第305話:『慈悲の偽装、薬を包む袋』
北の乾いた風が、『忘れられた神々の遺跡』の石柱の間を吹き抜けていく。
かつて静寂に包まれていたこの場所は、今や新たな時代の産声で満ちていた。帝国軍の工兵たちが槌音を響かせ、未来の『道の駅』の基礎を築いている。
その喧騒から少し離れた遺跡の中央、天幕の下に設けられた臨時会議場。
三部族の長――バラク、ゴード、エルラ――とその側近たちが、目の前の光景に息を呑んでいた。
彼らの前に、麻の袋が小山のように積み上げられている。中身はあの『黒い病』を根絶やしにする奇跡の薬草、『星影草』。その量は一部族どころか、北の民全体に行き渡っても余りあるほどだった。
「――これは、帝国からの『贈り物』です。無償で提供いたします」
銀の仮面の下から響く声は、どこまでも静かだった。
だが、その一言が持つ意味はあまりに重い。
「……む、無償だと!?」
最初に声を上げたのはゴードだった。彼の驚愕は、他の二人も同じだった。これほどの価値を持つものをただで与えるなど、常軌を逸している。
私は彼らの動揺を意にも介さず、淡々と指示を下した。
「まず、信頼関係のある部族――あなた方が声をかければ応じるであろう者たちに、即座に一定量を配ってください。民を救うのに時間はかけられません」
「そして……」
私の声が、わずかに低くなった。
「クルガン寄りの部族、あるいは我らに敵意を向けている部族に対しても、『これは我らからの内密の施しだ』と称し、同じように無償で分け与えるのです」
「なっ……! 敵に塩を送るというのか!」
ゴードが再び声を荒らげる。エルラの能面のような顔にも、初めて困惑の色が浮かんだ。
だが、バラクだけが黙って私を見つめている。この少女がただの善意で動くはずがないと、彼は知っていた。
私は積み上げられた山の中から、一つの袋を取り出した。
それは北方民族が使う質実剛健な麻袋とは全く違う、異質なものだった。
南の国でしか採れない植物の繊維で編まれ、独特の滑らかな手触りをしている。そして何より袋の口を縛る紐には、彼ら北方民族が古来より「不吉」として禁忌とする、鮮やかな紫色の染料があしらわれていた。
誰もが見過ごしようのない、強烈な違和感を放つ袋。
「配布する際は必ず、この袋に入れて渡してください」
私の声は、それまでの穏やかさとは一転し、鋼のような響きを帯びていた。
「そして受け取った部族には、こう伝えなさい。『新しい薬草が手元に来ても、必ずこの古い袋から先に使うように』と。……これは絶対の条件、厳命です。必ず守らせてください」
その理解不能な命令に、三人の族長はただ首を傾げるばかりだった。
だが、その異様さの裏にある真意を、ただ一人だけが正確に読み取っていた。
バラクたちの背後に控えていた、元カナンの民のナディム。
彼は、かつて商人として大陸中を渡り歩いた男だ。その瞳の奥でリナの意図を理解し、微かに頷いた。
「これで、多くの部族を味方にできるな!」
ゴードが単純な善意だと信じ込み、意気揚々と声を上げる。
だが、私の顔は真剣そのものだった。
「そうなれば良いですが……目的は、恩を売ることではありません」
私はナディムに向き直った。その瞳は、共犯者を探すように鋭く光っている。
「ナディムさん。この袋の管理と、どの部族にいつ、どれだけ渡したかの正確な記録……あなた方、カナンの民にお任せできますね?」
ナディムはその意図を理解した上で、深く、慇懃に一礼した。
「――お任せください、軍師殿。我々カナンの民が、この袋一つひとつに、決して消えぬ『意味』を持たせてご覧にいれましょう」
そのやり取りに、ゴードとエルラはただならぬものを感じ取っていた。
私は最後にバラクに向き直った。その声は、他の二人には聞こえぬよう、わずかに潜められていた。
「――バラク殿」
「……はっ」
「そして危急の折には、あなたの思うように残りの薬草は用いて構いません。部族の立場を守るため、クルガンへの忠誠を示すため……最も良いと思われる使い方をしていただいて結構です」
それは彼に全権を委ねるという、最大限の信頼の言葉だった。バラクの目に、一瞬だけ驚きと感謝の色が浮かぶ。
だが私はその瞳を射抜くように、氷のように冷たい一言を付け加えた。
「――ただし。あなた方の手から直接配布できなくなった場合……。その時は何があっても、この『袋』は決して使わせないでください。絶対です」
ぞくり、と。
バラクの背筋を冷たいものが走り抜けた。
信頼の裏に仕込まれた、絶対の禁忌。この袋こそがこの計略の心臓なのだと、彼は悟った。
「それと、時間はもうないかもしれません。緊急に、速やかにご対応を」
私の声には、もう何の感情もなかった。ただ盤面を動かす、冷徹な響きだけがあった。
バラクは言葉を失い、ただ深く、深く頷くことしかできなかった。
会議が終わった後も、バラクは一人、あの紫色の紐がついた袋を手に取り、考え込んでいた。
(……あの嬢ちゃんは、一体何を仕掛けたのだ?)
袋の感触は滑らかで、ただの入れ物だ。だが、その裏に隠された鋭い刃の存在を、彼は確かに感じ取っていた。




