第280話:『二人の将軍、それぞれの盾、監査官の刃』 -改訂版-
作戦室に落ちる沈黙は鉛のように重かった。まるで誰もが息をすることを忘れたかのように、暖炉の炎が爆ぜる音だけがやけに大きく響く。
『囁きの小箱』の向こうでグレイグ中将が獣のように唸り、言葉を探している気配が伝わってくる。シュタイナー中将は腕を組んだまま私の顔と地図盤、そして静かに佇むアイゼンハルトを交互に見つめ、その顔に深い苦悩の色を滲ませていた。
沈黙を破ったのはシュタイナーだった。彼は深いため息をつくと、まず私の提案のもう一つの核に触れた。
「……軍師殿。貴官が自ら赴く件は一旦置いておこう。……それよりもだ。なぜそこまで大量の薬草が必要なのだ。バラクの部族を救うだけならば先の量で十分なはず。それほどの資金を投じる意図をまずは聞かせてもらわねば、我らも判断のしようがない」
指揮官としての的確な問い。私はその言葉を待っていたかのように地図を指し示した。
「中将閣下。バラクの部族は始まりに過ぎません」
その声は静かだったが部屋の空気を震わせるほどの確信に満ちていた。
「彼らの背後には、同じくクルガンの圧政と病に苦しむ無数の部族がいます。この大量の薬草は単なる医療品ではありません。我々が北方諸族の盤面を動かすための強力な『武器』になります」
私はそこで一度言葉を切り、地図の上に駒を置くように指先を滑らせた。
「ゲッコーからの報告によれば、クルガン体制は一枚岩ではない。その傍らには全ての策を授けているであろう正体不明の『参謀』の影がある。そして、彼の覇業を最初期から支え、今も強い発言力を持つ旧来の有力部族長も」
「この部族長は、クルガンとは違う種類の求心力を持つようです。彼がもしクルガンを見限れば、体制は内から大きく揺らぐ。……ですが、彼を動かすのは容易ではない。だからこそ、まず揺さぶりから始めるのです」
私がクルガン体制の内部分析と薬草を使って彼らを内から切り崩す壮大な戦略を語り始めると、アイゼンハルトは腕を組み冷ややかに鼻を鳴らした。
「……なるほど。面白い絵空事だ。成功すれば確かに効果は大きいでしょうな」
彼は一度私の戦略を評価するそぶりを見せた後、その根幹を揺るがす問いを投げかける。
「ですが、その策の成功確率は? 感情的な北方諸族が、果たして貴官の描いた筋書き通りに動くと? 不確定要素が多すぎる。これは『戦略』ではなく、ただの『博打』です。帝国の予算を貴官個人の博打に投じることは許されない」
シュタイナーが唸るように言う。
「……つまり貴官は金と薬で奴らの中に『クルガンに従う道』以外の選択肢を作り出し、その一枚岩を内から砕こうというのか」
「はい。……武力で制圧するよりも遥かに安上がりで確実かと」
その言葉を聞きシュタイナーは天を仰ぎ深いため息をつくと、小箱に向かって語りかけた。
「……グレイグよ。この小娘の言うことにも一理ある」
そしてシュタイナーは私に向き直り、指揮官としての冷徹な顔で条件を提示した。
セラ、ヴォルフラム、ゲッコーの同行は絶対。現地の判断はセラが行うこと。作戦中止の権限はシュタイナーが持つこと。
それは私の提案を受け入れつつも、その身の安全を確保するための最大限の譲歩案だった。
シュタイナーが折れたことで、グレイグは観念したように天を仰いで大きく息を吐いた。
『……分かった。……シュタイナー中将。……すまないが後方のサポートを頼めるか』
「当然である! 委細任せよ!」
そのあまりに力強く、食い気味な返答に、通信機の向こうでグレイグが「……お、おう……?」とわずかに引いた気配がした。
だが二人の猛将が合意に至っても、アイゼンハルトだけは頑として首を縦に振らなかった。
「将軍方が情に絆されたとしても私の判断は変わりません。この予算執行、監査官として不承認とします。本国へは『軍師殿による予算の私的流用と、軍規を無視した独断専行の疑いあり』と報告せざるを得ない。……それでも強行されるというのであればお止めはしませんが」
それは、軍師と二人の将軍が皇帝に背くという、最悪の構図を作り出す脅しだった。
作戦室の空気は再び氷点下へと逆戻りした。将軍たちの決断と監査官の告発が鋭く対立し、誰もが次の言葉を発せずにいる。ユリウス皇子が何かを言おうと身を乗り出しかけたが、それを制したのは私自身の静かな声だった。
「――アイゼンハルト子爵」
私はゆっくりと彼に向き直った。その仮面の下にある瞳は嵐の中の湖面のように凪いでいた。
「貴官の言い分は監査官として極めて正しい。規律を守り不確実な支出を咎める。それが貴官の職務であり陛下から託された信頼の証ですから」
「……ならば」
「ですが」
私は彼の言葉を柔らかく遮った。
「私もまた私の職務を全うせねばなりません。この国の未来を守り、無用な血を流さぬために最善と信じる手を打つこと。それが『天翼の軍師』の存在意義です」
私は一歩、彼の方へ歩み寄った。
「どうぞ、貴官の信じる正義のままにありのままを陛下にご報告ください。『軍師は暴走し、国庫を浪費している』と。……私は止めませんし弁明もしません」
その言葉に、アイゼンハルトの眉がわずかに動いた。彼は反論や言い訳、あるいは取引を予想していたのだろう。だが目の前の少女は自らの首に縄がかかることを是認した上で、なお進もうとしている。
「その結果、陛下が私を断罪されるなら私は甘んじてその罰を受け入れましょう。地位も名誉も、差し出す覚悟はとうにできています」
私の声には悲壮感など微塵もなかった。ただ、やるべきことをやるという透き通った意志だけがあった。
「ですが、その断罪の勅命が届くその瞬間までは……私は私の戦いを続けさせていただきます。一分一秒でも早く、この北の地に平穏をもたらすために」
アイゼンハルトは私を凝視したまま言葉を失っていた。
この少女は狂っているのか、それとも――。
計算でも虚勢でもない。彼女は本気で自分の身の破滅と天秤にかけてでもこの作戦を通そうとしている。その常軌を逸した覚悟の前に、彼の論理の刃は行き場を失っていた。
「……よろしい」
長い沈黙の後、彼は吐き捨てるように言った。
「そこまでの覚悟がおありなら好きになさればいい。……ですが、私は私の職務を全うします。貴官のその『独断』の結末、とくと拝見し冷徹に記録させていただきますので」
彼は腕を組み直し壁際へと下がった。それは承認ではない。だが、これ以上の妨害はしないという、ギリギリの意思表示だった。
私は彼に短く一礼すると、まるで何事もなかったかのように次の仕事へと取り掛かった。
別の『囁きの小箱』を取り出し、回線を開く。
「マキナさん……長距離対応の『新しい武器』の開発はどうなっていますか?」
通信機の向こうからマキナの快活な声が響く。
『ああ、超長距離ライフル銃のことか? 面白い試作品はできたが、まだ問題が山積みでな……。弾丸の精度とか、反動の制御とか……』
「超長距離ライフル銃?」
訝しむユリウスたちの顔を見ながら、私は「詳細は後ほど」とだけ言い、通信を切った。その間も、アイゼンハルトの灰色の瞳は、冷ややかに、しかし先ほどよりも探るような色を帯びて、私の一挙手一投足を観察し続けていた。




