茶話会:『白亜の港、盤上の駆け引き』
聖王都『蓮華』。その名は白亜と祈りの都を謳う。
だが、帝国海軍が誇る最新鋭艦『アルバティン』の艦橋から港を見下ろすエンリコ・ダンドロ少将の目には、その敬虔さとは程遠い俗世の澱みが映っていた。大神官たちの法衣の下に隠された権力欲。行き交う商人たちの剥き出しの打算。それら全てが、陽光に輝く白亜の壁に落ちる、拭い難い染みのようだ。
骨董趣味のようなティーカップを指先で優雅に弄びながら、彼は届けられたばかりの報告書に目を通す。聖女マリアの外交手腕は、確かに見事というほかなかった。
(あの女狐。貸し借りと脅しを飴と鞭のように使い分け、老獪な大神官どもを見事に手懐けたか)
まるで観劇の感想を漏らすように、エンリコは小さく息を吐いた。彼女が聖王国という舞台を整えている間、自分は自分の仕事をこなすだけ。彼の張り巡らせた『耳』――海軍の情報網は、聖女が動かす『蜘蛛の糸』とは別に、この港の潮の流れとその底にある濁りを静かに読み解いていた。
やがて、一人の士官が音もなく彼の脇に立ち、封蝋された書簡を差し出す。
『デニウス・ラウル、依然として市内に潜伏。配下の者が頻繁に港の酒場に出入りし、何者かと接触』
(ほう。この清浄なる都にも、アルビオンの根は深く張られているらしい)
エンリコはカップをソーサーに置くと、それ以上深追いするなと短く命じた。下手に刺激すれば、蛇は穴に逃げ込む。今はただ、その尻尾の動きを静かに見守るのが得策だった。
そして、運命の日。
艦橋の重い扉が勢いよく開けられ、副官のライナーが転がり込んできた時、エンリコは全てを察した。息を切らし、軍服の襟元も乱れたライナーの姿が、事態の急変を何よりも雄弁に物語っていた。
「エンリコ少将! マリア様は!?」
息を切らし、軍服の襟元も乱れたライナーの姿が、事態の急変を何よりも雄弁に物語っていた。彼がこの聖王都に残ってデニウス捜索の指揮を執っていた間に、サンタ・ルチアへ向かったゲッコーからの、命を繋ぐ報せだった。
その声に応えるように、艦橋の奥から聖女マリアが姿を現す。
ライナーは震える指で羊皮紙を解くと、そこに記された暗号を、魂ごと焼き付けるかのように読み上げた。
「――『リナ様、発見。……ただし、アルビオン連合王国の輸送船、その船上にて』!」
「――『雛は、自ら狼の巣へ。……俺も続く。……あとは、頼む』!」
絶望を孕んだその報告の中に、エンリコだけが確かな光明を見出す。
(サンタ・ルチア……)
これで全ての点が線で繋がった。
天翼の軍師は聖王国にはいない。デニウスはこの街で空振りを続け、その間にまんまと別の港から大海原へ漕ぎ出した。これは天翼の軍師が何らかの策を巡らせた結果とみて良いだろう。それを嗅ぎつけたゲッコーという男、見事な嗅覚だ。
その時、再び艦橋の扉が開かれた。衛兵の制止を振り払うように現れたのは、聖女マリアその人だった。
「少将、すぐにサンタ・ルチアへ船を出してください」
マリアの声が、氷を砕くように鋭く響いた。
だが、エンリコは動じない。彼は空になったティーカップをカチャリと音を立ててソーサーに戻すと、静かに、しかし有無を言わせぬ響きで告げた。
「聖女殿。今この『アルバティン』でサンタ・ルチアへ向かっても、間に合いますまい。大海原で一隻の船を探すのがどれほど困難か……海を知らぬ貴女でもお分かりのはず」
そして彼は、中央の海図台に広げられたチャートの一点を、細く長い指でトンと叩いた。王国沖に浮かぶ、無人島の一群。
「アルビオンの輸送船が向かう先……その『拠点』の場所は、おそらくここです。直接、こちらへ向かうべきかと」
エンリコの冷徹な指摘に、マリアは悔しげに唇を噛む。だが、彼女はすぐに顔を上げた。その瞳は既に、その先の未来を見据えている。
「あなたの『勘』、当てになりそうですわね。ですが」
彼女はエンリコの目を真っ直ぐに見据え、言い放った。
「いえ。だからこそ、サンタ・ルチアへ向かうのです。その勘を『確信』に変えるために。万が一、彼らがアルビオン本国へ針路を取っていた場合、取り返しがつかなくなりますわ。ゲッコーならば必ず、船の最終目的地に関するより詳細な情報を残しているはず。それを回収し、確信を持って敵の喉元へ刃を突き立てる」
「……なるほど」
エンリコは、熱に浮かされることなく最善手を見抜く彼女の判断力に、純粋な感心を覚えた。
「それに」マリアは不敵に微笑む。「手は打ってありますわ。私がここにいる間、セラには連絡を取ってもらっていました。アクア・ポリスでは『鋼のトビウオ』の建造をほぼ完了し、『黒曜の疾風』も既に到着済み。帝国の盾たるヴォルフラムも合流し、準備が整い次第ポルト・アウレオ方面へ向かうよう指示してあります。王国方面へ向かっていた場合は、彼らが最速で対応できる。……あらゆる事態に対応するためですわ」
そのあまりに周到な布石に、今度はエンリコが虚を突かれた。
(いつの間に……。この女、ただの奇跡使いではない。あの『天翼の軍師』と渡り合うだけのことはある、か)
「――分かりました、聖女殿」
エンリコは初めて、彼女という駒の価値を認め、軽く一礼した。
「貴女の采配に従いましょう。最大船速! 針路、サンタ・ルチア!」
彼の号令が艦橋に響き渡る。すぐさま銅鑼の音が鳴り響き、帝国が誇る最新鋭艦は重々しく岸壁を離れた。
二人の策略家を乗せ、船は白波を立てて大海原へと滑り出す。
エンリコは艦橋から、夕陽に染まり始めた聖王都の尖塔を見つめていた。




