第301話:『氷原の咆哮、灰色の瞳』
重厚な幕が跳ね上げられ、彼らが外の光の中へと踏み出したその瞬間――。
ドォン、ドォンと数万の蹄が黒い大地を叩き、地鳴りのような重低音が鼓膜を震わせた。
北の空は、砂塵を孕んだ重苦しい黄褐色の雲に覆われていた。
吹き荒れる乾いた風は、肌を切り裂く剃刀のような鋭さで大地を削り取っていく。
視界の端から端までを埋め尽くすのは、薄汚れた革鎧や、略奪した不揃いな鉄鎧を纏った騎馬戦士たちの海だ。
掲げられた無数の槍の穂先が、雲の切れ間から漏れる鈍い陽光を跳ね返し、まるで鉄の森のように波打っている。立ち上る馬の息と男たちの脂ぎった体温が混じり合い、広場全体が巨大な獣の臓腑のように、生臭く、熱く、激しく脈動していた。
広場の中央、巨獣の骨と無骨な黒鉄を組み上げて築かれた、威圧的な高壇。
その頂にクルガンが姿を現した。
その背後には、四人の将軍とヴィクトルが、それぞれの威厳を纏って控えている。
クルガンがゆっくりと、腰に帯びた剣を抜き放つ。
ギャリィィンッ! と、乾いた空気を無理やり引き裂くような金属音が響き渡り、それまで喧騒に包まれていた広場が、一瞬で墓場のような静寂に包まれた。
「――聞け! 北の荒野に生きる、誇り高き狼たちよ!」
腹の底から絞り出された咆哮。それは風の音さえもかき消し、荒野の果てまで届くかのように響き渡った。
「今日、この瞬間をもって、我らは散り散りの群れであることをやめる! わずかな草を奪い合い、飢え、ただ死を待つだけの『蛮族』の時代は終わったのだ!」
クルガンは大剣を天高く突き上げた。その切っ先が、天を貫くように煌めく。
「これより、この広大な大地は一つの牙、一つの意志となる! 弱きを切り捨て、強きが全てを統べる鋼の秩序! その名を――『ヴォルガルド覇国』と呼ぶ!」
「俺がその頂、初代覇王クルガンである! 俺の道に立ち塞がる者は、帝国であろうと神であろうと、全てこの剣で粉砕し、その富を喰らい尽くしてくれるわ!」
刹那、圧縮された沈黙は爆発的な熱狂へと変わった。
「「「オオオオオオオオオオオッ!!!」」」
万の戦士たちが盾を叩き、槍を振り上げ、喉が裂けんばかりの鬨の声を上げる。
それは単なる歓喜ではない。長年、飢えと病に怯えていた獣たちが、絶対的な「力」と「略奪の許可」という希望を見出した瞬間の、狂気にも似た咆哮だった。
その熱狂の渦からわずかに離れた、将軍たちが天幕を張るエリアの影。
一人の痩せ細った老人が、手にした帳簿を胸に抱え、音もなく建物の影に佇んでいた。
エノク。かつて商都カナンの繁栄を支えた知識人の一人であり、今はボルガス将軍の側近たちに読み書きや計算を教える「教育係」という名目で、この不毛な地に留め置かれている。
彼は懃に、深々と頭を下げた姿勢のまま、まぶたの裏で冷徹に数字を弾いていた。
(……集結した兵力、凡そ一万二千。馬糧の備蓄は三月分。略奪による補給を前提とした危ういバランスでございますな)
エノクは顔を上げることなく、その灰色の瞳だけを動かし、高壇の上を観察した。
欲にまみれ、クルガンの覇道に酔いしれる将軍たち。ボルガス、ゾルヴァーグ、ユルヴァ。彼らの顔にあるのは、ただの暴力的な歓喜だ。
エノクの視線は、その端に立つ一人の男に吸い寄せられた。
『岩窟の民』族長、ガルド。
彼だけが、熱狂の只中にありながら、腕を組み、苦渋に満ちた表情で沈黙している。その目はクルガンを見ているようで、見ていない。
エノクの枯れた唇が、微かに歪んだ。
隣を槍を持った戦士が乱暴に通り過ぎるが、エノクは空気のように気配を殺し、ただの「無害な老人」としてそこに在り続けた。
彼のようなカナン遺民は、このヴォルガルドの至る所に「神経」のように張り巡らされている。ある者は軍馬の蹄鉄を数え、ある者は武器庫の矢の残数を記録し、ある者はヴィクトルが持ち込んだ帝国の嗜好品の流通を追っている。
「……吠えるがいい、蛮族ども。その牙が、自らの慢心で折れる時を、私は待っておりますよ」
エノクは、誰にも聞こえぬほど小さな声で、商人のような丁寧な独り言を漏らした。
彼らにとって、この壮大な建国の儀式は、覇国という巨大な獲物が完成し腐敗が始まる瞬間を記録する作業に過ぎなかった。
高壇の上で、クルガンはその全てを――欲望も、忠誠も、そして足元に潜む静かな憎悪さえも――全身で受け止め、王としての覇気を放っていた。
ヴォルガルド覇国。その産声は、北の大地を震わせる不吉な響きとなって、南の帝国へと届こうとしていた。




