茶話会:『海竜の港、影の囁き』
陽光が石畳を焦がし、逃げ水が揺らめく港町『サンタ・ルチア』。
聖王都の荘厳さとは真逆の、剥き出しの活気と欲望が渦巻くその港に、白銀の高速艇『アルバティン』が音もなく滑り込んだ。
エンリコ・ダンドロ少将は、タラップが下ろされるや否や、艦橋から甲板へと降り立つ。肌を焼く陽光よりも先に、彼を苛んだのはこの街に満ちる異様な熱気だった。
(……妙だな。街全体が、何かを期待するように浮足立っている)
彼の策略家としての嗅覚が、水面下の不穏な流れを敏感に嗅ぎつけていた。
そこへ、港の雑踏から一人の男が、まるで影が滲み出すかのように姿を現した。この地に潜伏していた『蜘蛛の糸』だ。男は前に進み出ると、周囲に鋭い視線を一度走らせ囁いた。
「――リナ様ですが魚市場のソフィアという女傑に匿われていました」
(魚市場……か。なるほど、合理的な潜伏場所だ)
エンリコは静かに頷く。だが、その隣で話を聞いていたマリアの瞳が、好奇心にきらりと光った。
「女傑ですって? 面白そうですね」
彼女は扇で口元を隠し、愉しげに囁く。
「その方にもご挨拶しておきませんといけませんわね。リナがお世話になったお礼も兼ねて」
その言葉を受け、エンリコはマリアへと向き直った。
「その『魚市場』に行かれるのであれば、私が手配した者たちもお連れください」
彼の視線の先、船の影から現れたのは、歴戦の海兵たちだった。その目つきは鋭く、衣服の下の筋肉は鋼のように張り詰めている。
「……ここにはアルビオンの者も多くいます。それに、街も少々浮ついているようですしな」
「あら、ご親切にどうも」
マリアは優雅に微笑むと、セラを伴い、海兵たちを従えて喧騒の中へと消えていった。
エンリコはその背中を見送りながら、独りごちる。
(……それにしても、この街の空気。何か派手にやらかした者がいたようだな、これは)
彼の予感は、すぐに確信へと変わった。
待つ間、街に放っていた諜報担当の海兵が、駆け込んできた。
「少将閣下! ゲッコー殿は、ただ潜入されたのではなかったようです!」
海兵は、市場の者たちから聞き出したという、にわかには信じがたい事を語り始めた。
町中を風のように走りぬけ、空を跳ぶ、黒い影の男。その伝説は、尾ひれがついて既に港の酒場の肴となっていた。
(……なるほど。街を浮つかせている熱の正体は、それか)
エンリコはこめかみを押さえ、深いため息をついた。
(必要なこととはいえ、なかなか熱い男らしい。……もう少々、密やかに行えなかったものかな……)
やがて、マリアたちが戻ってきた。だが、彼女と共にいたはずのセラはいない。
「行き先は確定ですわ、少将。……セラは、もう少し街に残って調べものがあるそうですから」
マリアはそう言うと、意味ありげに微笑んだ。
その頃、セラは一人、港の組合事務所にいた。
魚市場のソフィアから『まあ、別に見られて困るような物は無いから、かまやしないが…』と、帳簿の閲覧許可を取り付けたのだ。リナから最も信頼できる人として、聞いていたらしい。
目の前には、うず高く積まれた羊皮紙の山。インクと潮の匂いが混じり合う中、彼女の翠の瞳が、驚異的な速さで数字の羅列を追いかけていく。
(……おかしい)
彼女の指が、ぴたりと止まった。
ここ数ヶ月の、アルビオン船籍を名乗る複数の商船による、特定の物資の購入記録。その量が、尋常ではない。
干し肉、保存用の塩、そして薬草。どれも長期航海や軍事行動に不可欠なものばかり。購入量は、数百人規模の人間が数ヶ月は生活できる量に達している。
(これだけの物資を、ただの商船が中継港で補給する理由は、ない。……彼らは、この先に『消費地』――つまり、大規模な『拠点』を構えている……!)
◇◆◇
エンリコは海図を一瞥し、艦橋へと向かった。そこへ、セラが駆け込んでくる。
「エンリコ少将! アルビオンは、我々の想定を上回る規模で動いている可能性があります!」
彼女は息を切らしながらも、帳簿から割り出した物資の量を正確に報告する。その的確な分析に、エンリコは目を見張った。
(……なるほど。軍師殿の副官も、ただ者ではないか)
セラの報告は、エンリコの「勘」を「確信」へと変える、決定的な証拠となった。
「――ロッシ中将、こちらエンリコだ。……敵の巣穴の正確な位置を伝える」
海図の座標を、冷静に、一つ一つ正確に伝えていく。その声は、もはやただの伝令ではなかった。二つの艦隊を動かす、もう一人の指揮官の声だった。
通信を終え、エンリコはマリアに向き直る。
「さて、聖女殿。我々も急ぎ――」
「いいえ」
だが、彼の言葉を遮ったのは、マリアの氷のように冷たい声だった。
「わたくしたちは、聖王都へ戻ります」
「……何と?」
「ライナー衛士長が、そろそろデニウス・ラウルを確保している頃合いでしょうから」
彼女の瞳は、もはやリナが向かった海域を見てはいなかった。その視線は、さらにその先を見据えている。
「距離的に、ロッシ中将の艦隊の方が間違いなく先に着く。しかも、最強の『剣』と『盾』を乗せて。わたくしたちが今から駆けつけても、戦の後片付けを手伝うくらいしかできますまい」
マリアは扇を優雅に広げ、その影からエンリコを射抜いた。
「ならば、わたくしたちが優先すべきは何か。……アルビオンという不確かな敵について、あらゆる情報を得ることです。あのデニウスという男は、そのための極上の『情報源』。それを確実に手中に収めることこそが、今、最も優先すべきこと。そうは思いませんこと?」
その、あまりに冷徹で、大局を見据えた判断力。
エンリコはしばし言葉を失い、やがて、その唇に愉悦の笑みを浮かべた。
「最大船速。針路、聖王都『蓮華』!」
彼の号令が再び艦橋に響き渡る。
二人の策略家を乗せ、白銀の船は再び白波を立てて大海原へと滑り出した。




