第309話:『参謀の毒牙、忠誠の踏み絵』
ヴォルガルド覇国の心臓部、巨大な黒い天幕が連なる『黒の宮殿』。
その最奥、覇王クルガンの御座所は外の荒野を吹き抜ける風を遮断し、重厚な静寂に包まれていた。
室内を支配するのはむせ返るような古い毛皮の匂いと、卓上の高価な蒸留酒から立ち上る鋭いアルコールの香り。中央で轟々と燃える巨大な焚火が、周囲に控える漆黒の甲冑を纏った近衛兵たちの影を、壁面にうごめく怪物の如く巨大に映し出していた。
玉座に深く腰掛け、不機嫌を絵に描いたような形相で一点を見つめる覇王クルガン。その傍らには近衛兵が。揺らめく焚火の光が彼らの瞳に昏い殺気を宿らせている。
やがて宮殿の重い入り口から一人の老人が現れた。覇国お抱えの筆頭薬師である。彼の白衣は実験の最中に飛び散った煮汁で汚れ、その目は緊張と驚愕に血走っていた。薬師はクルガンの数歩手前で膝をつくと、震える手で報告を始めた。
「……覇王陛下、恐るべきことが起きております。別棟の薬師寮にて隔離、観察を続けておりましたあの忌まわしい『黒い病』に侵された五人の検体ですが……。密偵が持ち帰った乾燥根。あれを煎じて与えたところ……」
薬師は一度言葉を切り、ごくりと喉を鳴らした。その額からは脂汗が絶え間なく流れ落ちている。
「投与から数刻は変化がございませんでした。しかし半日を過ぎた頃、まず三人の高熱が劇的に下がり始め……。日が変わる頃には死の色を帯びていた顔から斑点が薄れ、混濁していた意識が戻ったのです。今や立ち上がろうとする者さえおります。これほどの効果、これほど確かな快復は、いかなる祈祷もいかなる秘薬でも成し遂げられなかった奇跡にございます!」
クルガンの視線が卓上に置かれた小さな革袋へと向けられた。中には乾燥した無骨な根の断片がわずかに残っている。
「……薬草の形状だけでは、私のような者でもその種類を特定するには至りませぬ。しかしこれだけは断言できます。これは北の大地を滅ぼしかねない悪疫に対する、唯一にして真の特効薬にございます!」
その言葉が落ちた瞬間、玉座からミシリと重厚な音が鳴った。
クルガンが巨躯を揺らし、身を乗り出したのだ。喉奥から漏れ出たのは地を這うような唸り。それは喜びの咆哮ではない。自らの絶対的な権威という縄張りに、得体の知れぬ何者かが自らの持たぬ「命の鍵」を持って侵入してきたことを悟った猛獣の、剥き出しの威嚇音だった。
「……バラクの老いぼれめ。これほどのものを我が目を盗んで隠し持っていたか」
クルガンは卓上の干からびた根を、丸太のような巨大な手で鷲掴みにした。
彼にとってこの薬は「民を救う福音」ではなかった。自らの支配体制を根底から揺るがしかねない「致命的な毒」に他ならなかった。
死の病という絶望こそが民の心を折り、覇王の強大な力に縋らせるための「目に見えぬ鎖」としての役割を果たしていたのだ。だがこの根があれば、民は救済の主を覇王以外の誰かに見出し、再び自立の牙を取り戻してしまう。何より万民の命を救う英雄の座に「自分以外の誰か」が座るという事実が、彼の傲慢な逆鱗を激しく逆撫でしていた。
「どこで手に入れた。南の帝国か? それとも死に場所を求める愚かな商人か……」
ミシリミシリと鈍い破壊音が響く。ギリギリと握りしめられたクルガンの拳の中で乾燥した根は抗う術なく砕かれ、指の隙間から土埃となって無残にこぼれ落ちた。
「俺の知らぬところで……不愉快だ。腹の底が煮え返るほどに不愉快だ!」
激昂する覇王が放つ濃密な殺気の波動に薬師は悲鳴を飲み込み、命乞いをするようにさらに深く身をすくませた。
だがその張り詰めた緊張の中、靴音一つ立てずに滑るような足取りで歩み出る男がいた。
軍師ヴィクトルである。
彼は床に散らばった薬草の残骸を、汚物でも見るかのような冷徹な目で見下ろすと、神経質そうな指先で眼鏡のブリッジを押し上げた。
「覇王よ。怒りに身を任せるのは凡夫のすることですな。……むしろこれは、獲物が自ら自らの喉元に縄をかけ、罠に飛び込んできたようなものです」
「好機だと? 抜かせ。奴らは俺の顔に泥を塗ったのだぞ」
「ええ。ですがこれは、バラクという腹の底の見えない古狼の首に、一生外れぬ完璧な鎖をかける絶好の機会です」
ヴィクトルはクルガンの傍ら、影が重なる位置まで進み出ると、薄い唇を三日月のように歪めた。そして甘く冷たい、致死量の毒を含む言葉を囁き始めた。
「この薬草を一欠片、一粒に至るまで、全てを……供出させるのです」
クルガンが怪訝そうに太い眉を跳ね上げた。
「奪うのか? 兵を出して、力ずくで踏み潰すのか?」
「いえ、それでは何の罪もない弱者から薬を奪う『暴君』の汚名を、他の部族へ宣伝するようなもの。大義名分が美しくありません。法と理屈で、かやつを窒息させるのです」
ヴィクトルはまるで大劇場の舞台に立つ名優のように、芝居がかった手振りで両手を広げてみせた。
「こう布告するのです。『貴重な薬を一部の部族が独占し私物化するなど、北の団結を乱す不忠の極み。偉大なる覇王の慈悲により全ての民に等しくその命を救う希望が行き渡るよう、覇国がこれを一括で管理し、公平かつ厳格に分配する』……と」
クルガンは少し考え、不敵に鼻を鳴らした。
「ふん。だが、あの老いぼれが『これが全量だ』と嘘を吐き、わずかな量しか出してこなかったらどうする?」
「閣下。それがこの脚本の最も美しい、処刑の瞬間です」
ヴィクトルのレンズの奥で感情を削ぎ落した瞳が、獲物を狙う猛禽のように冷酷に光った。
「そもそもあの者が、北の民『すべて』を救えるほどの特効薬を持っているはずがありません。そんな膨大な物量、この痩せた大地から湧いて出るはずがないのです」
ヴィクトルは自らの構築した論理の檻に酔いしれるように語を継ぐ。
「バラクが手持ちの分を誠意を持って全て絞り出したとしても、全軍、全人民に行き渡るには圧倒的に足りない。……ならば我々はこう言えばいいのです。『全量を出せと命じたはずだ。まだ隠し持っているのだろう。同胞の命を天秤にかけ、己の部族の安寧のためだけに出し渋ったか』とね。民の不満の矛先は覇王ではなく、配分を滞らせる原因を作ったバラクへと向く」
ヴィクトルの語る「詰みの形」に、クルガンの黄色い瞳が獰猛に細められた。
「さらに言えば狡猾なバラクのこと。もし偽りの従順を装い、ただの雑草を秘薬だと偽って差し出してくるようなことがあれば……それこそが最高潮の幕引きとなります。その場で薬師を立ち会わせ多くの部族長たちが集う面前で、その欺瞞を『民を殺す大罪』として宣告するのです。自らの正体を曝け出し同胞の信頼を失った古狼を殺すのに、もはや剣すら必要ありません」
ヴィクトルの策はどこまでも冷徹だった。
「出せない」と拒めば覇王の慈悲に背く反逆者。
「出さない(出し渋った)」と見なされれば私利私欲に走る卑怯な逆賊。
偽りを出せば衆人環視の中での公開処刑。
仮にありったけを提出したとしても「足りない=隠している」と難癖をつけ、その不足を理由に野営地を蹂躙する正当な口実が立つ。
出しても出さなくてもバラクは命運を失い、覇国だけが唯一の「救済者」の座を独占する。まさに、どの目が出てもこちらが勝つ絶対の踏み絵。
「相変わらず良い性格をしておるわ、ヴィクトル。反吐が出るほど俺好みだ」
クルガンは残忍に牙を剥き出しにして、腹の底から笑った。
「奴が隠し持てば逆賊。差し出せば牙を抜かれた老犬。偽りを見せれば晒し首か。……どう転んでも、あの老いぼれに逃げ道はないというわけだ」
「御意に。この命令に即座に応じられぬようであれば、奴が背後で『何か』を企んでいる決定的な証拠。その時は……」
「我が精鋭を即座に差し向けあの野営地ごと根こそぎ奪い尽くし、更地にしてくれるわ!」
クルガンは即座に筆頭書記官を呼びつけると、荒々しい筆致で命令書を作成させた。白く滑らかな紙の上に暴力的に叩きつけられた覇王の黒い印璽は、バラクたちへの死刑宣告にも等しい冷たい重圧を放っていた。
◇◆◇
数刻後。
漆黒の甲冑に身を包んだ百の精鋭騎馬隊が、命令書を携えて本拠地の巨大な黒鉄の門をくぐり抜けていった。彼らが巻き上げる、死を予感させる荒野の土煙を、ヴィクトルは城壁の上から冷え切った瞳で見下ろしていた。
「……さあ、どう動く、バラク。絶望に泣いて縋るか、無様に牙を剥いて自滅するか。どちらにせよ貴様の、そして貴様の信じる『古き北』の命運はここで尽きた」
常識と恐怖に裏打ちされた完璧な論理の檻。ヴィクトルは自らの勝利を、明日の日の出と同じほど確実なものと信じて疑っていなかった。だが彼は知らなかった。彼の緻密な計算式には、この大陸で最も常識を破壊し、計算を無効化する『異物』――リナという名の変数が組み込まれていないことを。
騎馬隊が土煙を上げて南へ出発した、まさにその直後だった。
城壁の足元。雑多な民がひしめき合い、家畜の鳴き声が喧騒となって渦巻く市場の片隅。一人の痩せた老人が壊れた荷車の木枠を石で叩き、修理をしていた。老人は空を舞う土煙を横目で見送ると、手に持った石で不規則な、しかし一定の調子を持ったリズムを刻み始めた。
コン、カカン、コン。
それはただの苛立たしい作業音にしか聞こえない。だがその隣で泥水を運んでいた不潔な格好の女がピタリと動きを止め、バシャリと水をこぼした。
女はすぐに歩き出したが、すれ違いざま近くの子供に聞かせるふりをして、低い声で異国の古い子守唄を口ずさむ。
「黒き風が……南の谷へ、毒を運んで吹き下ろす……」
その歌の節回しを聞いた馬丁の少年が、出立の準備をしていた行商人の馬の腹帯を締め直しながら、行商人の手の甲を指先でトントンと二度叩いた。
行商人は一切表情を変えることなく無言で深く頷くと、馬に鋭く鞭を入れた。そして騎馬隊が行く街道とは異なる、風さえ避けるような険しい獣道の裏ルートへと一気に駆け出していった。
一羽の鳥が放たれることもなく、派手な早馬が目立つこともない。ただ日常の生活音と、無視されるべき些細な仕草の連鎖。それら『カナン』の遺民たちが、ヴィクトルの足下から帝国の国境まで水面下に張り巡らせた「情報の神経網」が激しく振動し、報せは吹き荒れる冬の北風よりも速く、荒野を南へと駆け抜けていた。
(実はレビュー、ソワソワしながら待機中です……笑)
もし「書いてもいいよ!」という方がいらっしゃいましたら、短い一言だけでも頂けると、作者(輝夜)がとても喜びます♪




