第318話:『軍師の反省、猛将の条件』
北壁の砦、軍師の執務室。
暖炉の火がぱちぱちと爆ぜる音だけが響くその部屋で、私は手にした報告書を見つめたまま凍りついたように動けずにいた。
「…………」
紙を持つ指先が微かに、しかし止めることのできない震えを帯びている。
ナディムさんを通じカナンの情報網から届けられたヴォルガルド本拠地における事の顛末。
バラク殿による泥食いの演説。ガルド将軍の完璧な介入。それによってヴィクトルの策が粉砕されバラク殿が無事に帰還の途についたという『結果』は喜ばしいものだった。
だが私の背筋を凍らせたのはその『過程』に記されていた事実だ。
――ヴィクトルの執務室に運び込まれた血を洗い流すための大量の乾いた砂。
――密室での処断を前提とした薬師と処刑人の極秘手配。
私はヴィクトルが何らかの罠を仕掛けてくるだろうと予測し『蛇の暴走に備えよ』と警告は出していた。だがそれはあくまで「計算上のリスク」としての警告に過ぎなかった。
ヴィクトルという男の理屈を超えた焦燥。盤面をひっくり返された時の陰湿で暴力的な殺意。それを私は甘く見積もっていた。
「……私の読みが甘かった」
絞り出すように漏れた声はひどく掠れていた。
「エノク老師の機転がなければ……現場で異変を察知しガルド将軍を動かしてくれていなければ。バラク殿はあの門をくぐった瞬間に有無を言わさず殺されていました。……私の失策で彼を死地に追いやってしまっていた」
他人の命を盤上の駒として扱うことの真の恐ろしさ。
完璧だと思っていた自分の策が現場の機転に救われたという事実が軍師としての重責となって両肩にのしかかる。
私はゆっくりと顔を上げ部屋に控える面々を真っ直ぐに見据えた。
セラさん、ヴォルフラムさん、ゲッコーさん、シュタイナー中将、アイゼンハルト監査官。そして壁際には固唾を飲んで立ち尽くすユリウス皇子たち三人の姿もある。
「――エノク老師と直接お会いしたいのです」
その言葉に部屋の空気がピリリと張り詰めた。
「感謝を伝えるためだけではありません。これから激化するヴィクトルとの知略戦において現場の空気と敵の呼吸を肌で感じ取れるエノク老師との直接連携は必要不可欠です」
私は椅子から立ち上がった。
「あちらは敵地の懐深くで命を懸けている。呼びつけるわけにはいきません。私が密かに前線まで出向きます」
「なりませんッ!!」
最初に声を荒らげたのはセラさんだった。その翠の瞳にはかつてないほどの焦燥が浮かんでいる。
「今回の件で敵地がどれほど危険かお分かりになったはずです! 相手は理屈も通じず手段を選ばぬ毒蛇なのですよ!」
「セラ殿の言う通りであります!」ヴォルフラムさんも剣の柄を握りしめながら一歩前に出た。「軍師殿が動けば護衛も増えかえって目立ちすぎます!」
「……正気ですか。リスク管理が全くできていない」
壁際で腕を組んでいたアイゼンハルトさんが呆れ果てたように冷ややかなため息をついた。
「たかが情報網の一端を担う老人のために軍の最高顧問が前線へ赴く? 費用対効果どころか万が一の損失を考えれば愚策中の愚策です」
正論の嵐。
ユリウス、レオン、ゼイドの三人はその息詰まるような激論の前に完全に圧倒され、ただ壁際で立ちすくむことしかできなかった。誰もが国を思いリナを思っているからこそ衝突する一歩も引かぬ本物の修羅場。そこにまだ彼らが踏み込める隙間はない。
だが私の意志は揺るがなかった。かつてあの薄暗いオフィスで、安全な席から数字だけを追い、現場で磨り減っていく部下の悲鳴を黙殺した「上司」たち。彼らと同じ轍は絶対に踏まないと誓ったのだから。
「それでも行かねばなりません。彼の声を聞かなければ次は本当に誰かが死ぬ」
私が言い返そうとしたその時だった。
「――ゲッコー」
地を這うような重厚な声が響いた。
シュタイナー中将だ。彼は腕を組んだままギロリと部屋の隅の影を睨みつけた。
「貴様、どこまでであれば『絶対の安全』を保証できる?」
その問いにセラさんとヴォルフラムさんが弾かれたように振り返った。
「中将!? それは……!」
「良いから黙っておれ」
シュタイナーは二人の制止を分厚い掌で押し留めるように払った。
「こうなったこ奴はもう止まるまい。……腹をくくれい」
中将の岩のような貌にふっと老練な笑みが浮かぶ。
「ならば我々大人が、『あいつが死なないギリギリの線』を引いてやるのが仕事というものであろうが」
その言葉に猛反対していたセラさんもアイゼンハルトさんでさえも息を呑み押し黙った。
ゲッコーさんは音もなく進み出ると卓上の地図のある一点を短剣の鞘で指し示した。
「……ここならば」
彼が指したのは帝国国境と覇国の勢力圏のちょうど中間。険しい岩山に囲まれた地図にも載っていないような枯れたオアシス跡だった。
「我が部隊を先行させ岩山の隙間を完全に封鎖します。鼠一匹通さぬ聖域を作り上げることは可能です」
シュタイナーは深く頷き私の方へと向き直った。
その双眸は祖父のような温かさと軍司令官としての厳しさを併せ持っていた。
「良いか、天翼の軍師殿。ここが限界だ。これ以上北へは一歩も進ませぬ」
中将は地図上のその点をドンと指で叩いた。
「なに、ゲッコーが安全という所までだ。そのエノクとかいうお方にはそこまで足を運んでもらわねばならんが……それも含めてカナンの民のネットワークとやらと併せて確認できるか?」
それは私の意志を尊重しつつも命を守るための絶対の防衛線だった。
「……もしそれで調整できなかった場合は大人しく諦めよ。なに、直接会えずとも感謝は伝えられるじゃろう?」
これ以上は絶対に譲らない。その断固たる決意が声の重みから伝わってくる。
私は胸の奥が熱くなるのを感じた。
私の無茶を止めるのではなく、無茶を通すための最善の道をこの猛将は身を挺して作ってくれたのだ。
私は姿勢を正し深く深く頭を下げた。
「……感謝します。シュタイナー中将」
顔を上げた私の瞳には反省の陰りは消え再び盤面を見据える軍師の強い光が宿っていた。
「ゲッコーさん。すぐにナディムさんへ連絡を。エノク老師との極秘会談の調整をお願いします」
「……御意に」
作戦室の空気が再び未来へ向かって動き出した。
次から、予告通りクルガンの起こり、カナンの受難 を少し挟みます。
輝夜




