第265話:『星影草の誓い』
北からの風は相変わらず冷たい。その中、古びた角笛の音がその丘に三度、朗々と響き渡った。
再び設けられた密会の場は騎馬民族が古くから聖地としてきた、風の吹き抜ける丘の上だった。私がこの場所を指定したこと自体が彼らの文化への敬意を示す無言のメッセージ。ゲッコーを通じてその意図は正確に伝わったはずだ。
馬を降りたバラクの表情は以前にも増して硬い。私の教えた衛生管理は確かに効果を上げ、新たな病の発生は抑えられている。だが、すでに病に蝕まれた者たちを救うには至らず、部族に深く根付いた「呪い」への恐怖はまだ消えていない。何より、目の前の帝国の軍師の真意を彼はまだ測りかねていた。
私は『天翼の軍師』の姿で彼の前に一つの革袋を静かに差し出した。ずしりとした重みが乾いた音を立てる。
「これがあなた方の民を苦しめる病を根絶やしにする薬です」
私の静かな声にバラクの目が鋭く見開かれた。
革袋の口を開くと、中には乾燥させた『星影草』の根が土の香りを放ちながら詰まっている。
「あなた方の病は『黒斑熱』と呼ばれるカビの一種が引き起こすもの。この『星影草』にはそのカビを殺す力があります」
私はグランから得た知識を元にその薬効を騎馬民族にも理解できる平易な言葉で、しかし科学的な根拠を交えて説明していく。
その論理的で迷信を打ち破る説明にバラクは衝撃を受けていた。彼は長年「大地の呪い」に苦しめられてきたのだ。それを目の前の異国の「魔女」がただの「病」だと言い切った。
私はその動揺を見逃さず袋から根を一つ取り出すと、こともなげに口に放り込み、ゆっくりと噛み砕いてみせた。背後でヴォルフラムが息を呑む気配がしたが、構わない。
「……うーん、やはり苦いですね。毒はありません。人によっては頭痛がしたり、お腹が緩くなったりするそうですが、命に別状はないと聞いています」
その大胆な行動にバラクの背後に控えていた戦士たちの間に緊張が走った。
バラクは葛藤していた。この薬を受け取れば民を救えるかもしれない。だがそれは帝国の力を借り、古くからの伝統と信仰を疑うことを意味する。そして何より帝王クルガンへの完全な裏切りとなる。
「……なぜだ」
彼が絞り出すように問うた。
「なぜ我らを助ける。我らはお前たちの敵であろう」
その問いに私は仮面の下で静かに微笑んだ。
「私は戦いを終わらせに来たのです。憎しみの連鎖を断ち切り、新たな共存の道を探すために」
そして私は最後の切り札を切る。
「そうなのですが、この薬は無償では渡せません」
バラクの目が再び鋭く光った。
私は彼と対等な交渉相手として取引の条件を提示した。
「この『星影草』、そしてあなた方に不足している鉄製品と塩。それらと引き換えに帝国はあなた方から良質な馬、毛皮、そして何よりも……帝王クルガンに関する内部情報をいただきたい」
私はそこで一度言葉を切り、彼の心を射抜くように続けた。
「我々は対等な取引相手としてあなた方と手を結びたいのです」
「戦い」ではなく「取引」。
「支配」ではなく「共存」。
その言葉がバラクの心を揺さぶった。帝王クルガンがもたらすのは恐怖と貧困。だが、目の前の軍師が提示するのは民の命と部族の繁栄。どちらを選ぶべきか、答えは明らかだった。
長い、長い沈黙が流れた。風の音だけが二人の間を吹き抜けていく。
やがてバラクは決断した。
「……分かった」
その声はひどく重かった。
「その取引受けよう。……だが、もし我らを裏切るようなことがあれば、その首わしが命を懸けて貰い受けに行くことになるぞ」
「望むところです」
私は静かに応じ、差し出された彼のごつごつとした大きな手を自らの小さな手で固く握り返した。
風の吹き抜ける丘の上で二人の指導者の間で歴史を動かす密約が交わされた。
それは血ではなく、信頼と取引によって結ばれた新しい時代の同盟の始まりだった。
◇◆◇
握手を解くと私は即座に軍師の顔に戻った。
「では具体的な手順を。最初の『星影草』は明日の日没、この丘の麓にある涸れ谷に。受け渡しはゲッコーが監視します。あなた方はただ回収するだけで結構です」
「鉄製品と塩の第一回分は三日後。同じ場所に。その際クルガンに関する初期情報と交換物資として馬を数頭連れてきていただきたい」
バラクはその手際の良さに改めて舌を巻き、「……承知した」と短く応じる。
彼が馬に乗ろうと踵を返したその瞬間。
「――お待ちください」
私は呼び止め、小さな麻袋を差し出した。バターと砂糖の甘い香りが乾いた風に乗ってふわりと漂う。
「これは……?」
「焼き菓子です。砦で焼いてもらったものですが……少しもらいすぎまして。もしよろしければあなた方の『未来』の子供たちに」
バラクは虚を突かれ、言葉を失った。仮面の奥で私がどんな顔をしているのか全く読めない。だが、その声には先程までの冷徹な軍師とは違う、確かな温もりが宿っていた。
彼は無言でそれを受け取る。ごつごつした大きな手のひらに乗った温かい麻袋。その重みが彼が守るべき民の未来の重さとどこか重なって感じられた。
バラクは何も言わず、ただ一度だけ深く頷くと馬に飛び乗った。そして一度も振り返ることなく荒野の彼方へと駆け去っていく。
その背中を見送りながら、私は仮面の下でそっと息をついた。
(……どうか、この一手で未来が変わりますように)
馬を駆るバラクの内心もまた揺れていた。
(……天翼の軍師。……底の知れぬ魔女よ。……だが、あるいは……)
彼は懐に入れた焼き菓子のささやかな温かさを感じながら、自らの部族が生き残るための険しい道筋に思いを馳せた。




