第279話:『書記官の越権、監査官の正論』 -改訂版-
湖畔の休息から数日が過ぎた北壁の砦、作戦室の空気は再び硝煙の匂いと鉄の味を取り戻していた。壁の地図には新たな情報が赤いインクで書き加えられ、ヘルマンが持ち込む紙の束が刻一刻と変わる盤面の動きを告げている。
「――以上がバラク部族からもたらされた最初の情報です」
ヘルマンの淡々とした報告が静まり返った室内に落ちる。その声は事実だけを告げ一切の感情を排していたが、その内容が持つ重みは聞く者の肩にずしりとのしかかった。
衛生管理と『星影草』の効果は絶大で、部族を蝕んでいた病は沈静化しつつある。だが同時に帝王クルガンからの圧力が日増に強まり、バラクたちの焦燥が限界に近づいていることも伝えられた。
報告を聞く私は表情を変えずに地図の一点――バラクたちの野営地――をじっと見つめていた。その瞳には盤面を読み解く軍師の冷たい光が宿っている。皇子たちは報告される現実と、それを微動だにせず受け止める私の姿に息を呑んでいた。
ヘルマンが退室し重い静寂が落ちる。私が口を開くより先に、冷徹な声がその静寂を氷の刃のように切り裂いた。
「――報告は聞きました。それで、具体的な対策は?」
声の主は壁際に控えていた監査官アイゼンハルト子爵だった。彼は感情のない灰色の瞳で地図を見据え、まるでチェスの盤面を評価するように淡々と続ける。
「現状北方諸族は帝国の脅威です。彼らの焦燥はこちらにとって好機。放置し、クルガンと共倒れになるのを待つのが最も低コストな選択肢かと思われますが」
その非情なまでの合理性にユリウスたちが息を呑む。シュタイナー中将が不快げに眉をひそめたが、アイゼンハルトは意にも介さない。彼の視線は感情論に流される愚かな将軍たちを値踏みしているかのようだった。
私は彼の言葉を無視するように、シュタイナー中将と通信で参加するグレイグ中将に向き直った。
「……シュタイナー中将、そしてグレイグ中将」
テーブルに置かれた『囁きの小箱』が起動し、グレイグの「……おう、聞いているぞ」という声が響く。私は皆の視線が自分に集まるのを確認すると、二つのとんでもない提案を同時に突きつけた。
「――まず、先日陛下より下賜された活動資金の一部を使用して『星影草』の追加購入に充てることをご許可いただきたい。北方諸族全土に行き渡る量を可能な限り早急に」
「そしてその薬草を届けるため、私自身がバラクの部族を訪ねます。書記官リナとして、帝国からの親善使節団の一員という名目で」
その瞬間、アイゼンハルトは鋭く切り込んできた。
「待った……聞き捨てなりませんな、軍師殿」
アイゼンハルトの静かだが刃物のように鋭い声が響く。
「まず薬草の件。先日陛下より下賜された活動資金は、北壁の防衛力強化と新技術開発のために承認されたもの。それを敵対勢力への提供に流用するなど予算の目的外使用であり、明確な規律違反です。監査官として到底認めることはできません」
彼は私ではなくこの場の責任者であるシュタイナー中将を見据えて言い放つ。その目は規律を守れぬ将軍を断罪する検察官のそれだった。
「次に親善訪問の件。軍の最高顧問たる貴官が敵地へ赴くなど安全保障上のリスクが計り知れない。万が一貴官の身に何かあれば帝国が被る損失は金銭に換算不能。費用対効果を著しく欠く極めて非合理的な作戦と言わざるを得ない」
彼の言葉は完璧な正論だった。私怨も感情もなくただ「帝国という組織の論理」だけで構築された、反論の余地のない正論。その理路整然とした指摘に、作戦室の空気は完全に凍りついた。
『馬鹿を言うなッ!』
遅れて炸裂したグレイグの怒声は、私の無謀さに加えアイゼンハルトの正論に反論できない苛立ちが混じっているようだった。「自分が何を言っているのか分かっているのか! 敵地の真っ只中に自ら出向くだと!? 『狼の巣』での一件を忘れたか! これは命令だ、絶対に許可できん!」
そのあまりの剣幕と監査官の冷徹な指摘に、セラとヴォルフラムは私と小箱、そしてアイゼンハルトの間で板挟みになり青い顔をしていた。シュタイナーだけが腕を組んだまま、この混沌とした状況を黙って見守っている。
だが私は二方向からの嵐を静かに、しかし決して揺るがぬ瞳で受け止めていた。
「……分かっています。ですが行かねばなりません」
私は理性的に、そして感情に訴えかけるように反論を始める。
「『天翼の軍師』としてではなく、ただの書記官の少女として赴くことに意味があるのです。彼らに帝国が力だけではない国だと示すために」
「私が直接『星影草』を届けることでしか、彼らの心にある根深い不信と恐怖は拭えません」
「そして何よりこの目で直接でなければ分からないこと、伝えられないことがあります。彼らの暮らし、文化、そしてクルガンという帝王が彼らに落とした影の濃さを。それを知らずして真の和平など築けません」
その覚悟の定まった言葉に、グレイグは通信機の向こうでぐっと言葉に詰まった。だがアイゼンハルトの灰色の瞳は微塵も揺らいではいなかった。彼の世界では感情や信頼といった不確定要素は計算式に入れることのできないノイズでしかなかった。




