第306話:『薬草の行方、岩窟の密談』
夜の帳が荒野を覆う頃。バラクの野営地からは数騎の影が音もなく四方へと散っていった。
彼らはバラクの密命を帯びた、信頼のおける側近たち。馬の蹄には布が巻かれ、その背嚢には紫色の紐で縛られた麻袋が詰まっている。
目的地はクルガンの支配下にある他の部族たち。中でも、古くからバラクと縁のある部族や、病に苦しむ者たちの元へ闇に紛れて希望の種を運び込んでいく。
「――バラク族長が交易で見つけた、秘伝の薬草だ」
「これは……?」
「病を癒す力がある。他言無用で頼む」
薬草は渇いた大地に水が染み込むように、静かに、しかし確実に広がっていった。
そしてその流れはやがて最奥、クルガンに最も近い場所にある『岩窟の民』の野営地にも到達する。
◇◆◇
『岩窟の民』の野営地は岩山を背にした天然の要塞だった。
その一角、粗末な小屋の影でエノクは一人の男と密会していた。相手はバラクの使者として潜入してきたカナンの同胞だ。
「……ナディムからの伝言です。『紫の紐の袋』が届きました」
使者はそう囁き、懐から小さな包みをエノクに手渡した。中には乾燥した『星影草』の根が入っている。
エノクはその根を指先で転がし、しわがれた声で呟いた。
「……なるほど。これが例の薬ですか」
彼の目は老獪な商人の光を帯びていた。この薬が単なる慈悲ではなく、何か大きな意図を持って流通していることを瞬時に察している。
「……分かりました。この薬は私が責任を持って『必要な場所』へ届けましょう」
エノクは使者を送り出すと、その足で族長ガルドのゲルへと向かった。
夜更けの族長ゲルは静まり返っていた。ガルドは一人卓上の地図を睨みつけている。その眉間には深い皺が刻まれ、苦悩の色が濃い。クルガンの覇道とそれに巻き込まれ疲弊していく民の姿に、彼の実直な心は引き裂かれそうだった。
「――夜分に失礼いたします、族長」
エノクが音もなく入室する。
「エノクか。……何の用だ」
ガルドは顔を上げず、疲れた声で応じた。
エノクは無言で懐から取り出した『星影草』を卓上に置いた。
「……これは?」
「南のバラク族長より極秘に届けられた薬草にございます。黒い病に効くと」
「バラクからだと……?」
ガルドが驚きに顔を上げる。バラクとはかつて戦場を共にした古い仲だ。
「族長。ご子息の熱が下がらないと伺っております」
エノクの言葉にガルドの肩がびくりと震えた。彼の幼い息子もまたあの忌まわしい病に侵されていたのだ。だが、クルガンへの忠誠と部族の掟に縛られ、彼は他国に助けを求めることもできず、ただ無力感に苛まれていた。
「……これを使えと言うのか。得体の知れぬものを」
ガルドの声は震えていた。それは拒絶ではなく縋りたいという弱さへの恐怖だった。
「バラク族長は自らの部族で試し、その効果を確信して送ってこられたそうです」
エノクは淡々と事実だけを告げた。
「毒であれば、バラク族長がこれほどの手間をかけて盟友である族長に届ける意味がございません」
その言葉はガルドの迷いを断ち切る鋭い刃となった。
彼は震える手で薬草を掴むと、エノクを凝視した。
「……エノク。お前はこの薬を信じるか?」
「私は薬を信じるのではありません」
エノクは静かに答えた。
「私はバラク族長の『想い』を信じます」
ガルドは深く息を吐き、薬草を懐にしまった。
「……分かった。試してみよう」
「感謝いたします。……ですが、一つだけ」
エノクは声を潜めた。
「この薬の出処は決して公になさいませぬよう。……いらぬ波風を立てる必要はございませんから」
「……承知している」
二人の間に奇妙な共犯関係が生まれた瞬間だった。
エノクは一礼して下がったが、その背中を見送るガルドの目にはこれまでとは違うある種の決意の光が宿り始めていた。
◇◆◇
ガルドの息子が奇跡的に熱を下げ、意識を取り戻したという報せが側近たちの間で極秘裏に駆け巡った。
『岩窟の民』の間でも、静かに、しかし確実にバラクたちと同じ変化が起き始めていた。
クルガンへの絶対的な服従という岩盤に、小さな亀裂が走った。
エノクはその様子を帳簿の影から静かに見つめていた。




