こぼれ話:『聖リリアン孤児院の院長の一日』
ここで一息です。3話ほど、こぼれ話にてゆるりと。
聖リリアン孤児院の朝は、小鳥のさえずりよりも早く、香ばしい小麦の匂いと共にやってくる。
まだ薄暗い厨房。私、アガサは使い込まれたエプロンの紐をきゅっと結び直した。
「おはようございます、院長先生」
かまどの前で振り返ったのはシスター・カリン。その額には既にうっすらと汗が滲んでいる。
「おはよう、カリン。今日もいい発酵具合ね」
並べられたパン生地は赤ちゃんのほっぺたのようにふっくらと膨らんでいた。
かつては石のように固い黒パンしかなかったこの場所も、リナが送ってくれる支援とあの子が繋いでくれた新しい流通のおかげで、今では毎朝こうして柔らかい白パンを焼くことができる。
「さあ、焼くわよ。あの子たちが起き出す前にね」
そして嵐は唐突にやってくる。
「「「おなかすいたーーーっ!!!」」」
ドタドタドタッ! という地響きのような足音と共に食堂の扉が勢いよく開け放たれた。
一番乗りはやっぱりトムだ。寝癖で爆発した髪のまま、一番大きな席を陣取る。
「今日のスープは何!? お肉入ってる!?」
「トム! まずは顔を洗ってきなさい!」
カリンの叱責もどこ吹く風。続いてまだ半分夢の中のアンナがふらふらと入ってくる。
「……リナおねえちゃん……?」
寝ぼけたまま私のエプロンにしがみついてくるその姿に思わず頬が緩んだ。
「リナじゃないわよ、アンナ。さあ、席に着いて」
そこからはまさに戦場だ。
「こら! スープをこぼさない!」「パンはちぎって食べなさいと言ってるでしょう!」「誰だ、私のニンジンをこっそり隣の皿に移したのは!」
私とカリンは配膳をしながら右へ左へ小さな怪獣たちの世話に走り回る。怒鳴り声と笑い声、そして食器が触れ合う音が高い天井に反響して賑やかなシンフォニーを奏でていた。
ふと口いっぱいにパンを頬張ったトムが言った。
「なぁ、リナ姉ちゃん、今頃どうしてるかなぁ?」
その一言に騒がしかった食卓がふっと静まる。
「きっと、すごい魔法で悪いドラゴンをやっつけてるんだ!」
「ううん、お姫様になって、王子様とダンスしてるのよ!」
子供たちが口々に想像を膨らませる。そのどれもがあまりにも突拍子もなくて、けれどリナなら本当にやってしまいそうで。
私はカリンと顔を見合わせ、苦笑した。
「そうね。きっとどこかで元気にやっているわよ」
(実際はもっと大変な場所で、もっとすごい顔をして戦っているのかもしれないけれど……)
午後のおやつは今日一番の楽しみだった。
リナからの定期便に入っていた、見たこともない色鮮やかなドライフルーツとサクサクのクッキー。
「わあ! キラキラしてる!」
「甘ーい! おいしーい!」
初めて見るお菓子に子供たちの目が宝石のように輝く。その満面の笑顔を見ていると胸の奥がじんわりと熱くなる。
この笑顔を守るためにあの子は今も戦っているのだ。
「ありがとう、リナ……」
誰に言うでもなく呟いた言葉は子供たちの歓声にかき消された。
夜。
嵐のような一日が終わり、院内が静寂に包まれる頃。
私は一人礼拝堂で祈りを捧げていた。
「どうかあの子をお守りください。そしていつかこの笑顔の輪の中にあの子を無事に帰してください……」
祈りを終え、自室に戻るとベッドに小さな膨らみがあった。
そっと毛布をめくるとアンナが丸くなって眠っていた。私の匂いを求めて潜り込んできたのだろう。
「……リナおねえちゃん……むにゃ……」
幸せそうな寝言に私はふふっと笑みをこぼした。
やれやれ、今日は狭いベッドで眠ることになりそうだ。
でもその温もりが明日の私をまた頑張らせてくれる。
おやすみ、みんな。
おやすみ、リナ。
遠い空の下であなたも良い夢を見ていますように。




