第三十二話 その小さな家では
カランコロンと、不揃いな鐘の音が響き、扉が閉ざされる。
「どうぞ」
「お邪魔します」
通されたのは、正方形に近い小さな部屋だった。
だがとにかく物が多く、いっぺんに視界に入ってきた情報を処理しきれず、フィオナは扉の前で立ち止まって、目を瞬いた。
彼の方は、さっさと部屋の奥へと進んでいく。
「レインでいいですよ」
そう言いながら、ホウキを壁に立てかける。
「すみませんねぇ。あの子が振り回してるみたいで」
「あの……さっき、何してたんですか?」
どうしても気になって、フィオナは聞いた。すると彼は振り返り、人差し指を唇に当ててにっこりと笑った。
「おまじないです」
「はぁ」
どうにもはぐらかされたような気がする。曖昧な相づちを打ち、フィオナはじっとレインを観察した。
一体いくつだろう? 第一印象は少女のようだと思ったが、よく見ると目の前の麗人は、幼くも大人っぽくも見えた。
ルイロットとは親子ということも考えられる年齢にも見えるし、兄弟といわれても納得できそうだ。
ふわふわした空気というか、浮世離れした感が、なんとなく似ている。
(すごくふしぎなひと……)
性別不明。年齢不詳。職業不明。こんな森の奥で、一体何をして暮らしているのか。
結論、正体不明。
被っていたローブのフードを脱ぎ、蜂蜜色の頭を振ると、後ろで一つに編んでいたらしい三つ編みを取り出す……のだが、フィオナはぎょっとした。
(……長い)
普通じゃないほど長かった。
レインは男性にしては背の高いほうではないが、それでも三つ編みの先がくるぶしくらいまである。今にもひきずりそうだ。
高貴な女性で、髪を切らないというのは往々にしてあるが、男性でここまで長いのは珍しいのではないだろうか。
自分で自分の髪を踏んで転びそうだ。さすがに、そんなドジはしないだろうが。
(何でこんなに長いんだろう……?)
謎は深まるばかりだ。
謎といえば、その部屋も何とも不思議な空間だった。
まず、入り口からすぐの目立つところに、大きな鳥籠がぶらさがっている。
だが、錆付いたその檻の戸は開きっぱなしで、中に止まり木が一本渡されているだけで鳥は入っていない。
留守にしているというよりは、もう何年もそのまま放置されているという感じだ。
主のいない鳥籠から目を離し、部屋を見回すと、もはや壁が見えないほどに棚が並べられていた。そのすべてに、統一感のないものが陳列されている。
液体の入った小瓶が大量に敷き詰められているかと思えば、その下の棚には無造作に本が積まれ、さらにその隣に謎の置物が置いてあったりする。
ヴァンの書斎とは比べようもないが、ウィルのアトリエ空間と比較しても雑然とし過ぎている。
だがさすがに、ユーリの屋根裏部屋よりはマシだ。あれは人の住む場所ではない。
右手の壁には、棚と棚に挟まれるようにドアがあった。
部屋の外観を正面から見た限りでは、幅の狭い家で、この部屋以外に別室があるようには見えなかった。意外に、奥行きがあるのかもしれない。
正面奥には食器棚があり、その手前に小さなティーテーブルが置かれている。
雑然としながらも変わった物が多いので、眺めるだけでも面白い。ついつい真剣に観察していると、微かな、誰かが小さく机を叩くような音がいくつも重なり、耳を掠めた。
「雨……?」
それが家の外から聞こえる雨音だと認識して、振り返る。
(あら……?)
フィオナはその時初めて、この家には窓がないことに気付いた。
それなのに、室内は晴れた日の日暮れ前のように、目にやさしい一定の明るさを保っている。
不思議に思って天井を見上げると、三角屋根の形をした天井裏に小さな天窓が見えた。
天窓から見える空は白っぽくて、曇っているようにも見えたが、そこから日が差し込んでいるのだと、とりあえずは納得する。
視線を降ろすと、右手のドアの隣に置かれた棚に載った、小さな木造の箱が目に入った。
それに少し惹かれ、フィオナは近づいた。
暖かみのある形は若干歪んでいて、いかにもといった手作り感がある。職人の作品ではない。
レインが作ったのだろうか。
宝石箱のように見えたそれは、よく見ると右側面に羽根付きのネジがついていた。
「オルゴール……?」
「触ってもいいですよ」
主の許可が下りる。フィオナは埃をかぶっている蓋にそっと触れて、壊さないよう慎重にネジを巻いた。
指を離し、蓋を開けると、優しい旋律が流れ出した。
フィオナの聞いたことのない曲が、耳を通り抜ける。
心が解けていくような、優しい音だった。
だけどどこか、物悲しい。
不思議と泣きそうな気分になって、フィオナは胸を押さえた。
「これは、何という曲ですか?」
「さぁ、私も知りません。それ、触ったことないんで」
「はぁ……」
彼の所有物ではないのだろうか。
よく分からないが深くは突っ込まず、雑多にものが置かれている棚を通り過ぎ、ティーテーブルに近づいた。
このテーブルだけは、ちゃんと埃をかぶっていない。
逆に言えば、それ以外の大部分のものは、特に使われている様子はなく、触れば絵が描けそうな程の埃が積もっていた。
先ほど気付いた雨音は、オルゴールの音にかき消され、今は聞こえない。
まるで外界と遮断されたかのように、この家には、この家だけの音と空気があった。
「おや?」
「どうかしました?」
ティーテーブルの左手奥に置かれている棚の前で、レインは身をかがめた。
見ると、長方形の檻をのぞき込んでいる。
「この中にセバスチャンが……あ、ネズミが入っていたんですけどね」
「逃げ出したんですか!?」
「まあいいでしょう」
いいのだろうか。
「今お茶を入れますので、座っていて下さい」
なんとも独特なテンポがある人だ。マイペースというのだろうか。
彼といると、そこだけ時間の感覚が違う世界に身を置いているような心地になる。
席を勧められ、とりあえず一番手前の椅子を引いて座る。
丸い一本足のテーブルを挟んだ向こう側には、食器棚とセヴァスチャンの檻を乗せた棚に挟まれるように、大きな鏡が鎮座していた。
どこかで見たような気もするが、分厚い枠で覆われた見事な大鏡は、細部まで彫刻が施され、重厚かつ華美な雰囲気を漂わせていた。
雑多に物が置かれているこの部屋の中でも、一際異彩を放っているその鏡と、ちょうど面と向かうような形になってしまい、フィオナは、映り込んだ鏡像を直視した。
せっかくなので少し笑ってみるが、我ながら、ぎこちない笑顔だと思った。
フィオナは笑うのが得意ではなかった。
心から、誰かの前で笑ったことがあまりないせいかもしれない。人前で笑うことに慣れていない。
作り笑顔はいつの間にか覚えたが、うまく笑えている自信はなかった。もっと上手に笑いなさいと、よく家庭教師に指導されたから、やはりうまくはなかったのだろう。
継母のエクレーネや、城で出会う貴族の淑女たちは、計算され尽くした笑顔を見せる。
とても艶やかで優美な笑み。フィオナはそれが苦手だった。
この家に来てから、フィオナは笑うことが増えた。
上手く笑う、などということを意識せず、自然と笑えてしまえるのだ。だが、笑い慣れてきたかどうかは、自分では分からない。
「あ……」
ちょろりと、床を何かが走り、フィオナはテーブルの下を覗き込んだ。
「セバスチャン?」
予想していたよりも大きめの白ネズミが、鏡の臭いでも嗅ぐように、鏡面に手をかけて後ろ足で立っていた。
「えっ……?」
あり得ない現象に気付き、フィオナは絶句した。
白ネズミは、確かに鏡の前にいる。
だが、鏡に白ネズミは映っていない。
「……っ!?」
驚愕に声が出ない。
思わず音を立てて椅子を引いてしまい、白ネズミが驚いたように鏡の前を離れた。
その場に立ちすくみ、呆然と白ネズミが『映っていなかった』鏡を見つめる。
(何……? これは……)
不思議、などという言葉だけでは済まされない。
「その鏡はわがままでね……美しいものしか映さないんですよ」
レインが運んできたティーセットを、プレートごとティーテーブルに置く。
その声はとても穏やかで、フィオナの心境にはそぐわなかった。
立ちつくすフィオナの背後に、すっと、レインが立つ。
両肩に触れ、フィオナに顔を寄せるようにして、鏡を覗き込む。
その大鏡の銀の盤面には、まるで仲の良い姉妹のように寄り添う2人の鏡像が、はっきりと映っている。
「ほら、ね……?」
ただ、彼の足下でせわしなく這い回る白いネズミの姿は、どこにもなかった。
鏡の中のレインの微笑が、急に不安を駆り立てるものに映る。
それは、得体の知れないものに対する恐怖だ。
――この森には悪魔が住んでいる。
そんな、リッドの言葉を思い出す。
硝子越しに映る右眼は、眼鏡のレンズに反射されよく見えない。
代わりに、美しい左の碧眼が強調され、笑みの形に歪んだ。
最初に見せた、悪意を感じさせない無垢な笑顔とは違う、艶やかで優美な笑み。
「……っ」
思わず、悲鳴を上げそうになった。
(あの人に似ている――!)
表情が違いすぎて、そして性別が違うので気付かなかった。
本当に、とてもよく似ている。
飴色の髪。翡翠色の瞳。
美しく、華やかな――
フィオナを、殺そうとした女に。




