野良犬の侵入劇
「エリエラ、迎えに来たぞ!」
それは唐突だった。
白いドアからここにいるはずのないアレックス様が、いつものように長く一直線に伸びた髪を揺らしながらやって来たのは。
「アレックス、様……」
だから私の心の中に一杯に、驚きと懐かしさが溢れた。
アレックス様は、長らくミーラン以外に触れられることのなかった私の腕を引き「逃げるぞ」と言った。
けれどこの場に馴染んでしまった私に『逃げる』という言葉はしっくりと来ない。事実、動き出そうともしない私をいじらしく思ったのか、アレックス様は私を抱いて部屋を駆け出した時、感じたのは違和感だった。
ミーランの腕はもっと冷たいだとか、彼は息を切らして走ることはないだとか、比較対象はミーランだった。
けれど私はアレックス様を拒絶して、この腕の中から逃げようとは思わない。
その腕はやはり懐かしくて、温かくてたまらないのだ。
アレックス様は私の婚約者だった。
こんな表情のない、わかりにくい私の隣にいてくれた家族以外の、父以外の唯一の男性であった。
彼は名家・フラッドマン公爵家の三男に生まれ、私でなくとも婚約者に相応しいご令嬢なんて何人もいた。
……けれど彼は私の婚約者でいてくれた。
それはフラッドマン家にとって、シェパードレア家の令嬢と婚約することによって得る物が多かったからなのかもしれない。
あの婚約にどんな意味があろうとも、私はアレックス様がいつまでも婚約破棄をしなかったことに感謝しているのだ。
彼は顔をしかめるかもしれないが、私にとって、アレックス=フラッドマンという人は、兄のようだった。
私を見捨てないでいてくれた人。
――まさか私の方から婚約破棄の旨を伝える手紙を送るなんて夢にも思っていなかった。
アレックス様は息を切らして真っ白な廊下を駆ける。
道順はすっかり頭に入っているのか迷うことなく、かつ誰一人としてすれ違うことなく。
私はただ揺られるだけである。
この振動すら愛おしいと言ったら……アレックス様は、そして私の夫はどんな顔をするのだろうか?
「飛ぶぞ。舌、噛むなよ!」
もう十年以上も前に、庭で初めて出会った時、やはりアレックス様はそう言ってから飛んだ。
あの時はフラッドマン家のお屋敷の2階から。
思えばあの時、アレックス様は初対面でありながら私の感情を読み取ったのだった。
懐かしさばかりで、けれど違うこともある。
幼い私達は茂る木々に引っかかって、足をぶらつかせて、使用人に助けてもらったのだ。後になってからなんでそんな危ないことをしたのかと、やはりあなたはダメな子ねとお姉様に再三と説教を受けたものだった。
だが今は、風を切り開いて着地する。
鼻をくすぐるのは、以前ミーランと見た花の香り。
もうほとんど花が散ってしまったというのに、未だ空気はその甘い香りをふんだんに孕んでいる。
アレックス様はどこを目指しているのか、その場で止まることはない。
着地して衝撃を逃すと再び走り続ける。身軽なのは今も昔と変わらない。
私だって軽くはないのに、ミーランに運ばれている時もそうだが、こうも簡単に運ばれると、自分の身体が軽いのではないかと錯覚しそうになる。
アレックス様の漆黒の髪と正反対の私の白の髪が風にたなびいて、そしてそれはピタリと止まった。
とある場所でアレックス様がその足を止めたのだ。
いつのまにそんなに距離を走ったのか、来た時に見ただけの鮮やかな彩りのお城ももう見えない。
周りにあるのはあそこにあった色が全て幻覚だと思えるほどに、真っ白な石を積み上げた小屋ばかり。
あの生活は現実だったのだろうか?――そう思ってしまうほどに周りには色がない。
「エリエラ!」
夢か現か迷子になっている私を地上へと降ろして、アレックス様は目の前に立って私の肩をガッシリと掴んだ。
「アレックス様……ここは?」
「エリエラが立っているのはフラグ合衆国、そして俺が立っているのはミヒメソ皇国。俺達の間には国境が存在する」
線もなければ、門も塀もない。何も国境を表すものはない。
だがアレックス様は私にはウソをつかない。そう、彼と私は幼い頃に約束した。だから私は彼の言葉を疑わない。
だがそれだけでは彼がこの場にいる理由を知る術にはならない。
「アレックス様はなぜここにいるのですが?」
だから直接聞くことにした。
遠回しに聞くなんて、私には難し過ぎたのだ。
「破棄されたとはいえ、12年間お前は俺の婚約者で、俺はお前の婚約者だったんだぞ? あんな紙っきれで爵位剥奪されたから婚約も破棄してくれなんて言われてはいそうですかってなるかよ! とりあえず話し合いをしようにもお前はどっかの国のやつと契約して嫁いでいったっていうし、な……」
「……ごめんなさい」
「ったく。あのな、身売りするくらいだったら一言相談してくれ。金なら腐る程あるんだから」
「ですが、あなたの家に迷惑をかけることなんて……」
「安心しろ。お前を買う金くらいこの国に来る前に一儲けしてきた」
「一儲けってまさか……」
『儲け』なんて、商人でもないアレックス様が口にする時は必ず『あること』で手に入れたお金を指すのだ。
「お前も知ってるだろ? 賭け事で俺の上や隣に立つものはいない」
「でもそれはフラッドマン家から禁止されて……」
貴族の、それも名家のご令息が賭博場に出入りするなど褒められた行為ではない。だが、もしも彼が出入りしている場所が国営のカジノならまだいい方で、彼は違法賭博も嗜んで見せるのだ。
だからフラッドマン家はアレックス様に一切の賭博を禁じた。
それは彼が16にもならない時のことだった。
あれから何年も、私が知っている限りではアレックス様が賭博場に出入りすることはなかった。
なのになぜ今さらになって……。
背筋には冷たい汗がつうっと流れて私のせいなのではないかと心の中の誰かが笑っていた。
けれどアレックス様はそんな私の考えさえもお見通しなのか、ポンポンと私の頭を優しく叩いてから、ミーランによって整えられた髪をぐしゃぐしゃにかき乱した。
「安心しろ、家ならとっくに勘当されたよ。お前を探すといって飛び出した数日後にご丁寧に5枚ぶんの手紙に載せてな。まさか婚約破棄の手紙より枚数多いとは驚いたがな」
「でもそれは……私の、せいでしょう……」
安心、なんてできるはずがない。
私のことはどうでもいいのだ。どうせ私は不良品で、他に役に立てる術のない人間なのだ。
けれどアレックス様は違う。
優しくて格好良くて、社交界でも彼に憧れの眼差しを向けるご令嬢やご令息は多かった。……そして私に苛立ちや嫉妬、憎悪を向ける方たちも。
そんな彼の人生を崩してしまったことに、私の視界は、心は揺らぐ。
どうすればよかったのか――と。
最善を選べなかったことに後悔し、そして喉元まで上がってきている己への嫌悪感を吐き出さないように堪えて…………次第に気持ちが悪くなる。
「婚約者つうのはさ、要は未来の家族だ。そうじゃなくてもお前は妹みたいなもんだしな。どこぞの国で嫌なことでもさせられてんじゃねぇかと思ったら迎えにくんのが家族だろ?」
「アレックス様……」
「なぁ、エリエラ。ミヒメソ皇国ではお前はミーランとかいうやつの妻らしいが、キエラ王国では俺の婚約者なんだ。けれどここは、フラグ合衆国はそのどちらでもない。つまりお前には選ぶ権利がある。ミーランの妻になるか俺の婚約者になるか、それともただのエリエラとして二国以外の国で暮らすか」
「選ぶ?私が?」
「ああ」
「なんで……そこまで……」
なぜ彼はこんなにも優しいのだろう。
なぜ彼はこんな私を『家族』だと呼んでくれるのか。
どんなに与えてくれても、もらうばかりで私には彼に渡せるものなど何もないのだ。せめて対等だった家柄さえも、もう私にはない。
「ん? ああ、ええっと……それはまぁ……お前は妹みたいなもんだからな。大体お前は昔から何から何まで遠慮しすぎなんだよ。一つくらい選べ! ……お前が選んだものは誰にだって文句はつけさせねぇから」
考えてなかったらしいアレックス様は少しの間考えて、そして頭を掻きむしりながらそう告げた。
ああ、そうだ。アレックス様はこういう人だったのだ。
なぜ、私は気づかなかったのだろう。
優しくて、そして傲慢な人。
私はそんな彼に何度手を引かれ、助けられただろう。
口を開いて、大事な人に私の言葉を紡ごうと決めた。
きっと私の口から出るのはアレックス様が望む言葉ではないだろう。それでも私も、彼には、アレックス様には嘘は吐きたくないのだ。
「私は……」
けれどそれから先の言葉は、聞き慣れて耳に馴染んだ声の主によって遮られる。
「エリエラは私と契約し、今の彼女は私の妻です」
私と同じく色を持たないその男は一体いつからアレックス様の背後にいたのだろうか。
息も乱れず、気配さえも感じさえないミーランだったが、その瞳の色がいつもよりも強くなっていることを私は見逃さなかった。
「はっ、それはこの国でのことだろう? あんたが払った倍額は用意している。あんたが金でエリエラを買ったなら今度は「私は」
自分の精一杯の気持ちを詰め込んだ弾丸でアレックス様の言葉を遮って、そして2人の視線を掻っ攫う。
闇のように黒い瞳も、見慣れた色素の薄い青も、私をじいっと見つめる。
けれどそれは心地の悪いものではない。
2人の言葉を借りるならば私は妻であり、そして妹のような婚約者なのだから。
「私はこの国に残ります」
アレックス様はほんの一瞬だけ目を見開いて、そして気が抜けたように笑った。
「そうか……お前が納得しているならいい。まぁ俺もここにきて安心できた。お前、愛されてるみたいでさ。てっきり買われたっていうからもっと人売りみたいなのを想像したんだけど違かったみたいだ」
「え……」
昔みたいに頭をポンポンと撫でるアレックス様。
そんなはずはないのに、まるであの頃に戻ったのだと錯覚しそうになる。
彼の温かい手は「その手を退けなさい」と平坦な言葉と共に伸びた冷たい手によって弾かれて元の位置へと戻っていく。
「まぁ……相手が嫉妬深いのが玉に瑕だが」
「エリエラ、無事で何よりです。……警備が破られたと聞いて飛んできてみればどこからか野良犬が入り込んだようで」
「はっ、犬っころに破られるような警備じゃこいつは預けてらんねぇな」
「ええ、まさかあの警備に抜け穴が存在するとは驚きました。見直しが必要なようです」
「驚いたんなら驚いたような顔でもしてみろよ」
アレックス様ははんと鼻を鳴らして意地悪な顔で笑って見せる。それは人をあまり信用することのない彼がミーランを認めた証だった。
「エリエラ、帰りますよ」
結局、私は彼の手を拒むことは出来ないのだ。
拒んでしまったらこの人は、私に行かないでくれと目だけで必死で訴えて、怯えている一人の男はどうなってしまうのだろう?
「ごめんなさい」
「謝るこたぁねぇ。お前が、お前自身が選んだんだから。俺は世界各国でも回ることに……「待ってください」
気にすんなと頭を掻いてこれからを描くアレックス様の言葉を遮ったミーランの声は思いの他大きく、彼もこんな声が出せるのかと驚いた。……相変わらずその声は淡々としていて感情なんて読み取れるものではないけれど。
「なんだ?」
「あなた、家族になりませんか?」
「はぁ?! 何いってんだ、お前?」
だからいきなり何を言い出すのかとアレックス様と同じように大きく目を見開いて、私を抱きかかえる男の顔色を、瞳を覗いた。
けれどやはり彼が何を考えているのかはサッパリ見えてこない。その代わりに彼の瞳にはもう怯えはなかった。
それはまるでもう彼の中では全てが決まってしまっているかのように。
「エリエラはあなたの妹なんでしょう?」
「それは言葉の綾っていうやつで、だな……」
「ですがあなたの示したものは、家族に向ける愛だ。……私と、同じ。夫の座は譲りませんが、エリエラの兄の座なら、私達の家族になら……」
「はぁ……あんたってめんどくせぇやつだな」
「あなたがわかりやすすぎるんです」
私には相変わらずミーランが何を考えているかサッパリ読めない。けれどどうやら賭け事に慣れているアレックス様にはわかるようだった。
「まぁもう行く場所もねぇしな。あんたのママゴトに付き合ってやるよ。ほら、さっさと家に案内しろ!」
「家というか城の一室ですが。隣の空き部屋に住んで頂ければ、ドアで繋ぎますので」
「……夜はちゃんと鍵閉めろよ?」
「なぜです?」
「なぜってそりゃあ、若い男女の寝室に間違って入りでもしたら居心地悪くなるだろうよ!」
「その心配はありません」
「ああ?」
「家族はみんなで寝るものですから」
「……………………エリエラ、俺が変なのか?」
「この国の習慣はまだ私もよくわかってはいなくて……。明日にでも知ってる限りはお教えしますね」
「出来る限り細かく頼む」
訂正しよう。
やはりアレックス様にもミーランの考えていること全てが読めるわけではないらしい。
事実、翌朝私の知っていることをなるべく細かく彼に伝えたところ、顔色を曇らせて、唸って、そして最終的に「意味わかんねぇ!」と私達『家族』の部屋に響かせたのだから。