第二十八話 夢ならばいつか
有事の際、避難するように指示された書斎は、1階にあるヴァンとウィルの部屋から続いている。
「フィオナ、中に!」
フィオナが2人の部屋に身を滑り込ませると、すぐにカミュがドアを締めた。
誰もいない部屋には、2つの寝台がある。その奥に、もう一枚扉があった。
ここから繋がっている小部屋には、この扉以外に出入り口はない。
一番奥まった場所にあるので、外から敵の攻撃を受けることはない。それに、出入り口が1つしかないので守りも固めやすい。
「ウィル、いるの?」
一番安全と言われる場所に駆け寄り、呼びかけると、内開きのドアが開いた。
「フィオナ、おいで!」
隙間から伸びた腕にぐいと引かれ、部屋に飛び込む。すぐ後ろで扉が閉まる音が聞こえ、気が付けばフィオナは、しなやかな腕に抱きしめられていた。
「大丈夫?」
花の香りがして、顔を上げると、やさしい紫水晶の瞳に覗き込まれた。
「うん、私は何も……」
言いながらも、緊張で唇が乾いているのが分かる。
「でも、戦ってる音が……」
庭先で続いていた剣戟は、ここまでは届かない。状況が分からないのが不安だった。
「ジークが侵入者と戦っているらしい」
不安を隠しきれないフィオナの様子に、ウィルが抱きしめる腕を強め、伝えてくれる。
「今はヴァンもいないし、ここは彼に任せるしかないよ」
白い指先がフィオナの手を握った。その温かさに、少しだけ心が落ち着く。
「大丈夫。彼はとても強い」
「うん……」
そう、彼は強い。荷物を片手に、複数人を相手に剣の鞘で勝ってしまったくらいだ。
目を閉じ、あの時の姿を思い出す。彼を信じる。そう思いを強めた。
「でも、やっぱり悔しいな。こんな時、俺は不安な君を守ることも出来ない」
耳元で呟かれた声は、彼にしては穏やかでない。
その言葉に、フィオナは小さく首を横に振った。
ウィルの力は絶大だ。傍で抱きしめてくれる暖かい腕があるだけで、大丈夫と囁く優しい声があるだけで、心がすっと穏やかになる。
「ありがとう、ウィル。少し落ち着いたわ」
そう言うと、そっと彼の腕が離れた。
書斎は、フィオナの部屋の半分程度の、横長の小さな部屋だった。フィオナも、この部屋に入ったことはなかったので、少し冷静になった目であたりを観察する。
奥に木目調の書斎机がある。天井近くに一つだけある明かり窓を背に、大きな椅子が置かれていた。
机に向かって左手には、天井まで届きそうな本棚があり、大小の書物が、綺麗に背表紙を揃えられて並んでいる。
整然とした空間は、書斎というか、執務室のように見えた。
細長い空間の出入り口側に目を転じると、一本足の丸テーブルが置いてあった。椅子がないところをみると、ウィル専用のテーブルなのだろう。
角に小さな棚が置かれ、中には裁縫箱や色とりどりの毛糸玉が収まっていた。
その上には、庭に咲いていた花々が、綺麗に花瓶に挿されて咲き誇っている。
ウィルは花が好きだ、とラウが言っていたことを思い出す。
棚の横の壁には、大小のキャンパスが立てかけられていた。筆を入れた缶や、絵の具を塗ったパレットなども置かれている。よく見ると、床には少し絵の具が散っていた。
意外に、ウィルはあまり几帳面な性格ではないのかもしれない。
奥半分とは違う、アトリエのような空間を見て、今更ながらそんな発見をする。
だがこの空間には、彼の好きな物が詰まっていた。
――夜、蝋燭の火を頼りに、書斎机にヴァンが向かっている。こんな時でも背筋を伸ばした姿勢で、何かを生真面目に執筆している。
――同じ空間で、丸テーブルに蝋燭を立てた車椅子のウィルが、穏やかな顔で編み物をしている。言葉は交わさなくとも、静かで、落ち着いた時間が流れている。
そんな光景が目に浮かぶような部屋を前に、フィオナは、二人の寝室が広いわりに物がなく、どこか無機質に見えた理由が分かった。
彼らの生活空間はここなのだ。
こんなことでもないと入ることのない場所での新しい発見に、不謹慎ながら、少し胸が踊った。
椅子がないので絨毯の敷かれた床に座り込み、フィオナは壁に背を預けた。
ウィルはというと、部屋の中の様子を確認するように、車椅子で細長い空間を左右に移動している。
「……ごめんなさい、私のせいでこんなことに」
誰も何も言わないが、全てはフィオナが元凶だ。耐えきれず零した言葉に、ウィルが動きを止め、車椅子ごと振り返った。
「君のせいじゃない。君は……巻き込まれただけだ」
「でも、私がこの家に来なければ……」
『白雪姫を返せ』
その文字を読んだ時、背筋が凍った。
ウィルの顔を掠めるほどの距離で壁を抉ったあの矢と、同じ矢が運んできた手紙。
フィオナを庇い、負傷したユーリを傷つけた射手と、同じ人間が残したメッセージ。
フィオナがここに来なければ、彼らはあんな目に遭わずに済んだのだ。そして今も、表ではジークが何者かと戦っている。
「俺は、君が来てくれてとても嬉しいよ」
声は、すぐそばで聞こえた。
頭を抱え込んでしまっていたフィオナの隣に、ウィルが車椅子を止める。
「君は、ここに来たことを後悔してる?」
自分がこの家を訪れなければ、彼らをこんな目に遭わせずに済んだと思う。
でも――
「嬉しかった……」
目を伏せたままのフィオナの口から、素直な言葉がこぼれ落ちた。
「この家に来て、みんなに出会えて……暖かくて、楽しくて、毎日が夢の中にいるみたいで」
「俺もね、ここは夢の世界だと思うんだ」
意外なところで同意され、フィオナは隣の青年を見上げた。
その視線を受け取り、ウィルが小さく微笑む。
「現実にあると思う? 行くあてもなく、頼る人もなく、明日がどうなるかも分からない状態で――それでも、進むしかなくて……ただひたすら、進み続けた先に、理想的な家があるなんて」
それは、いつのことだろう。
ラウは、ヴァンとウィルが最初にこの家を見つけたと言っていた。
徐々に、今の仲間たちが訪れ――フィオナがやってきた。
「この場所を見つけた時、俺は死んだのかな、って思ったんだ。知らない間に死んでいて、ここは死後の世界……俺が心のどこかで望んでいた願望を引き出した幻なのかなって」
誰もいない小さな家。自由。安らぎ。
それを、彼は望んでいたのだろうか。
「今でもね、実感が湧かない時がある」
そう言った時の彼の微笑は、いつものやさしげな笑みよりも、どこか寂しそうで――少し、冷たかった。
「ヴァンがいて、ユーリとジークがいて、カミュとラウとリッドがいて……それが当たり前みたいになって、毎日がゆっくり過ぎていって……君が来た」
紫水晶の瞳が、はっきりとフィオナを捉える。その、いつもより強い眼差しの意味に迷う。
「こんな風に、楽しい時間が、本当にあっていいのかなって思う時がある。本当は、もっとちゃんと見なきゃいけないものがあるんじゃないかって。こんなに、綺麗な世界じゃなくて――」
真剣に語る目から視線を逸らすことが出来ず、フィオナは聞き入った。
『焦らなくていいよ』と、彼は言ってくれた。
本当は、彼自身が、いつもどこかで焦っていたのかもしれない。
カミュは、『覚悟がある』のだと言っていた。
この家が、止まり木である覚悟。
(ウィル、も……?)
「だからね……夢から覚めるのは、君のせいじゃない」
その言葉こそ、夢から覚める呪文のように聞こえて、聞きたくなかった。
だが、彼はあろうことか自ら車椅子を降りて、フィオナの前に膝をついた。同じ目線で、伸ばされた両手がふわりと頭を包む。
花の香りがした。
ウィル自身が、夢の住人のようだ。
「もし、いつか来る夢の終わりが、今来たとしても、来るべき時が来た――ただ、それだけのことなんだよ」
「そんなの……」
「それよりも俺は、君に出会えたことを感謝したい」
優しい声でそう言われ、ふいに、とても泣きたい気持ちになった。
「……と言っても、ただ黙って終わりを待つ気はないよ」
「え……?」
拍子抜けるほどあっさり撤回された言葉に、落涙の予感もなりを潜めた。
「まだ、ね……誰とも知れない侵入者のために、『今』を手放す気にはとてもなれない」
惜しむように離れた腕。フィオナを見つめるその瞳に、言いしれぬ熱が篭もった。
「運命に抗い続けるのは、どうも俺の性分みたいだ」
言葉の真意は、フィオナには分からない。だが先ほどから、いつもやさしいウィルの目に灯る、彼らしからぬ強さが、フィオナを戸惑わせている。
普段と違う彼の様子にどこか落ち着かない気分になり、フィオナは強引に話を変えた。
「そ、そういえばウィル。何か、作戦を立てていたの?」
「え?」
「朝、ほら……カミュとラウが喧嘩になった時、何か考えがあるみたいだったから」
「ああ」
結局、ウィルはラウの意見に同意して、それ以上は何も言わなかった。
「ラウと、同じことを言おうとしてたよ」
「そう……なの?」
「正確には、ちょっと違うんだけど、やることは一緒かな」
車椅子を横に避け、フィオナと並んで座り込んだウィルが、すぐ隣から覗き込んでくる。
「こうやって、一番安全な場所で、君を守る最後の砦になること」
思わず、息が止まる。
濁りのない眼差しは、言うなればヴァンに似ている。だが、彼の理性的な強さよりも、もっと特別な想いがそこにはある。
強い、男の人の顔だった。
「俺は、自分が出来ないことは、自分で分かっているつもりだ」
ウィルは強い、と言っておきながら、彼の強さを見誤っていたのは自分の方かもしれない。
「だから、自分に出来ることも、ちゃんと分かってるんだよ」
目眩がする。ウィルという人間の認識が、頭で追いつかなかった。今まで知っていたウィルは、多分彼のほんの一部分で、本当の彼はもっと強く、情熱的な一面を持ち合わせている――
『ココロをアタマで考えるタイプ』
ユーリの言葉が脳裏に蘇った。
ならば、どうすればいいのだろう。頭で考えずに、心で彼の情熱を受け止めればいいのか。その方法すら分からず、フィオナは花の香りに酔うように思考が麻痺していくのを感じていた。
――足音が聞こえた。
現実に引き戻されるように、空中に霧散していた思考が急速に収束していく。
扉を乱暴に開ける音がした。ウィルとヴァンの私室のドアだ。
「下がって」
足音が近づき、ウィルが硬い表情で車椅子を引き寄せ、フィオナを庇うように前に出た。
張り詰めた空気の中、扉の向こうから届いた声は、聞き慣れたものだった。
「おぅい! ふたりとも、無事か?」
「ラウ!」
その瞬間、フィオナの全身から力が抜ける。だが、ウィルは珍しく焦った声を出した。
「待って!」
制止の声は間に合わず、内開きの扉が開けられる。
「うわっ?!」
一歩を踏み出した途端、ラウが悲鳴を上げた。その瞬間、部屋のあちこちから、弦を弾くような音が聞こえた。
「う、え……ッ?!」
戸惑うラウの身体に、意識して目を懲らさなければ捉えられないような透明の糸が無数に絡まり、彼はバランスを崩して前のめりに倒れ込んだ。
「な、なんだコレ!?」
状況が飲み込めないまま、まるで手足を拘束されたように床に転がるラウに、ウィルが車椅子で近づく。
「侵入者があった時のために、罠を張ってたんだ」
弱ったように首を傾げ、ラウを見下ろす。
「はは……さっすがウィル……」
芋虫のように転がるラウが、場違いな感嘆を漏らす。
「……ゴメン、ヴァンには言っておいたんだけど」
心底申し訳なさそうに謝りながら、彼の足を縛る糸を切るウィル。ちなみに、使っているのは裁縫用の糸切りバサミだ。
一体どういう糸なのだろう。
普通の裁縫糸とは思えなかった。ふと、屋根裏部屋で見た透明の糸の存在を思い出す。もしかしてユーリの発明品だろうかとも思ったが、聞く機会を逸し、フィオナの疑問は持ち越された。
「それが、そのヴァンが帰ってきた! ユーリとジークが、侵入者を撃退したらしい!」
解放された手足を振りながら、ラウが意気揚々と報告する。
罠に引っかかったことは、まったく気にしてないようにすら見える。
その報告に胸を撫で下ろす二人の様子を、笑顔で見ていたラウが、ふいに表情を改めた。
「ウィル」
「うん?」
その場に膝を突いたまま、正面からウィルに向き合う。
「ゴメン、オレ、ウィルが何も出来ないと思ってたわけじゃないんだ」
「ラウ……」
「ウィルのすぐ隣に矢が刺さったのを見た時、心臓が潰れそうになった。オレ、ウィルは何でも出来るし、頭もいいし、足のハンデとか関係なく、本当にすごいヤツだと思ってたから……」
ラウの目が、言葉を選ぶように揺れた。
「こんな風に、すぐにいなくなるかもしれない怖さがあるなんて、思ってもいなかったんだ」
「…………」
「だから……その……言い訳かもしれないけど。すごく焦って、どうしたら守れるのかって、そればかり考えて。ウィルが男だってことも、色々自分で出来るヤツだってことも、全部すっ飛ばして、余計なこと言った……かも」
言葉を重ねるにつれ、自信なさげに俯いていくラウが、最後に深く頭を下げた。
「ゴメンな」
「いいんだよ。本当に気にしてないから」
ラウの肩に手を置き、ウィルが穏やかに返す。だが、少しだけ間を置いたあと、考え直すように首を傾げた。
「……うん、嘘かな。実は少しだけ気にした。別に傷ついたってほどじゃないけど、悔しかった。俺も、ちゃんと一人の男として、フィオナを守りたいと思ってたから」
「……だよな」
ウィルの正直な言葉に、ラウが顔を上げる。間の悪そうな苦笑いを浮かべ、癖のある金髪をわしゃわしゃと掻き回した。
「あーあ、なんでそんな簡単なことに気付かなかったんだろ。ウィルもオレと同じはずなのにさ。ホント、オレってそういうのダメだよなぁ」
「そうカンタンには治んねぇよ。お前のは、筋金入りだからな」
身も蓋もない突っ込みは、ウィルでも、もちろんフィオナでもない。
「カミュ!」
ドアの縦枠にもたれ掛かるカミュは、いつも通りの艶のある笑みでウインクした。
「終わったよ、お姫様」
その後ろに、ジークとユーリ、ヴァンがいる。
(みんな、無事だ……)
そう実感すると、身体を支えていた力が全部抜け落ちていくような安堵を覚えた。
失わずにすんだ。
そのことを、フィオナは心から神に感謝した。




