第312話:『荒野の三文芝居と、過保護な休息』
覇国の騎馬隊が巻き上げた土煙が、地平線の彼方へと完全に消え去った。
風の音だけが響く静寂の中、野営地の外れにある治療用天幕の前では、先程まで血を吐くような怒号を上げていた戦士たちが、まだ痛みに顔を歪めたまま横たわっていた。
やがて、見張りの若者が小さく手を振る。
「……行ったか?」
「……ああ、行ったな」
その言葉を合図に、張り詰めていた空気が一気に弛緩した。
「ぶはっ! 見たかよ、あの甲冑野郎のマヌケ面! すっかり騙されやがって!」
腕を吊っていた大柄な戦士が包帯を巻いたまま腹を抱えて笑い出した。
「いやぁ、それにしても痛ぇのなんの。帝国の連中、演習だってのに本気で殴りかかってきやがったからな」
足を怪我している男が痛むスネを擦りながらぼやく。
「お前、あの女騎士に木剣で吹っ飛ばされた時、三回転半くらい回ってたぞ! 見事な負けっぷりだったぜ!」
「うるせえ! お前だって、あの巨漢の将軍に足払い食らって顔から泥水に突っ込んでただろうが!」
「がっはっは! 違いねえ! あいつら、本当に人間かよ!」
彼らは自分たちが負った「名誉の負傷」を、まるでお祭り騒ぎの武勇伝のように自慢し合い、笑い声を響かせた。あの恐るべき帝国軍と本気で打ち合い、生きて帰ってきたのだ。彼らにとって、この痛みはある種の勲章のようなものだった。
「――何をへらへらしている!」
その和やかな空気を、鋭い一喝が切り裂いた。
振り返ると、険しい顔をしたアランが立っていた。その瞳には父が覇王の元へ連れ去られたことへの強い懸念と、覚悟が入り混じっている。
「良いか、お前たち! 覇国の目はどこにあるか分からんのだ! 常に密偵が潜んでいると思え!」
アランの厳しい視線に戦士たちは慌てて笑いを収め、姿勢を正そうとする(怪我のせいで不格好ではあったが)。
「我々は今、帝国と血みどろの戦いを繰り広げている最中なのだぞ! それを自分たち自身が本気で信じ込めるほどに、演技を続けろ! 族長が命がけで敵地に乗り込んでいる時に、お前たちの油断で全てを水泡に帰す気か!」
その言葉に戦士たちはハッと息を呑み、自らの軽率さを恥じるように顔を見合わせた。
「……す、すまねえ、アラン隊長」
「分かった。……俺たちは、帝国と戦っている! 憎き帝国とな!」
彼らは互いに力強く頷き合うと、再び「痛みに耐える戦士」の顔を作り始めた。
「……い、痛てぇ……! くそっ、帝国の奴らめ……!」
「……俺たちの血で、あの白い壁を、その……赤く、染めてやるぞ……!」
先程までの威勢の良さはどこへやら、どこか照れくさそうに、ぎこちない棒読みで恨み言を呟き始める戦士たち。
アランは頭を抱えそうになったが、これ以上は無理だと諦め、「……まあ、声のトーンは先程の感じで頼む」とだけ言い残し、足早にその場を去っていった。
◇◆◇
その頃、北壁の砦、私の私室。
私は窓辺のソファに深く身を沈め、目を閉じていた。手元にはアランから届けられたばかりの暗号文がある。
『――計画通り。覇国の調査隊が来訪し、薬草を接収。父バラクも同行し、覇王の元へ。……父の身が案じられます。我々はどう動くべきでしょうか』
(……よかった)
アランの不安には申し訳ないが、私は密かに安堵の息を長く吐き出した。
バラク族長は私の仕掛けた『紫の袋』の意図を完全に理解し、期待通りの完璧な立ち回りを見せてくれた。彼ならば必ずこの意図に気づき、最も効果的なタイミングで自ら動いてくれると踏んでいたのだ。
私は傍らに控えるセラさんに声をかける。
「セラさん、アラン殿へ返信を。『バラク族長の行動は、私の目から見ても完全に理に適った最善手です。どうか彼を信じてあげてください。彼は必ずうまく対応するでしょう。あなたは焦らず、予定通り部族の統率と負傷者の治療に専念してください』と」
セラさんが頷き、暗号の作成に取り掛かるのを見届けると、私は再び思考の海に深く潜った。
盤面は次の段階へと進む。
皇帝陛下たちからもたらされた敵参謀ヴィクトルの性格や策の傾向を、脳内で反芻する。
(ヴィクトル……圧倒的優位な立場から、どう転んでも自分たちに利があるような冷徹な策を好む男。……彼があの薬草の存在を知って、ただ静観するはずがない。必ず、薬草を『覇王の恩賜』として一括管理し、配給するよう指示を出すはずだと予想していたけれど……)
ここまでは私の描いた絵図通りだ。
問題は、この先。
もし、クルガンがただ普通にその薬草を民に配るだけなら、それで良い。バラク族長の「民を救う薬を見つけた」という功績と発言力が、覇国内で高まるだけのことだ。わたしにとっても、北方諸族が救われるのであれば結果として悪くない。
(……でも、あの陰湿な策士ヴィクトルが、バラクの威信が高まるような展開を良しとするはずがない。バラクの力を削ぎ、陥れるために、必ず何か陰湿な策を講じてくるはず)
十中八九それは「バラクが献上した薬の無効化」、あるいは「有害化」だろう。
バラクから回収した薬草に何らかの手を加え、「バラクの薬は偽物だった」あるいは「毒だった」と流布し、彼を失脚させる。
(もし、それを成すというのであれば……)
被害に遭われる民には申し訳ないけれど、それに対してこちらから事前に防ぐことは難しい。こればかりは、あの『紫の袋』の警告を信じてもらうしかない。
特に、もしすり替えられたものが「毒」であった場合、どうしようもない。
(……どうか、亡くなる人が出ないことを祈るばかり……)
ぎゅっ、と拳を握りしめる。
(もし……もし本当に、罪なき民に『毒』を盛るような真似をするのなら……)
私の胸の奥で、静かな、けれど決して消えることのない怒りの炎がめらめらと燃え上がった。
(……その時は絶対に容赦しない)
「あーん」
口元には甘い香りが漂っていた。
私の口が無意識にぱくりとそれを迎え入れている。
しっとりとしたスポンジと、濃厚な生クリーム、そして甘酸っぱい苺の風味。
(……ん、美味しい……。そう、もしヴィクトルが動くなら、彼らがどう動くのかを監視する目を、もっと密にしなければ……)
もぐもぐと咀嚼しながら、私は怒りの炎を思考のエネルギーへと変換していく。
「紅茶もどうぞ、リナ様」
すっと差し出されたカップに口をつける。温かく、香り高いダージリンが、思考で熱くなった頭をすっきりとさせてくれる。
「あーん」
再び口元に運ばれるケーキ。
ぱくり。もぐもぐ。
(……うん。まずは『アルゴス』との連携を密にして、ナディムさんの動きのサポートね。それから……)
そこまで考えたところで、私はふと口の中の甘さに意識を引き戻された。
(……あれ? 私、ケーキ食べてる?)
周りを見回すと、そこには満面の笑みを浮かべたクララさんと、数人の侍女たちが私を囲んでいた。
クララさんの手には美しい銀のフォーク。
他の侍女たちはナプキンを持ったり、紅茶のポットを掲げたり、あるいはただ両手を頬に当ててうっとりと私を見つめたりしている。
「……あの、クララさん?」
「はい、リナ様。とても集中しておられましたので」
彼女は完璧な微笑みで、まるでそれがこの世の理であるかのように言い放った。
「さあ、もう一口、あーん」
差し出されるフォーク。
背後からは、「思考されるお姿も、なんて愛らしい……!」「ええ、今ですわ! 侍女としての務めを果たすのです!」「尊いですわ……!」という、侍女たちの生温かいヒソヒソ声が聞こえてくる。
(――しまった! 油断した!)
私が考え事に集中している隙を突いて、彼女たちは「お世話するチャンス!」とばかりに包囲網を敷いていたのだ。
「い、いや、もう大丈夫ですから! 自分で食べます!」
私は慌ててフォークを受け取ろうとするが、クララさんはひらりとそれを躱した。
「いけません、リナ様。まだお皿の半分も召し上がっておられませんよ。さあ、あーん」
私は顔を真っ赤にして、扉の前に控えているヴォルフラムさんに助けを求める視線を送った。
だが、最強の盾であるはずの彼女は、クララたちの「リナ様お世話タイム」を邪魔してはいけないとでも思っているのか微動だにせず、ただ「リナ様、しっかり栄養をお摂りください」と目で訴えかけてくるだけだった。
「うぅぅ……」
私は観念して、再び口を開けた。
私はやけっぱちになり、もぐもぐと口を動かしながら部屋の隅の影に向かって声を張った。
「……んぐっ、ゲッコーさ、ん!」
影が揺らめき、ゲッコーが音もなく姿を現す。
「はっ」
「あなたの配下から、最も信頼でき、かつ目が良く、長時間の隠密行動に耐えられる者を『四名』選抜してください。……あむっ」
クララさんに差し出されたケーキを一口食べ、咀嚼してから言葉を続ける。
「彼らには、間もなく帝都から届く『特別な兵器』の運用を任せます。……ごっくん。二人一組のペアを二つ。一方は兵器を扱い、もう一方はその眼となる観測手。……この四名の技量が、今後の戦局を左右します」
口の端にクリームをつけながらの、軍師としての指示。
そのあまりにカオスな状況に、ゲッコーの無表情な顔の口元がわずかに、本当にわずかに、ぴくっと引きつったように見えた。




