第310話:『覇王の使者、古狼の覚悟』
北から吹き下ろす風がまた一つ季節を進めたような、刺すような冷たさを帯びていた。
バラクの野営地に、その冷たい風よりもさらに凍てつくような土煙が上がった。
地響きと共に現れたのは、先日訪れたただの調査隊とは比較にならぬ殺気を放つ、完全武装の騎馬大隊だった。先頭を行くのはクルガンの近衛兵団長。その黒塗りの重甲冑は陽光を吸い込むように鈍く光り、背負ったヴォルガルド覇国の旗印がバタバタと不吉な羽音を立ててはためいている。
彼らは野営地の入り口を無言の暴力的な圧力で押し通り、広場の中央で停止した。
馬上の兵団長が眼下で出迎えるバラクを虫ケラを見るような冷徹な目で見下ろす。その手には一枚の羊皮紙が握られていた。
「――族長バラク。覇王陛下よりの勅命である」
その声は広場の空気を震わせる問答無用の響きを持っていた。
「貴殿が部族内で勝手に管理している『病の薬』について、陛下は深く憂慮されている。『一部の部族が独占し、多くの民が救われぬ現状は嘆かわしい』とな」
兵団長は羊皮紙をバラクの足元の土へ見下すように放り投げた。乾いた土の上に覇王の赤い印璽が鮮やかに浮かび上がる。
「よって、その在庫の『全量』を直ちに供出せよ。覇国がこれを一括管理し、全ての民へ公平に分配する。……慈悲深き陛下の御意志に異存はあるまいな?」
バラクは跪き、頭を垂れた。
(……ナディムの知らせ通りか。ヴィクトルめ、えげつない手を使いおるわ)
『公平な分配』。その美名の下に隠されたあまりに露骨な毒牙。
これは逃げ場のない「踏み絵」だ。
拒めば民の命を軽んじる私利私欲の反逆者としてこの場で首を刎ねられるか、後日軍を差し向けられる。
だが、渡せばどうなる? 命綱である薬を奪われ、生殺与奪の権を完全にクルガンに握られる。さらに回収された薬に毒や雑草を混ぜられ、「バラクの薬で死人が出た」と流布されれば、部族の威信は地に落ち、逆に反逆の口実を与えかねない。
どう転んでもバラクが破滅する完璧な論理。
普通に考えれば盤面は完全に詰んでいる。
だが、バラクの胸の奥底には絶望ではなく、ある種の恐ろしい高揚感が湧き上がっていた。彼の脳裏にあの夜の光景が鮮明に蘇る。
篝火に照らされた銀の仮面の少女。彼女が自分にだけ聞こえる声で囁いたあの言葉。
『――危急の折にはあなたの思うように使って構いません。クルガンへの忠誠を示すため、最も良いと思われる使い方を』
そして、氷のように冷たい瞳で付け加えられた絶対の禁忌。
『――ただし。何があっても、この紫の紐の袋は決して使わせないでください』
バラクの思考の中で散らばっていたピースがカチリ、カチリと音を立てて嵌っていく。
(……そうか。そうだったのか!)
彼は身震いした。恐怖ではない。あまりにも完璧な先読みに魂が震えたのだ。
あの娘はこの事態を予期していた。いや、むしろ「薬を渡すこと」を推奨していたのだ。
ここで薬を渡せばバラクの「恭順」は証明され、ヴィクトルが用意した討伐の大義名分は完全に空振りに終わる。
だが、覇国に渡した薬が汚染されたら? 偽物とすり替えられ、効かなくなったら?
(……そのための、『袋』か!)
バラクの心臓が早鐘を打つ。
あの異質な手触りの紫の紐の袋。
あれは単なる包装ではない。
「バラクから直接渡された、安全な本物」と、「クルガン経由で配られる、中身の保証されない物」を視覚的に区別するための絶対的な『刻印』だったのだ。
そして、リナが事前の配布を急かしたのは、クルガンに没収される前に「紫の袋=命綱」という事実を他の部族の記憶に深く焼き付けるため。
(……恐ろしい嬢ちゃんだ。最初から奪われることすら計算に入れて、絶対に覆らない最強の保険をかけていたというのか)
全ての退路はあの少女によってあらかじめ用意されていた。
バラクは深く息を吸い、腹を括った。頭を上げた時その表情からは困惑の色は綺麗に消え失せ、老獪な古狼の仮面が完璧に張り付いていた。
「――お言葉、痛み入ります」
バラクはゆっくりと立ち上がり、大げさなほど恭しく両手を広げた。
「覇王陛下のご慈悲、感涙にむせぶばかり。……もちろん、差し出しましょう。これは元より北の民すべてのためのものにございますゆえ」
兵団長の眉がぴくりと動く。必死の抵抗、あるいは見え透いた嘘による出し惜しみを予想していたのだろう。
「……ほう。随分と素直だな。まさかほんの少しの量を渡して、全量だと言い張るつもりではあるまいな?」
「何を仰います。我らとて同胞が苦しむのを見たくはありません。残っているもの全てをお持ち帰りください」
バラクはアランに目配せをし、倉庫への案内を命じた。
そして、倉庫の裏手に山と積まれた「それ」を指し示す。
「なっ……!?」
兵団長が思わず馬上で身を乗り出した。
そこにあったのは、先日リナが「追加の支援物資」として帝国の物流網をフル稼働させて送りつけてきたばかりの、規格外の量の『星影草』だった。
泥のついたままの大量の根が小山のようにうず高く積まれている。
まだ乾燥も十分ではなく、当然あの「紫の袋」になど入っていない、剥き出しの原薬の山。
ヴィクトルが「北の民すべてに行き渡る量などあるはずがない」と高を括っていた前提を、物理的に粉砕する暴力的な物量だった。
「これが我らが手持ちの全てにございます」
兵団長は泥だらけの根の山を胡乱な目で見た。量は文句ない。だが……。
「……随分と汚いな。それに袋詰めもされていないではないか」
「申し訳ございませぬ」
バラクは平然と嘘を吐いた。
「既に加工を終えた分は、身内の治療と近隣の部族へ配り切ってしまいました。……残るはこの手つかずの山のみ。我らのような弱小部族では、これだけの膨大な量を洗浄し、乾燥させ、細かく刻んで袋詰めする人手が足りませぬ」
彼はそこで一歩踏み込み、兵団長の虚栄心をくすぐるように言葉を継いだ。
「覇王陛下のご威光の下、本拠地の優れた設備と人員をもって加工・分配していただけるなら、これほど有難いことはございません。……この薄汚れた根が陛下の手によって美しい薬となる。民もさぞ喜びましょう」
面倒な泥落とし、乾燥、加工作業と配布の手間、そして万が一薬効が出なかった時の責任。それら全てを「全量献上」という名の綺麗な包装紙で包み、覇国側に丸投げしたのだ。
兵団長は泥だらけの根の山と、恭順の姿勢を見せるバラクを交互に見比べた。
薬は出した。しかも覇国全体を賄えそうな凄まじい量だ。これ以上難癖をつける理由が見当たらない。
「……チッ。ふん。よかろう。その殊勝な心がけ、陛下にお伝えしておく」
兵団長が顎でしゃくると、兵士たちがため息をつきながら、泥だらけの根を自らの荷車や馬に積み込み始めた。その作業だけで数時間を要するほどの量だ。
その光景を眺めながら、バラクは恭しく頭を下げたまま、内心で盛大に舌を出していた。
※あとがきあります。




