茶話会:『海軍少将は紅茶を嗜む』145
帝国南部方面軍司令部、軍港都市『アクア・ポリス』。
海軍少将エンリコ・ダンドロの執務室は、うんざりするほどの紙の山と、上質なダージリンの香り、そして主の深い溜息で満ちていた。
(……全く、あの“海竜”様は)
エンリコは白磁のカップを唇に運びながら、目の前の書類の山――演習計画の修正案、補給物資の在庫確認書、果ては士官食堂のメニュー改善要求書に至るまで――を冷ややかに見下ろした。
我が主君、オルランド・デ・ロッシ中将。彼は戦場で嵐を呼ぶ天才だが、こと陸に上がっての細々とした事務仕事となると、その全てを副官である自分に丸投げする悪癖があった。
(……まあ、おかげで自由に動ける時間もあるが)
彼の視線が、机の隅に重ねられた一束の極秘資料へと移る。
それは彼が個人的に収集・分析している『所属不明船に関する報告書』だった。ここ数ヶ月、王国の南海域で繰り返し目撃されている、巨大な帆を持つ異国の大型船。その神出鬼没な動きは、まるで海の亡霊だ。
ロッシ中将は「海賊の類であろう」と気にも留めていない。だが、エンリコの策略家としての直感が、その背後にいる「見えざる手」の存在を告げていた。
(これほどの規模の外洋船を動かせる国家は限られる。……もしや、アルビオンか? あの国が、この大陸で何を企んでいる……?)
まだ確証はない。だが、彼の思考の海には、その名が不吉な暗礁のように浮かび上がっていた。
その静かな思索は、鎧を鳴らす慌ただしい足音によって唐突に破られた。
「少将閣下! ロッシ中将閣下が至急お呼びです!」
伝令兵の切羽まった声に、エンリコは優雅な仕草でカップを置くと、本日何度目になるか分からぬ溜息を一つついて立ち上がった。
中将執務室の空気は、いつもとまるで違っていた。
ロッシは窓の外の海を背に仁王立ちし、その巨躯から放たれる気配は、嵐の前の海のように張り詰めている。
「エンリコか。……急な話で悪いが、貴様の船を出してもらう」
「は?」
「最新鋭の『アルバティン』だ。今すぐポルト・アウレオへ向かえ。そこで乗せる『客』がいる」
有無を言わせぬ命令。その声には、個人的な感情を押し殺した鋼の響きがあった。
「理由は聞くな。これだけは言っておく。……これは、皇帝陛下直々のご命令に繋がる、帝国の最重要任務だ」
ロッシのただ事ではない様子に、エンリコの表情から初めて優雅な笑みが消えた。
◇◆◇
『アルバティン』の艦橋は、出航準備の喧騒に包まれていた。
部下たちの怒号が飛び交う中、エンリコは一人、冷静に思考を巡らせる。
(皇帝陛下……。ポルト・アウレオ……。そして、このタイミングで動くロッシ中将。……グレイグ中将の管轄で、何かとんでもないことが起きた、と見るべきか)
彼の頭脳が、断片的な情報から事件の全体像を驚くべき速度で再構築していく。
ふと、あの「幽霊船」の件が脳裏をよぎった。まさか。
「副長!」
「はっ!」
「例の所属不明船、最新の目撃情報をもう一度洗い直せ。どんな些細な情報も見逃すな」
数日後、ポルト・ア・ウレオの港。
エンリコはタラップの上から、これから乗船してくる「客」たちを観察していた。
聖女マリア。衛士長ライナー。副官セラ。
誰もが尋常ではない空気を放っていた。
エンリコは彼らを「面白いが、ひどく扱いにくい駒」だと冷静に査定し、内心の面倒くささを完璧に隠して、優雅な笑みで出迎えた。
(……やれやれ。厄介な客人を乗せることになったものだ)
◇◆◇
船室での作戦会議。
エンリコは海軍軍人として、彼らの報告に静かに耳を傾けた。
まず副官セラから今回の任務の最重要機密として、拉致されたのが帝国の『天翼の軍師』本人であることが告げられた。エンリコの優雅な表情は崩れなかったが、その瞳の奥でロッシ中将のただ事ではない様子の理由を完全に理解した。
次に聖女マリアが、レオという商人からもたらされた情報として犯人が『アルビオン連合王国』のデニウス・ラウルという男であること、そして彼が聖王国船籍を偽装した『海燕』で出航したことを説明した。
その話を聞きながらエンリコの冷静な仮面の下で、思考が火花を散らした。
『海燕』。その船名には聞き覚えがない。だが、報告された船の規模、特徴、そして何より「アルビオン」というキーワード。
それらは全て彼が追い続けてきた「幽霊船」のプロファイルと不気味なまでに一致していた。
(……やはり繋がったか)
彼の心の中で全てのピースがカチリと音を立ててはまった。
この事件の黒幕はやはりアルビオン。自分の仮説は正しかったのだ。
マリアは海図を広げその上に指を滑らせた。
「――私たちはまず聖王国へ向かいます」
「……ほう?」
エンリコは興味を隠さず彼女に視線を向けた。
「まっすぐ本国へ帰るとは思えません。必ずどこかで補給と情報収集を行うはず。その最も可能性が高い寄港地が、聖王国の首都『蓮華』です。あそこは南海の十字路。全ての船と情報が集まる場所ですから」
その極めて合理的な推論にエンリコは静かに頷いた。
「……承知いたしました。航路は最短ルートを取ります」
やがてマリアの号令一下、船は聖王国『蓮華』を目指し音もなく滑るように出航した。
エンリコは艦橋の定位置に戻り、再び紅茶を口にする。
彼の視線は西の空、サンタ・ルチアの方角へと向けられていた。
(さて、面白くなってきた。聖女殿の読みも悪くない。そしてこれだけの人間を狂奔させる『天翼の軍師』とは一体どんな怪物なのだろうな)
彼はカップを置き独りごちる。
「まずは、蜘蛛の糸が何を掴むか。お手並み拝見と行こう」
紅茶の最後の一滴を飲み干すと、彼は新たな盤上でのゲームの始まりを静かに愉しんでいた。この航海の先に自らが追い求めていた「幽霊船」の真実が待っているかもしれないという、確かな予感を胸に。




