第299話:『帝王の苛立ち、参謀の囁き』
時は少し遡る。
北の大地、クルガンの本拠地。
凍てつく風が吹き荒れる屋外とは対照的に、黒い獣の毛皮で覆われた巨大なゲルの中はむせ返るような熱気と脂の焦げる匂い、そして濃密な殺気で満たされていた。
ダンッ!
乾いた音が響き、卓上に広げられた地図に短剣が突き立てられる。
切っ先が貫いたのは南の国境線――バラクたちが守るべき防衛ラインだった。
「――それで? バラクの爺どもは尻尾を巻いて寝床に逃げ込んだと、そう言うのか」
玉座に深く腰掛けたクルガンが低い声で唸る。
鍛え上げられた肉体には数多の戦傷が刻まれ、乱雑に伸ばした黒髪の間から覗く瞳は飢えた狼のようにギラギラと光っている。その視線に射抜かれ、床に額を擦り付けていた使者の肩がびくりと跳ねた。
「は、はい……! 帝国の防壁は予想以上に強固で……。加えて、以前より我ら北の民全体をじわじわと蝕んでいたあの忌まわしい『黒い病』が……。過酷な戦場での疲労も重なり、前線でも蔓延し始めているとのこと。兵たちの半数が立ち上がれぬ状態らしく……」
使者の声は震え、脂汗が床にシミを作っていく。
クルガンは鼻を鳴らすと、手元にあった報告書と書かれた紙の束を無造作に掴み上げた。
そこにはバラクたちだけでなく、他の部族からも寄せられた『病による戦力低下』と『撤退の許可』を願う言葉が書き連ねられた書状があった。北の民にとって、この病は長年逃れることのできない、死への宣告にも等しい重荷だったのだ。
「病、か。……まだ、そんな寝言を言っているのか」
彼は紙束を、暖をとるために燃え盛る焚火の中へゴミのように放り込んだ。
紙がチリチリと焼け焦げ、瞬く間に灰へと変わっていく。その炎の照り返しを受けるクルガンの顔には慈悲の色など欠片もなかった。
「傷ついたから休ませろだと? 甘ったれるな」
吐き捨てる言葉は氷よりも冷たかった。
「病ごときに負ける弱い血など、我々には不要だ。奴らの役目は何だ? 帝国の剣を受け、盾を砕き、その死体を乗り越えて俺たちが進むための『足場』となることだろうが」
彼は地図上の短剣を引き抜き、再び深々と突き立てた。今度はさらに南、帝国の領土深くへ。
「帝国への恨みが募っているのなら、それを刃に変えて突き進めば良い。病で腐り落ちるくらいなら、敵の槍で死んで来いと伝えろ。……奴らが休むことなど、この俺が許さん」
「し、しかし……それでは全滅してしまいます!」
「構わん。肉壁が尽きれば、また新しいのを補充するだけだ。……行け。第二次侵攻の準備をさせろ」
有無を言わせぬ絶対的な命令。
使者は絶望に顔を歪ませながらも、これ以上言葉を重ねれば自分の首が飛ぶことを悟り、「は、はっ!」と震える声で応じると逃げるようにゲルを飛び出していった。
ゲルの中に薪が爆ぜる音だけが残る。
クルガンは不機嫌そうに杯の酒を呷った。その苛立ちは思い通りに動かぬ駒への不満だけではない。自分たちが支配するこの大地そのものが腐り落ちていくような、得体の知れぬ閉塞感への苛立ちでもあった。
「……随分と、手厳しいですな」
不意にゲルの奥まった影の中から、水のような声が響いた。
音もなく姿を現したのは整えられた軍服に身を包み、神経質そうな眼鏡をかけた男。
ヴィクトル・フォン・ローゼンベルク。かつて帝国の貴族でありながら、今はクルガンの頭脳として暗躍する参謀だ。
「ヴィクトルか。……盗み聞きとは趣味が悪いぞ」
「滅相もございません。閣下の覇気が素晴らしく、つい聞き惚れていただけのこと」
ヴィクトルは慇懃に一礼すると、クルガンの卓上にある地図を白く細い指でなぞった。
「ですが、解せませんな」
「あ?」
「バラクという男、なかなかにしぶとい古狼ですが……今回の沈黙は少々不自然です。ただ病に伏せっているだけにしては、静かすぎる」
ヴィクトルの眼鏡の奥が冷たい光を反射させた。
「あの男は損得勘定に敏い。ただ死ぬのを待つような真似はしますまい。……あるいは、何か『別の手』を打っているやもしれません」
「別の手だと? 帝国に尻尾を振るとでも言うのか」
クルガンが嘲笑う。
「ありえん。奴らは帝国を憎んでいる。それに、あいつらの家族は俺たちが握っているようなものだ」
「ええ、論理的にはそうです。北の物資と交易路は、全て我々が握っておりますからな。……ですが」
ヴィクトルは言葉を濁し、灰となった書簡の残骸へ視線を落とした。
(……あの老獪なバラクが、ただ怯えて命乞いをするでしょうか。
先程の書状にあった筆致には焦りがなかった。むしろ、『諦め』にも似た静けさすら感じられた。
……ふむ。解せませんな。この胸騒ぎの正体は、一体何だというのでしょうか)
彼は思考を振り払うように顔を上げ、南の方角、見えざる敵がいるであろう空を見つめた。
「ふん。小細工など、圧倒的な力の前には無意味だ」
クルガンは立ち上がり、握り拳を作ってみせた。その力強さは確かに万物をねじ伏せる王のそれだった。
「間もなく建国の儀だ。俺が『覇王』となり北を一つにする。そうなれば、バラクごときが何を企もうと関係ない。全て飲み込んでやる」
その傲慢なまでの自信を、ヴィクトルは薄い笑みを浮かべて見つめていた。
(……ええ。その強欲さこそが、貴方を王たらしめる。ですが、足元の土台が腐っていないか確かめる必要はありそうですな)
黒いゲルの外では、建国を前に集結し始めた数千の兵たちの熱気が、北の寒空を焦がし始めていた。だがその熱狂の裏で、見えざる亀裂は静かに確実に広がりつつあった。




