
「夜分に失礼いたします、族長殿。我々は救済に参りました」
その声は凍える夜にはあまりに穏やかで、一切の温度を持たなかった。
「救済、だと……?」
「ええ。貴方たちは今、凍え飢え、隣人を殺して肉を奪うか、部族全員でただ死を待つかの淵に立たされている。……悲しいことです」
ヴィクトルは凍りついた炉を見下ろした。
「なぜ奪い合うのです? それは貴方たちが『個』で生きようとするからです。自らの部族、自らの家畜、自らの食料……。個人の所有にこだわるからこそ持てる者と持たざる者が生まれ、理不尽な奪い合いが起きる」
ヴィクトルはレンズを光らせ、族長の心を射抜くように目を細めた。
「その古き悪習を捨て、新しい秩序を受け入れなさい」
「新しい……秩序……」
「全ての家畜、全ての戦士、そして貴方たちの命そのものを我々に預けるのです。そうすれば我々が全体を『管理』し、計算された完璧な配分によって、明日から誰一人飢えることはなくなる」
それは部族の歴史と誇り、そして自由を完全に放棄しろという悪魔の取引だった。
「ふざ……けるな……!」
族長は震える顎を噛み締め、虚勢を張って怒鳴った。
「我ら灰狼の民は、荒野を駆ける誇り高き……!」
その言葉が外から響いた凄まじい絶叫にかき消された。
「奪えェ! 食い物をよこせェェェッ!!」
天幕の外がにわかに殺気に包まれた。
飢えと寒さで正気を失ったはぐれ部族の野盗たちが、死に体の野営地に襲いかかってきたのだ。その声は人間の言葉というより飢えた獣の咆哮に近かった。
族長の顔から最後に残った血の気すらも引き剥がされた。外には戦う力のない女子供と老人たちがいる。
(……終わった!)
彼が絶望に目を閉じたその瞬間。
「――煩い蠅どもだ」
それまで沈黙していた巨漢――クルガンが低く唸った。
彼は背中に負った大剣の柄を掴むと、天幕の入り口を蹴り破り、闇の中へと踏み出した。
暗がりから狂気に駆られた野盗の頭目が、錆びた斧を振りかぶってクルガンに襲いかかる。
クルガンは避けることすらしなかった。
ただ腰を落とし、大剣を片手で横薙ぎに一閃する。
ドグァンッ!
刃が肉を断つ音ではない。鈍い破砕音が響いた。
野盗の頭目の上半身が斧ごと紙屑のように吹き飛び、真っ赤な血飛沫が凍てついた空中に巨大な花を咲かせる。
残された下半身が数秒遅れて冷たい土の上に崩れ落ちた。
その一撃が大気を震わせた。
まるで彼の圧倒的な暴力に世界そのものが呼応したかのように。それまで凪いでいた夜風が突如として狂ったように唸りを上げ、天から無数の白い刃が降り注ぎ始めた。猛吹雪だ。
クルガンの放った覇気が嵐を呼び起こしたかのように雪煙が渦を巻き、彼の血まみれの巨体を禍々しく縁取る。
その人外の力と荒れ狂う吹雪の威容を見せつけられ、狂気に駆られていた野盗たちは一瞬で悲鳴を上げ、蜘蛛の子を散らすように白い闇へと逃げ去っていった。
クルガンは血の滴る刃を無造作に振り払い、振り返った。
吹き荒れる猛吹雪を背に負ったその獣のような瞳が、腰を抜かして座り込む族長を見下ろす。
「見ろ」
地響きのような声が嵐を貫いて響いた。
「これが『力』だ。……俺に従えば、この力が貴様らを理不尽な死から守る盾となる。だが逆らえば、貴様らが今あの雪の上に転がることになる」
族長の顎がガチガチと鳴り、言葉を発することすらできない。
その極限の恐怖の只中で、ヴィクトルの部下たちが天幕の中に火にかけられた大きな鉄鍋を運び込んできた。
蓋が開けられた瞬間。
ブワァッと。
立ち上る濃厚な湯気と共に、獣の脂と肉がたっぷりと煮込まれた暴力的なまでに暴力的な『命の匂い』が凍てついた空気を満たした。
「あ……ああ……」
族長の目から理性が飛んだ。
胃袋が痙攣し、限界を超えて乾ききった口内に溢れんばかりの唾液が湧き出す。彼の視線はもはやクルガンの凶刃ではなく、鍋の中で煮えたぎる肉塊にのみ釘付けになっていた。外の同胞たちもこの匂いに導かれるように天幕の周りに集まり、虚ろな目で中を覗き込んでいる。
目の前に突きつけられた絶対的な死の恐怖と、命を繋ぐ圧倒的な熱。
ヴィクトルは懐から白く滑らかな一枚の紙を取り出し、卓の上に静かに広げた。
「さあ、署名を。これは我々が共に生きるための『共栄の誓約』です。……サインをすれば、この温かいスープはすべて貴方たちのものだ」
族長はもう何も考えられなかった。
荒野を駆ける誇りも先祖代々の歴史も、立ち上るスープの匂いとクルガンの暴力の前に粉々に砕け散っていた。
彼は四つん這いになって卓にすがりつき、涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら自らの親指を震える短剣で浅く切り裂いた。そしてその血で紙に乱れた印を押した。
「う、うう……ありがとう……ありがとうございます……!」
許可が出た瞬間、族長は震える手で熱い肉を掴み、口へと運んだ。
咀嚼する余裕すらない。ただ飲み込み、喉を焼く熱さと共に生きている実感だけを貪る。その姿はかつての誇り高き長ではなく、ただ生にしがみつく一匹の老いた獣だった。外で待つ部族民たちにも鍋が振る舞われ、彼らの啜り泣きと感謝の声が吹雪の中に木霊した。
ヴィクトルはその光景を眼鏡の奥で冷たく見下ろしながら微笑んだ。
「賢明な判断です」
彼は血判の押された紙を丁寧に折りたたみ、懐にしまう。
「これで貴方たちは、飢えという名の『自由』から永遠に解放されました」
外ではクルガンの覇道の前途を祝すかのように、猛吹雪が荒れ狂っている。




