第308話:『荒野に広がる慈悲、忍び寄る徴収』
北の荒野を吹く冷たい夜風が破れた天幕の隙間から鋭い刃のように忍び込み、病に伏せっている老婆の痩せこけた頬を撫でた。
薄暗いゲルの中には、ひゅう、ひゅうという浅い呼吸の音と、肺を絞り出すような重い咳の音だけが虚しく響いている。看病の為に傍らへ座り込む娘の瞳。そこには、すでにもう涙も枯れ果てたかのような、重い諦めの色が泥のように沈殿していた。
その、死を待つだけのような重苦しい静寂を、天幕の入り口が擦れる微かな音が破った。
娘が弾かれたように身を震わせて顔を上げると、そこにはいつの間にか一人の男が立っていた。その男はみすぼらしい行商人の外套を羽織ってはいるものの、背筋は奇妙なほどにスッと伸びており、足音一つ立てていない。
男は自身の口元に人差し指を当てて静寂を求めると、音もなく老婆の枕元へと歩み寄り、懐から一つの小さな麻袋を取り出した。
雲間から差し込んだ月明かりに照らされ、袋の口元が妖しく目を引いた。そこには、鮮やかな紫色の紐が固く結ばれている。くすんだ土と灰色の世界であるこの北の荒野には、決して存在しないはずの高貴で異質な色合いだった。
「……それは?」
娘が、乾いてひび割れた声で問う。
「『風』の族長、バラク様からの慈悲だ」
男――この部族の中に紛れ込んでいたカナン遺民の一人は、周囲の空気に溶けるような低い声で囁いた。
「これを細かく刻み、よく煮出して飲ませろ。熱は必ず引く。……だが、決して他言はするな。もしクルガン様の耳に入れば、この慈悲は灰となり、お前たちも同罪となる」
男は娘の震える手を取って袋を握らせると、その昏い瞳で娘をじっと見据え、まるで呪文のように言葉を継いだ。
「よいか。もし後日、別の薬が手に入ったとしても……必ずこの『紫の紐の袋』に入っているものから先に使い切れ。それが、命を救われた者のただ一つの掟だ」
娘は言葉の意味も分からぬまま、ただその手にある希望の塊に縋るように何度も頷いた。
男が風のように去った後、娘の両手には、袋のなめらかな感触と、微かな土と薬草の香りだけが残されていた。それは、絶望の淵に沈んでいた彼女にとって、あまりに温かく重い、命そのものの重さだった。
◇◆◇
同様の光景が荒野のあちこちにおいて、夜の闇に紛れて繰り返されていた。
凍りついた井戸端で、家畜小屋の暗い陰で、あるいは狩りの途中の吹き溜まりで。
『赤土』の民も、『黒森』の民も、そしてクルガンの直轄下にある小さな部族たちでさえも例外ではない。
カナンの遺民たちは渇いた砂に水が染み込むように目立たぬよう、しかし驚異的な正確さをもって『紫の袋』を浸透させていく。
「聞いたか? バラク様が、南の谷で秘薬を見つけられたらしい」
「ああ、隣のゲルの子供も、あれのおかげで死の淵から戻ってきたそうだ」
「クルガン様は病など見向きもせず我らを死地に追いやるが……古き族長たちは、まだ我らを見捨ててはおられなかったのだ……」
噂は風に乗って広がる。
だが、それは決して大声では語られない。焚火を囲む密やかな囁きとして人々の心に「バラクへの深い恩義」と「紫の袋への強烈な執着」という種を、確実かつ迅速に蒔いていった。
◇◆◇
それから数日が過ぎた頃。バラクの野営地は、不穏な土煙と地響きに包まれていた。
柵を乱暴に蹴破るようにして現れたのは、黒い甲冑に身を包んだ一団。ヴォルガルド覇国、クルガン直属の調査隊だ。
彼らは馬から降りることもなく、広場を土足で踏み荒らし、女子供が慌てて道をあけるのを鼻で笑った。
「族長バラクはおるか!!」
隊長らしき男が怒声を張り上げる。その腰には、カナンから略奪したと思われる、北の戦士には不釣り合いな黄金の装飾剣が吊るされていた。
少しの間をおいて、最も大きなゲルからバラクがゆっくりと姿を現した。
その表情は、つい先ほどまで昼寝をしていたのを邪魔された好々爺そのものだ。目をしょぼつかせ、腰をトントンと叩きながら歩み出るが、垂れ下がった瞼の奥にある眼光だけは、油断なく相手の戦力を値踏みしていた。
「……なんとも騒々しいのぉ。客人のマナーを知らぬと見える。ここは戦場ではないぞ」
「黙れ老いぼれ!」
隊長が馬に乗ったまま、見下すようにして唾を飛ばした。
「貴様らが隠し持っている『薬』の噂は聞いているぞ! 覇王クルガン様に断りもなく、部族の内で勝手な真似をしおって! 病の治療は覇国が管理すると通達が出ているはずだ!」
バラクは眉一つ動かさず、とぼけたように肩をすくめた。
「隠す? 人聞きの悪い。……ただの草じゃよ。南の谷で見つけた、少しばかり苦い草だ。気休め程度にはなるかと思うてな」
「ならばその草を出せと言っているのだ!」
隊長の合図で、下馬した兵士たちが近くの倉庫へとなだれ込む。
ガチャン、バリンと、棚をひっくり返し、壺を割る乱暴な破壊音が響く。やがて、奥に積まれていた乾燥した『星影草』の束を見つけると、兵士の一人がそれを鷲掴みにして走ってきた。
「隊長、ありました! こいつです!」
隊長はひったくるようにそれを受け取ると、泥のついた根を鼻に近づけ、あからさまに顔をしかめた。
「……なんだこの土臭い根っこは。おい爺、こいつはどう使うんだ」
「煎じて飲むのじゃよ」
バラクは淡々と答える。
「乾燥させ、細かく刻んで煮出す。……手間はかかるが、熱は引く」
「ふん。……まじないの類か」
隊長は興味なさそうに鼻を鳴らすと、部下に顎でしゃくった。
「おい、そこにある束を三つ、いや四つほど袋に詰めろ。本拠地へ持ち帰る。覇王陛下がお調べになる」
「お待ちくだされ」
バラクが、わざとらしく声を裏返らせて狼狽えてみせる。
「そ、それは我が部族の子供らの分じゃ! それを持っていかれては……」
「黙れッ!」
隊長が馬の上から鞭を振り下ろし、バラクの足元の土を叩いた。
「この地に在るものは、石ころ一つ、草一本に至るまで、全て覇王陛下の所有物だ! 貴様らが勝手に消費することは許されん!」
「その薬草が本当に効くのか、毒ではないのか、本拠地で調べさせてもらう。ありがたく思え!」
兵士たちは倉庫から『星影草』の束を数抱え分運び出すと、自分たちが持参した薄汚れた革袋へと、乱暴かつ無造作に押し込んでいく。
彼らの雑な手つきによって千切れた根の一部が地面にこぼれ落ち、無残に踏みにじられた。
その横暴な様子を遠巻きに見ていた部族の女たちが、怒りと悲しみで悲鳴を上げそうになるのを、アランが必死に手で制している。
だが、バラクはその略奪劇を、内心の冷や汗を隠しながら、ただ黙って見つめていた。
(……持っていったな)
彼らが奪っているのは、ただの麻紐で無造作に束ねられた「中身」の薬草だけだ。
あの異質な『紫の紐の袋』は、カナンの民の手によって、すでに野営地の外にある隠し蔵へと厳重に保管されている。もしもの略奪や調査に備え、倉庫にはあえて袋から出した薬草だけを積んでおいたのだ。
軍師リナから厳命されていた『紫の袋を直接渡せない相手には、決して袋ごと渡してはならない』という条件。それが、カナンの民の周到さと、向こうの横暴さのおかげで、完璧な形でクリアされたことになる。
「……ふん。こんな枯れ草をありがたがるとはな。せいぜい大事に煎じることだな」
隊長は、満杯になった革袋を馬の背に括り付けると、バラクを嘲るように見下ろした。
「いいか、妙な真似はするなよ。この薬の分析が終われば、覇王陛下から直々に沙汰があると思え」
「……左様でございますか」
バラクは恭しく深く頭を下げた。そのため、彼の顔に浮かんだ感情は、隊長からは見えなかった。
「覇王陛下のお役に立つのなら本望。……どうぞ、お持ち帰りくだされ」
調査隊は、来た時と同じように砂塵を巻き上げ、我が物顔で去っていった。
彼らは満足していた。バラクの隠し玉をあっさりと暴き、その首根っこを押さえたという、安っぽい戦果に酔いしれていたのだ。
遠ざかる背中を見送りながら、バラクはゆっくりと頭を上げた。
そこには好々爺の仮面はすでに剥がれ落ち、老獪な古狼の顔があった。




