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第三十一話 天使の誘惑


 その日は朝から曇り空だった。


 部屋の窓から曇天を見上げ、そういえば、この家に来てからしばらく経つが、こんな風にぐずついた天気ははじめてかもしれない――と、フィオナはぼんやりと思い至った。


 まるでこの森の家での生活を映すように、晴れ晴れとした春の日和が続いていたのだが、今はフィオナの心境を反映してか、不安げな灰色の雲が分厚く立ちこめていた。


 朝、寝台から起き上がって、まず2階の窓から庭を覗くのは、もう癖になっていた。

 予想通り、家の横手の花壇では、金髪の青年が花に水を撒いている。


「おはよう、ラウ」

「よっ姫サン。今日は庭へ降りちゃダメだぞ!」

「分かってるわ」


 恒例の朝の挨拶も、いつも程の明るさはない。

 階段を降りると、リビングでカミュとウィルが話していた。


「アレ、お姫様。今日はいつもより早いね」

「おはよう、フィオナ。ちゃんと眠れた?」


 2人が振り返る。カミュの方は、まだエプロンをしていない。


「ちょっとそわそわしちゃって……でも、眠れなかったわけじゃないわ。心配しなくても大丈夫」


 実際、寝付くのに時間はかかったが、襲撃による疲労か、無事切り抜けたことによる安堵か、気が付けば睡魔に誘われていた。

 早く起きたのはやはり神経が高ぶっているせいだと思うが、頭の中はすっきりとしていた。


「カミュ、今から朝ご飯作るんでしょう? 何か手伝うわ」

「よしっ。じゃあ、頼んじゃおうかねっ。そういうわけで、ウィルは今日はイイから」

「そうだね。カミュもフィオナに手伝ってもらった方が張り切りそうだし、俺は部屋でゆっくりさせてもらおうかな」


 そう言って、ウィルが自室へと戻っていく。


 2人でキッチンに入り、カミュの朝食作りを手伝っていると、リッドとユーリが順に2階から降りてきた。

 いつも通りのモーニングが始まり、後片付けとリッドの皿洗いを手伝う。


 出掛ける前に、ヴァンが最後に念を押した。


「フィオナ、今日は俺は朝から出掛ける。午後には戻ってくるが、昨夜言ったことを忘れるな」

「はい。分かってます」


 相手の正体が分かるまで、家から一歩も出ないこと。


 念を押され、フィオナははっきりと頷いた。

 昨日のような襲撃があった場合、フィオナは何も役に立てない。せめて、出来るだけ迷惑をかけないように彼らに従うのが、今のフィオナにできる全てだ。


 1階にいたら皆に気を遣わせそうなので、フィオナは2階の自室に引きこもることにした。


 本を読んでいればあっという間に時間は過ぎる。それなのに、なぜか机の上に積んだ書物に手をつける気になれず、窓の桟に手を触れ、ため息混じりに外の景色を眺めた。


 気泡一つない美しい硝子越しに、灰色の空と沈んだ緑色の森が広がる。

 この家の窓硝子の多くは、とても透明度の高いものが使われていた。

 フィオナの城の窓硝子も同じようなものだったが、こういった硝子は高級品で、市井に出回っている安価な硝子は気泡や色が混じったものだと聞いている。実際、オルフェンの町の家屋に使用されている硝子は皆そうだった。


 不思議に思ってウィルに尋ねたことがあったが、この家の窓は、初めて訪れた時から「そう」だったらしい。

 例外として、カミュとラウとリッドの3人部屋の窓は、カミュの趣味であるダーツの矢で遊んだリッドが割ってしまい交換したらしく、安硝子仕様になっている。


 それ以外にも、突如森の中に現れるこの木造の家には、決して華美ではないが、そこかしこに造りの良さが感じ取れた。


 一体誰が、何のために建てたのか。


 不思議なことは多いが、結局その恩恵に与っているフィオナたちにとっては、理由というのは些細なことかもしれない。

 そんなことを徒然と考えながら、薄曇りの空を眺めていたフィオナが庭に視線を落とすと――


「やっほ!」

「ルイロット?!」


 気の抜けるような明るい笑顔で手を振られ、フィオナは硝子窓に張りついた。


 小さな少年が、花壇の前に立っている。


 今は、誰ともしれぬ武装した男が、この森をうろついているかもしれないのだ。子どもが1人で出歩くのは危険すぎる。

 フィオナは慌てて1階に下りた。


 不思議と、普段は誰かがいるはずの1階に、人の姿はなかった。

 彼らにも日々の仕事はある。ちょうど席を外しているだけだろう。

 そのこと自体はあまり気にとめずに、戸口の鍵を開けると、目の前にはフィオナの胸あたりまでの背丈の少年が立っていた。


「ルイロット、何してるの」


 今の事態は、彼には知る由もないのだが、焦りが先立ち、つい咎めるような口調になってしまう。


「危ないわ。昨日、この家に襲撃があったのよ」


 こんな物騒な話を子どもにしたくなかったが、理解しないまま歩き回り、取り返しのつかないことになれば、それこそ大変だ。


「近くをうろついていると、あなたまで巻き込まれるかも」

「そんなことよりさ、フィオナ」


 フィオナの深刻な説明を、大事と受け止めた様子もなく、ルイロットはあっけらかんと自分の要求を述べた。


「いっしょに来てほしいんだ」

「え?」


 腕を取られ、引っ張られると、自然と足が一歩外に出た。


「だめよ、ルイロット。私、今日は家を出ちゃダメなの。お話しするなら、家の中じゃダメなの?」

「ダメだよ。会ってほしいやつがいるんだ」

「会って欲しいひと……?」


 彼のような小さな子どもが住んでいるということは、他にも大人がこの森に住んでいるということだ。会って欲しいというのは、家族だろうか。


「やっぱり、今日はダメよ。また今度……」

「今度って、いつ?」

「え?」


 拒否しようとすると、ルイロットの大きな目が見上げてきた。


「フィオナは今度、いつ会えるの?」


 全てを見透かしたようなその瞳は、落ち着いた暗い緑をしている。

 まるで、湿気を含んだ灰色の空を映した、森の葉のような色だ。


(いつ……?)


 ――危険だから、相手の正体が分かるまで、この家から出てはいけない。

 今のこの危険な状況が落ち着き、安全になるのは、全てが解決した時だ。


(全てが終わったとき、私はどこにいるの……?)


 白雪姫の身を案じ、この『森の家』から助け出そうとする、どこかの国の騎士。

 それがどこの誰か分かったとき、フィオナは、まだこの家にいられるのだろうか。


 そう疑問に感じた瞬間――もう一歩、足を踏み出していた。


 気が付けば、ルイロットに手を引かれながら、一歩、また一歩と外に導かれ、春の花々が咲き乱れる花壇を両脇に従えた、小さな門をくぐった。

 ひんやりと頬を冷気が撫でる。冷たいのに、どこか温かく感じる白い霧が立ちこめ、少しずつ視界を薄めていく。


「行くよ、フィオナ」


 その誘いに、フィオナが抗う術はなかった。





               ◇  ◆  ◇ 





 どれくらい歩いたのだろう。


 霧のせいで方向感覚も、時間感覚も狂ってしまったようで、ただルイロットに手を引かれながら歩く道のりが続く。


「どこまで行くの?」


 ルイロットは答えない。目の前の少年は、こんな霧の中でも慣れたもので、迷いなくある方向を目指していた。


 ――と、彼が急に立ち止まった。


「うん?」


 臭いを嗅ぐように四方を見渡し、


「あっ。たいへん!」


 ぴょこん、と何かに気付いたように飛び上がる。


「フィオナ。ぼく、今いそがしいから! あっちにずーっと行って。そしたら、レインがいるから」


 まさかの途中放棄だ。だが文句のひとつも言うヒマもなく、霧の中を飛ぶように駆けていったルイロットに、取り残されたフィオナは呆然とした。


「レイン……?」


 聞き慣れない名前を復唱する。

 立ち往生していても仕方がないので、その名とルイロットの指した方角だけを頼りに歩いて行く。

 まもなく、視界が鮮明になってきた。霧が晴れたのだ。

 そのことにほっとして見ると、小さな家があった。


「こんなに、近くに?」


 正確な時間は分からないが、疲労の度合いはそれほどでもない。

 感覚的には、少し足を伸ばして滝のある湖に行くくらいのものだ。

 それならば近くに誰かが住んでいる、というのは聞きそうなものだが、もう長く住んでいるはずのメンバーの誰からも、そんな話は聞いたことがない。


 家の前で、ホウキを持って佇む人物がいた。


 掃除だろうか。庭があるわけでもないし、秋ではないので、木の葉や木の実が落ちているわけでもない。あまり意味のある行動とは思えなかった。


「レイン……?」


 黒いローブを来たその人物は、男性にしては小柄に見えたが、俯いてフードを目深にかぶっているため、性別すら判別出来ない。

 様子を見ていると、その人物は地面を掃いているわけではなかった。俯き、時折ホウキを振りながら、家の前をゆっくりと……かなりゆっくりと歩いている。


(……怖いんですけど)


 森の奥深く。黒いローブ。ホウキ。いくらなんでも色々あやしすぎる。


 本当にここに来て良かったのだろうか。軽くかすめる後悔を握りつぶし、フィオナは慎重にその家に近づいた。

 意を決して、声をかける。


「あの……!」


 すると、ホウキを握りしめた手がとまり、フードを被った顔が上げられた。


 相手と目が合った途端、フィオナは次に何を言うつもりだったのかを忘れた。


 その人物は、左目に変わった片眼鏡(モノクル)をかけていた。

 はちみつを溶かし込んだような甘い色合いの髪に囲まれた(かんばせ)は、白く小さい。長い睫毛に縁取られた右目は深い翡翠色で、片眼鏡(モノクル)の奥の左目は、不思議な紅い色をしていた。


 一瞬、誰かに似ている。そう感じた。


 流れ込んだ既視感の正体に気付くよりも早く、その人が反応した。


 にっこりと、笑う。日溜まりのような笑顔に、自然と胸が高鳴った。


(かわいい。女の子……?)


「レイン、さん?」

「はい」


 返ってきた声は、男性のものだった。


 …………


 その意外性に、フィオナはしばらく止まった。


「……男の人ですか?」

「はい、男です」


 気分を害した風もなく、のんびりと返ってきた声は落ち着いていて、『男の子』というよりは『男の人』のものだった。


「すみません」

「いーえ、慣れてますから」


 あっけらかんと応えながら、彼はフィオナに背を向け、家の方へと戻った。

 扉の前で立ち止まり、フィオナを待つように振り返る。


「ようこそ、ルイロットから話は聞いています」

「あ、はい……」


 促され近づくと、彼は戸を開いて奥に通してくれた。

 2人がその小さな家に収まり、扉が閉じられる。


 その背中を見送った青葉の上に、透明な一滴が飛び降り、玉のように転がり地面へと落ちた。

 葉の表面を叩くように、次々と小さな粒が落下する。



 雨が降り出していた。


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