第二十七話 月下の双翠
ヴァンと交代し、ジークが家の周囲を見回りに出た、その時だった。
小さな羽虫の羽ばたきに似た、空気の悲鳴。
確実に顔を狙ってきたその矢を、後方に飛んで避ける。が、その動きを見越したように第二、第三の矢が立て続けに襲った。
その全てを辛うじて避け、ジークは森に飛び込んだ。
まだ太陽は空に残っているが、鬱蒼とした森は薄暗い。矢の飛んできた方向から予測し、射手の気配を追う。
誘うように飛んできたもう一投を、抜いた剣で叩き落とす。
相手の居場所を確信し、一足飛びで距離を詰めたジークは、大振りで繁みを切り払った。
飛蝗が飛び出すように、その場から大きく跳び退いた相手が姿を現す。
「ふん、よく避けたな」
距離を保ったまま対峙した射手は、まだ年若い男だった。
自分の背丈にほど近い長弓を手にした少年は、15、6歳といったところだろう。
涼しげな目元に、意思の強そうな眉。形のよい唇を引き結んだ顔は凛々しい。
頬の輪郭にまだ幼さが残るが、少年然とした外見に比べ、彼自身が一人前の男として立ち振る舞おうとする意気が、表情からにじみ出ていた。
「……騎士、か」
少年は赤みの強い茶髪をきっちりと詰め、後ろで短い三つ編みにしている。
動きやすい革の肩甲と膝鎧。禁欲的な詰め襟の、略式の騎士服は茶を基調にしたシンプルなもので、階級章や紋章は見当たらない。
だが若いということを除けば、いかにも騎士らしいその少年は、どこか気取った風な口調で、顎を上げた。
「白雪姫を返してもらおう」
少年の視線がジークの斜め後ろ、上方に動いた。
真後ろに現れた殺気に、とっさに振り返り剣を掲げる。耳障りな剣戟と衝撃。
少年の目の動きから、ある程度予想して構えなければ防ぎきれなかっただろう。重い一撃を受け止めたジークの耳に、間延びした賛辞が届いた。
「へー、不意打ちのつもりだったんだけど……アンタやるね」
とっさに地面を蹴り、かみ合わせた刃を離す。ジークは体勢を整え、強襲者を見た。
剣を構えた男は、やはり黒を基調とした略式の騎士服に身を包んでいた。
その目は長い前髪に隠れているが、確実にジークを見据えている。
隙を見せないよう二人から距離を取り、ジークは短く問うた。
「……彼女を狙ったのはお前か」
すると、赤毛の少年がムッとしたように声を荒げた。
「僕は狙っていないぞ! 白雪姫が勝手に飛び出してきたんだ! それより! 白雪姫に怪我はなかったんだろうな!?」
「…………」
自分がやっておきながら、責め立てるような物言いに、呆れてものが言えない。
というか、元々無駄な口を開かないジークは、いつも通り無言を貫いた。
が、それを相手は悪い方に受け取ったらしい。
「おいおいマジかー。キア、お前もう打ち首だな。決定。いやー、長い付き合いだったなー」
「アルヴィス貴様な……!」
剣士の方が頭を掻きながら大げさに嘆く。言い返す弓使いの方も、やや青ざめていた。
「おい貴様! それは本当か? 容体はどうなんだ!? かなり悪いのかっ?」
「……軽傷だ」
答えてやる必要もなかったが、しつこく問い詰められるのも面倒だったので、ジークは短く答えた。その言葉に、安堵したように少年が大きく息を吐く。
だが、剣士の方は、緊迫感のない声でさらに嘆いた。
「軽傷でも傷モンは傷モンだよなー。あーあ、お前が考えなしにつっぱしるから……」
「貴様が、誘拐だ、早く何とかしないとマズイと言ったんだろうが!」
「だーって、複数人の男に誘拐されるとか、どう考えても色々ヤバイ気がするだろー? 主に純潔的な意味で」
「じゅっ……貴様ぁぁっ! 僕の前でふしだらな話をするな!」
「あー、ハイハイ。すみませんでしたー。キアルディ君は品行方正な騎士の鏡を目指してるんでしたねー。でもやってることはヤクザだからねー。ほんっとお前、その辺のバランス取れないよな」
キアルディと呼ばれた少年が、アルヴィスの胸ぐらを掴み上げて怒鳴る。
相方と頭一つ分は差のある長身の剣士は、揺さぶられながらも軽くいなしている。その光景が、実弟と仲間の少年のやりとりとデジャヴした。
ともあれ、彼らの意識が離れた瞬間を狙い、ジークは素早く踵を返し、来た方向へと駆け出した。
※
「あっ! 逃げた!」
「クソッ!」
二人の言い合いの隙を見て引き返した男に気付き、キアルディはすぐさま矢を射った。
が、攻撃を見越し、木の幹を盾にしながら逃げる相手を捉えることは出来ず、舌打ちする。
家人に気取られないよう、馬は河辺に繋いである。取りに行く暇はない。頭で判断する前に、キアルディは男の後を追った。
「くそ、合流されると厄介だぞ。僕の、誘き出して背中からざっくり! カンタン各個撃破作戦がッ!」
「そんな作戦名だったのか……てか、お前『正々堂々』とか『正道』って言葉知ってる?」
「警戒されたら、次の、あの車椅子の女を人質にとって脅す作戦が難しくなる。阻止するぞ相棒!」
「……ま、どーでもいいけど」
外道すぎる相棒の思考回路をいちいち否定する気もないが、これではどう考えてもこちらが悪役だ。
確か、『誘拐された白雪姫を助ける』という目的だった気がするのだが。
拭いきれない違和感を感じつつ、アルヴィスは先を行く少年の背を追った。
◇ ◆ ◇
二人が追いついた時には、灰色の髪の剣士は、森の中なのに門がある、奇妙な家の前で待ち構えていた。
「くそっ、逃げ足の速い……!」
この期に及んで繁みに隠れたまま、キアルディが毒づく。
門の前に立つ青年を睨みつけていると、家の中から別の男の声が聞こえた。
「ジーク!?」
「あー、気付かれたよ……」
こちらはあまり隠れる気もなく、キアルディの後ろに突っ立ったまま、ただ状況を口にするアルヴィス。
「カミュ、敵襲だ。すぐにフィオナを安全な場所へ」
「ああ!」
家の中の者と意思疎通した青年――ジークが、改めてアルヴィスらに向き直る。
「……ここから先は、通しはしない」
門前に仁王立ち、剣先を向ける男の目は濁りなく、冷たい。決意の固い言葉を前に、アルヴィスがぼやいた。
「なー、コレ完全に悪役じゃね? 俺ら」
「何を言っているアルヴィス、これは崇高な聖務である。やい貴様! 大人しくこちらに白雪姫を渡せ! さもないと、ここでこのアルヴィスの剣の露となってもらうぞ!」
「俺っ?」
いかにも悪役なセリフからの流れで丸投げされる。無論、しゃがみ込んで繁みに隠れたまま言っても格好はつかないのだが、相手の力量を悟り、および腰になっている時のキアルディは、そこまで頭が回らない。
今更他人のふりもできないので、せめてもの体裁を整えようと、丸投げされたアルヴィスは柄に手をかけ、ゆっくり繁みから歩み出た。
「さあ行けアルヴィス! あのお方のために! 白薔薇の騎士の名の下に、悪を打ち砕け!」
「やめて。その名前、恥ずかしいからやめて!」
柄にもなくなんとか格好をつけようとしたのだが、追い打ちをかけるキアルディの恥ずかしいセリフに、その努力も打ち砕かれる。
「白薔薇の騎士……?」
その言葉に反応し、人形のように無表情だった男の眉が、僅かに動く。
「恥ずかしいから復唱すんなって、おにーさんよ!」
「……!」
それを相手の隙と判断し、一気に距離を詰めたアルヴィスの先制攻撃を男の刃が受け止めた。
金属の打ち合う音が夕暮れの森に反響し、十数羽の鳥が一斉に飛び立つ。
重苦しい羽ばたきと、けたたましい嘶きの余韻を断ち切り、剣戟が重なった。
「……っ」
一進一退の攻防の末、刃を合わせ膠着状態に入った二人に、威勢の良い声がかかる。
「いいぞアルヴィス! 作戦通りだ!」
なんの作戦だよ……と、内心突っ込むが、口に出す余裕はない。が、相手は聞いてもいないのに答えてきた。
「貴様がつばぜり合いをして動けなくしている隙に、僕が安全な場所から狙い撃ちする魂胆だ!」
「お前の腹が汚いのはもうどーでもいいが……」
自力で押され始めているのを悟り、アルヴィスは一度大きく身を引いた。相手の力を受け流し、上体を捻って再度攻撃に転ずる。
「その考えてることを、いちいち口に出さなきゃ行動できない単細胞はどーにかなんねーのかっ」
上段から打ち下ろした一撃を、やはり相手は受け止めた。この男の防御は鉄壁だ。
先ほどからかなり不意を突いた攻撃を仕掛けているが、いずれも先読みされたように防がれる。
「めんどくせーな……ッ」
激しい動きにアルヴィスの長い前髪が揺れ、その下から、黒い眼帯をした素顔が現れる。
切れ長の右目が、苦々しい色を滲ませ戦況を見据えていた。
正直、かなり余裕がない。
「……大変そうだな」
「おかげさまで!」
皮肉にも聞こえない淡々とした口調で同情され、礼の代わりに剣を一閃する。
左に跳び避けた男に合わせ、距離をとり対峙すると、今まで後方にいたキアルディの姿を視界に入れることができた。
「……っキア!」
キアルディの背後に映った白い影に、アルヴィスは声を上げた。
※
――日が落ちる。
アルヴィスがなかなか出来るらしい剣士と刃を交えている間にも、釣瓶落ちのように陽は落ち、夜が侵攻を始める。
半分よりも太った月が、今や遅しと濃い紫の天に浮かぶ。
いずれ、完全な闇が来る。
一足先に深淵の闇に染まった森を背後に、キアルディは自らの弓に手をかけた。
どうやら、アルヴィス一人では手に余る相手らしい。
もとより一騎打ちなどは考えていない。どうもキアルディの作戦通りには、相手の動きを封じられないらしく、激しく立ち位置の入れ替わる彼らを狙うのはリスクが高かった。そのため、二人が離れた隙を狙っていのだ。
「ふんっ……」
弓だけは誰にも負けない自信がある。キアルディは、獲物が隙を見せる絶好の機会を見逃さない。
(今――)
そう思った時、アルヴィスがこちらを見て叫んだ。
「……っキア!」
それが、何かを警告するためのものだと悟る前に――
「させませんヨ」
背後から聞こえた囁きが、激しく背中を殴打する。
「ぐぁ……ッ」
肺から息が無理矢理押し出されるような声が漏れる。強い衝撃に、半ば自ら飛び出すように繁みを転がり出たキアルディが、不安定な体勢のまま未確認の敵を射た。
目の前で何かが一閃し、至近距離から射たはずの矢が叩き落とされる。
矢はすぐ足下に転がり、右手に痺れが残った。叩き落とされたのは、射る直前だったらしい。
剣にはあり得ないリーチで、キアルディから武器を奪った相手は、
「――槍使い!?」
月下に浮き上がる、白。
キアルディは目を瞠ったが、相手は、どこか小馬鹿にしたような笑みで首を傾げただけだった。
灰色の髪に、翠の瞳。どう見ても、先ほどの剣士と同じ顔だ。だが、剣士は今もなおアルヴィスと対峙している。
すぐに彼の衣装が、王都の医者や学者連中が着ているような白衣であり、その右腕が赤く血で染まっていることに気付いた。
「お前、昼間の……」
急に窓際に飛び出してきた白雪姫を、矢から守って傷を負った男だ。
「服汚すのイヤなんで」
全くかみ合わないことを言って、男が左腕で長槍を回す。
「これなら、今更返り血ついても気になりませんしねェ」
薄ら笑う男の眼が、酷薄に細められた。
「弓使い」
「くっ……」
その短い一言に不気味な殺気を感じ、キアルディは一目散に剣士と対峙するアルヴィスに駆け寄った。背を合わせ、互いに相手と対峙する。
徐々に敵と距離が縮まる緊迫感に耐えきれず、キアルディが叫んだ。
「まずいぞアルヴィス! 2対2だ! 僕は正々堂々の直接対決に弱い!」
「知ってるけど、威張んないでくれるかなっ!」
アルヴィスが肩を落とす。視線は剣士から外さないまま、投げやりに指示を出した。
「もーいいから、お前は森の中に逃げろ! キア、繁みに身を隠して俺を援護しろ!」
「それは素晴らしい作戦だ相棒! 見えないところから狙い撃つのは僕の得意分野だ!」
賛美するや否や、敵二名から離れられる方角に、森を目指して駆け出すキアルディ。
迷いのない彼の行動に、呆れとも感心ともつかないため息をつき、残されたアルヴィスは二人の男と対峙した。
「つーわけで、アンタらの相手は俺だ」
「興味ないですねェ」
「何……?」
槍を持った男の方が、肩をすくめていなす。
「弓使い」
その目が、赤茶の髪の後ろ姿を捉える。
「そっちには借りがあるんでねェ」
「キア! 気を付けろ!」
何か仕掛けてくる。そう直感し、警告したアルヴィスの声に、キアルディが走りながら振り向いた。
火薬が弾ける音。そして、強烈な白い光。
「花火?!」
一瞬の閃光に目を灼かれ、アルヴィスは右眼を瞑った。キアルディが足を止め、悲鳴を上げる。
その隙に閃光弾を投げた張本人は、白衣を翻し、地を蹴った。
飛ぶような身軽さで標的に追いつき、左手に掲げた槍を回す。
目を覆って動かないキアルディの肩口を狙い、柄の部分を垂直に打ちつけた。流れるような動作で、長い槍身を切り返し、下から腹を打ち上げる。
「うあっ……!」
「キア!」
悲鳴を上げ、仰向けに倒れ込んだキアルディに、アルヴィスが駆け寄った。
入れ替わるように、槍使いが身を引く。小脇に槍を抱え、同じ顔の剣士と背中合わせに立った。
横に並べば、更に際立つ。さながら月下の合わせ鏡のような彼らは、見る者に異次元に迷い込んだような奇妙な感覚を与えた。
「やれやれ……」
姿形は同じでも、まったく雰囲気の違う片割れが、おどけた様子で息を吐く。
「久しぶりにこんなもの引っ張り出しましたヨ」
「……久々にしては、悪くない動きだ」
「それはどーも」
適当に答える彼に、「弓使い」に対して見せた異様な執着はもうない。
「おい、キア、大丈夫か?」
「くっ……大丈夫なものか! 僕はものすごく痛いぞアルヴィス!」
「大丈夫そうで良かったわ」
アルヴィスは、痛みに呻く相棒を抱き起こした。キアルディは元気に喚いている。
槍使いは決して刃を使わなかった。殺す気はなかったということだ。打撃自体に手加減がされていたとは思えないが、存外丈夫なキアルディは、自力で歩ける程度には無事らしい。
「あ」
唐突に思い当たり、アルヴィスは双子の戦士を振り返った。
「なんか、見たことあると思ったら」
「どうしたアルヴィス!?」
「キア、この双子――ホラ、行方不明になってる……東の――」
その時、どこからか馬の嘶きが聞こえた。
「オヤ、お帰りのようですヨ」
双子が同時に顔上げる。夜風に乗る音に耳を傾けるようにして、片割れが言った。
すぐに嘶きと馬蹄の音が近くなり、間もなく朗々たる男の声が響いた。
「ジーク、ユーリ!」
森の中から巨大が影が姿を現し、月光の下で馬上の人の形を取る。
「でかっ……」
アルヴィスは呻いた。まるで王都の広場に鎮座する、アルフォンス大帝の凱旋像を思わせるような、呆気に取られる大きさだった。
たてがみから爪の先まで漆黒に塗られた馬が、一足飛びに双子と襲撃者の間に立つ。
「何者だ、貴様ら!」
馬上で剣を抜いた男は、総毛立つような気迫で問うた。その身から迸る威厳は、彼らの主に勝るとも劣らないものがあった。
「これはさすがにムリっしょ……」
戦う前から迫力負けしている。呻くアルヴィスの隣で、キアルディが素早く決断した。
「アルヴィス! こういう時は逃げるが勝ちだ!」
「全面同意」
逃げるが勝ち。これは、幼い頃から彼らに共通した理念である。
「今日のところは見逃してやる! だが、必ず白雪姫はいただくぞ! 覚えておくことだな!」
はーっはっはっはっ! となぜか高笑いまで響かせて、キアルディが今までにない走りを見せて森へと駆け込む。その後をアルヴィスが追った。
◇ ◆ ◇
「イイの? 追いかけなくて」
「……その気が失せる」
「そーだねェ」
彼らの逃げる姿を見送り、一応問いかけてみたユーリは、兄の言葉に同意した。
「今のが昨日の輩か?」
クンツァイトを降り、確認してくるヴァンに、ジークが頷く。
ジークが、短いが要領を得た言葉で状況を説明すると、ヴァンが思案するように森の闇を見据えた。
「隻眼の剣士と弓使い――」
「剣士の方は……20歳ソコソコ、弓使いは15、6ってトコじゃないですかねェ」
「どちらも騎士らしい出で立ちをしていたが、所属が分かるようなものはつけていなかった。だが……『白雪姫を返せ』と。彼女の安否と、傷がつくことをかなり気にしていた」
「…………」
2人の説明に、ヴァンが黙り込む。
今や、完全に夜の帳は落ちた。沈黙の狭間に、低い梟の声が滑り込む。
彼らの正体に想像を巡らし、落ちた沈黙をユーリが破った。
「残念ですねェ、ヴァン。あんまり遅いんで、ボクがおいしいトコロ頂いてしまいましたヨ」
「……というか、ユーリ。なぜお前がここにいる」
からかうように言うと、ヴァンがニコリともせず、ユーリを睨んだ。
「大人しくしてろと言ったはずだが?」
槍を目に止めた彼の声が、より厳しくなった。
「おやァ?」
「無茶をするなと言ったはずだ。お前がリッドより先に飛び出してきてどうする」
「大丈夫ですヨ。ボク、左利きなんで」
肩をすくめ、軽い調子で言い返したユーリに、ヴァンの眉間の皺が深くなる。
「心配してくれてるんですかァ? 珍しいコトもあるもんだ」
「お前が柄にもなく熱くなるからだ」
「…………」
さらりと返された言葉に、珍しくユーリの方が沈黙する。そこで会話が終了したと判断したらしいヴァンが、クンツァイトを放し、門に向かって歩き出した。
そのやや後ろをジークが、かなり距離を開けてユーリが歩く。家に帰るのだ。
「……あーァ、ホント嫌ですねェ。この兄弟」
頭を掻き、月を見上げたユーリの声には、ささくれだった苛立ちが混じっていた。
月にかかる雲はなかったが、風がどこからか湿った空気を運んでくる。
明日は、雨が降るかもしれない。
「ユーリ」
前方から届いた声に、ユーリは視線を向けた。
「フィオナが軽傷で済んだのは、お前のおかげだ。感謝している」
名を呼んだ本人は、振り返ることもせず、いつも通り仰々しい物言いで謝辞を述べた。
ユーリは、彼のこの喋り方が好きではない。
好きではないが、珍しく、まともに耳を傾けることにした。
「消える傷を気負う必要はない」
この男は、兄ほど器用ではないし、聡くもない。だがたまに、あの不愉快なくらい人を見透かす兄王子と――やはり兄弟だと思わせるほど、似通う時がある。
――そういう時は、ひどく憎らしくなる。
「背負う必要があるのは、消えない傷を残した時だけだ」
月明かりの下の背中を、ユーリは目を細めて透かし見た。そうしたところで、相手の表情も、感情も、見ることは出来ないが――
その言葉は、誰に対してのものなのか。
ユーリは問わない。
だが、月はその答を知っているように、彼の頭上で静かに微笑んでいた。




