第三十三話 オルゴールが鳴り止む前に
美しく、華やかで、残酷な女性。
「……っ」
彼は、彼女を追いやった継母に似ていると気付いた。
途端、肩に――首に近い部分にかかる手が、今にも喉に伸び、力を込める――そんな想像が這い上がり、フィオナは膝が震えた。
「どうしました?」
「なん……でも……」
首を横に振る。
彼の声は、相変わらず穏やかだ。だが優しさが感じられるわけではない。それが、無性に不安を煽る。
心臓が激しく脈打ち、この部屋中に轟いているのではないかと思った。
恐怖に震えるフィオナに気付いているのか、いないのか、彼はあっさりとフィオナから離れ、奥の椅子に腰掛けた。
そこで、ようやく肩の力が抜ける。
彼は、あの人ではない。
少し似ているだけだ。性別も、性格も、表情も、何もかも違う。
他人のそら似だ。
テーブルを睨みつけ、自分に言い聞かせる。そう、他人だ。怯える必要はない。
「顔色が悪いですね。ここまで遠かったでしょう。さあ、座って」
言われて、ようやく椅子の存在を思い出し、フィオナは縋りつくように座り込んだ。
「おいしい紅茶とお菓子を用意しました」
目の前に差し出されたのは、湯気の立つティーカップと焼き菓子だ。
独特の紅茶の香りと、甘い菓子の匂いが、今の状況を思い出させてくれた。
この家には、レインと話をしに来ただけだ。ただ、お茶を飲み、たわいのない会話をする。それでフィオナの役目は終わるはずだ。よく分からないが、ルイロットはそういったことを望んでいたのだろう。
「ゆっくりしていってくださいね」
向けられるのは、日だまりのような笑顔だ。
でも、どこか落ち着かない。
「あなたのことは、ルイロットから聞いていますよ。ずいぶん気に入ったようで、よく話しています」
「そうですか……」
そんなに気に入られるようなことをしただろうか。いまいち思い当たる節はないが、別に嫌な気はしない。ルイロットは、少々強引なところがあってマイペースだが、邪気のない可愛らしい少年だ。
「ルイロットとは、ご家族ですか?」
この得体の知れない茶飲み相手との間に、納得のいく関係性を見出したくて、フィオナは聞いた。
親か、兄か、そんな答を期待したが、
「んー……家族、ではないですね。ずいぶん昔から、この森に一緒に住んではいますけど」
曖昧な回答は、余計にフィオナの胸に影を落とした。
「気になります?」
「…………」
問われ、素直に気になるとは答えにくかった。探りを入れているように思われても気まずい。
「ルイロットはね、私と母が拾ったんです。行き場をなくしてこの森で泣いていたのを私が見つけて、母が保護したんですよ」
だが、答を待たずしてフィオナの気持ちをくみ取ったのか、レインは話し出した。
「お母様は……?」
「もう死にました」
「……ごめんなさい」
「いえ、人は死ぬものですから」
母親がいて、当たり前だが人は死ぬものだと、そう言い切った彼に、自分でも不思議なほど安堵感を覚えた。
本当に、彼が悪魔か何かだと信じていたのだろうか……フィオナは自嘲した。
「どうですか? 最近は」
世間話のように切り出すレインからは、他意は感じない。
「この森での生活は楽しいですか? 新しい友だちが増えたと、ルイロットが喜んでました」
無邪気な笑顔を思い出し、表情が弛む。
「とても楽しいです。毎日が色鮮やかで、夢みたい」
「夢ですよ、全部」
「え……?」
当たり前のように言われ、フィオナの表情は固まった。
その様子を湯気越しにうかがい、レインはまたにっこりと笑った。
「って言ったら、どうします?」
その言葉に、あたかもそれが真実であるかのような錯覚を受ける。
(朝起きたら、城の自分の部屋で……)
寝台の上で、幸せな夢に涙を流す。
その方が、よほど現実的だ。
夢なら――覚めないでほしい。
「安心して下さい。現実ですよ……確かにね」
気付けば息を止めていたらしい。
呪文でも解けたように、フィオナは息を吐いた。
紅茶の薫りが舞い戻ってくる。
レインがカップをティーソーサーに置く音が、やけに大きく聞こえた。
まだ、曲が続いている。
オルゴールにしては、ずいぶんと長い気がした。
そもそも、自分はどれくらいこの場所にいるのだろうか。
オルゴールが鳴り止んでいないということは、ほんの短い時間だったのかもしれない。
だが、彼との会話はとてもゆっくりしていて、長居をしているような感覚があった。
「この曲……」
「気に入りました?」
「……好きです。なんだか、ずっと聞いていたいような」
耳から入る曲は、身体全体に染み渡り、心に届く。とても心地よい旋律だった。
「でも、終わって欲しくない。終わったら、とても寂しくなりそう――」
――フィオナは思った。
帰ろう。
オルゴールが鳴り止む前に。
この曲が終わる前に。
カップから口を離したレインの唇が、美しい弧を描いた。
まるで、この森に来て最初に見た月のようで、
「……帰ります」
ぼんやりと、その月を見つめながら、フィオナは席を立った。
「ええ、おつかれさまです。今日は、お会いできて良かったですよ」
◇ ◆ ◇
やはり雨が降っていたらしい。
その小さな家を出ると、足下の芝が湿っていて、フィオナは空を見上げた。
暗い色をした、ずっしりと重い雲が垂れ込めている。
明日は聖日祭なのに、などと大陸中の人間が呟いていそうな感想を抱く。
そういえば、聖日祭に雨が降ったことは……あっただろうか。
記憶の限りでは、いつもその日は選んだように晴天で、パレードに支障をきたしたことはなかったように思う。
さて、どう進んだものか。よく考えたら、まったく道が分からなかった。
「フィオナ!」
フィオナがレインに道を聞きに戻ろうかと考えた矢先、繁みからルイロットが飛び出してきた。
「レインには会えた?」
道案内を放棄したことに悪びれた様子はなく、ルイロットは自分の聞きたいことだけを聞いてきた。意趣返しに、フィオナは答えずに質問を返した。
「用事は終わったの?」
「うん! とりあえず追い返したから。たぶん大丈夫とおもうんだけどね!」
満面の笑みで答える。そこには、やはり一欠片の邪気もない。
追い返すということは、獣か何かだろうか。
昼間は、獰猛な動物たちはなりを潜めているが、彼らに捕食されるような弱い動物は、天敵が寝ている間に活動を活発にする。
ラウもよく、栽培園を狙う鳥や虫を追い返すのに頭を捻っていた。
「はーあ。つかれたよ。あいつらしつこいなー。この森広すぎて、目がいくつあっても足りないよ。ぼく2つしかないのにさ!」
親指と人差し指で輪を作り、自分の目に当ててみる。
くるくると表情を変えるこの少年の愛らしさに、笑みを誘われない人間はいないだろう。
「ふふっ、そうね」
「みんな協力してくれたらいいのに、むしだからなー。自分のしごとしかしないんだ。ま、ふつうそうなんだけどね」
この森には、どれだけ彼の仲間が住んでいるのだろう。
「レインにはちゃんと会えた?」
「会えたわ」
「どう? おもしろくない?」
ルイロットが目を輝かせて見上げてきた。何を期待しているのか分からず、フィオナは返答に困った。
たしかに面白いが、相当な変わり者という印象だ。
それになにより、あの鏡――
「なに? レインにいじめられたの?」
微妙な顔をするフィオナに、ルイロットが表情を曇らせる。
「ううん、そういうわけじゃないわ。ただ、すごく驚いたことがあって……」
何か分かるかもしれないと思い、フィオナはルイロットに例の不思議体験を話した。
「怖い鏡?」
素っ頓狂な声を上げたルイロットは、さも意外なことを言われたというように目を丸くした。
大きな瞳を2、3度瞬いて、
「ああ」
と納得する。
「大丈夫、怖くないよ。あれは、ヴァリウスがわがままなだけだから」
あっさりと言われた台詞に、今度はフィオナの方が面食らう。
「なんでもローズとのけいやくじょうけんで、鏡に映った人間しか主人にしないんだってさ。わがままだよねーヴァリウスのくせに」
「ちょ、ちょっと待って。ヴァリウスって?」
「その鏡にはね、精霊が閉じこめられてるの!」
「精霊?」
何かの例えだろうか、と思った。たしかに、不思議な力を秘めてそうな鏡だった。
だが、ルイロットは比喩や冗談を言っているような様子はなく、小さな口から、ぽんぽんと軽快に言葉を飛ばしていく。
「そう。ヴァリウスって言ってね。もともとは闇の精霊なんだけど……おいたが過ぎて、精霊の長に属性を剥奪されちゃったんだよ」
「属性?」
「うん、属性は、精霊がもともと持ってるもので、それぞれの属性によって精霊は仕事があるんだけど、無属性になったらお仕事できないんだよね。プー太郎さんなんだよね」
「…………」
「そうなるとすごく怖いんだ。不安でたまらなくて、自分がなにものなのかもわからなくって……」
そう言うルイロットの表情は、真に迫っている。
「ヴァリウスが無属性でふらふらしてたら、ローズが鏡の精の属性を付与して、お仕事できるようにしてあげたんだってさ」
「ローズ?」
彼の話には、次々と知らない単語が出てくる。
聞き返す度に、ルイロットはボールが跳ね返るようなテンポで、その単語を説明してくれた。いまいち、理解は追いついていないが。
「ローズは魔女で、レインのお母さんだよ」
「レインのお母さん?」
「そういえば君って、ローズにちょっと似てるかなぁ。あ、顔は全然似てないけどね!」
「ん? 魔女……?」
思わず聞き流してしまった単語に引っかかる。
「あ、晴れてきたね」
最後に問い返した言葉は、ルイロットには聞こえていなかったらしい。空を見上げ、明るい声を上げる。
「明日は聖日祭だからね!」
くるりと空と、大地と、取り囲む森の木々を眺めて、ルイロットは満足げに笑んだ。
「準備万端、かな」
何を見ているのか分からなかったが、フィオナはその視線を追った。だが、取り立てて変わったものはない。空と、森と、大地。イアルンヴィズの森が抱く雄大な自然が広がっているだけだ。
雨上がりだからだろうか。青々と茂った葉は、ひときわ活き活きとして見えた。
「1年のお誕生日にむけて、みんな張りきってるんだよ」
「みんな……?」
ルイロットの言葉に振り返り、息をのむ。
こちらを見上げる、ルイロットの瞳。
暗い緑だった瞳が、晴れ間を見せる空に呼応するかように、明るい翠に染まっていく。
微妙なグラデーションは、だがはっきりとした変化となって、やがて完全な若葉色に染まった。
あることに気付き、フィオナはもう一度森を見回した。
雨上がりの森は、太陽の光に照らされ、新緑の色を強めている――やはり、そうだ。
彼の瞳の色は、森を映しているのだと悟った。
(おかしい)
ざわりと、背筋を悪寒が走る。
恐怖だろうか。いや、畏怖――かもしれない。
風のざわめきが、やわらかそうな金の髪を撫でる。
短い翠色のケープの裾が翻り、天使のように愛らしい少年は、相も変わらず無邪気な笑顔を見せている。
(この子は、人じゃない)
ならばなんだというのだろうか。フィオナは自問した。
悪魔?
(違う)
――彼は、この森そのものだ。
「行こう? フィオナ。はやくしないと、また怒られちゃうよ?」
怒られたことを、なぜ知っているのだろう。
疑惑が確信へと変わる中、ルイロットがまた手を引いてくる。
たいした力ではないのに、抗えない。フィオナは頼りない足取りで、ルイロットの案内に従った。
彼がこの森そのものだとしたら、この少年の姿を象ったものは、自分たちを監視するための分身なのかもしれない。
奇妙な共通点を持ち、奇妙な家に集った若者たち――
これは、ただの偶然だろうか。
誰か――フィオナたちが到底及ばないような、超越した力を持つ何者かが、意図的に集めたと考えた方が、むしろ自然ではないだろうか。
だとしたら、あの不思議な『森の家』の住人を集めたのも――この少年なのだろうか。
目の前が白くなる。
思考がかすんでるのかと思ったが、実際に視界が霞んでいるのだと気付いた。
また、霧が立ちこめ始めていた。




