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第十八話 唯一の存在 


「おーい、ウィルー」

「なんだい? カミュ」


 食卓に料理が並べられ、すっかり夕飯の準備が整ったダイニングに、奇妙な静けさがあった。


 エプロン姿でおたまを片手に唇を尖らすのは、手料理が冷めるのを嫌うカミュだ。

 彼以外は、すでに全員席についている。約1名を除いて。


「ヴァン、戻ってこねーけど……」

「戻ってこないねぇ」


 口調こそ人ごとだが、ウィルの表情は少しばかり曇っている。

 心配というよりは、意外、という感じだ。


「ウィルがいじめたから、拗ねちゃったんじゃないですかねェ」

「いじめてないよ。怒られたの俺だし」


 片膝を立てて椅子に座るユーリに、ウィルが反論する。

 いつもならヴァンの「行儀が悪い」の一喝が入るところだが、全員が示し合わせたように静かになった。


「……なんか、調子出ねー」


 晩餐の開始を待って座っていたリッドが、全員の心境を代弁してぼやいた。


「……ウィル、やっぱりオレ見てこようか?」

「お前はやめとけって、ラウ。空気読まねぇんだから」

「空気? って読めるのか?」

「……だから、そういうトコだよ。ったく、ほんとしょーがねぇなぁ」


 立ち上がりかけたラウをカミュが制す。呆れたようなカミュの突っ込みも、いつもより力がなく、精彩に欠けた。


「……ウィル」


 静かに、ジークが名を呼ぶ。

 その一言だけで彼の言いたいことを受け取り、ウィルが頷いた。


「そうだね……だけど、俺が行くのは逆効果かもしれないな。かと言って……」

「オ、オレは嫌だぜ!?」


 食卓に顔を並べるメンバーを一瞥するウィルに、リッドが過剰に反応する。

 全員が目を逸らすか黙りを決め込む中、


「フィオナ」


 ウィルの紫闇の瞳が、フィオナの前で止まった。


「見て行ってきてくれるかい?」


 小首を傾け、求められると、断ることの出来ないオーラを感じた。

 彼のお願いを、聞かなければいけないという気にさせられる。


 はじめて任された大役に、フィオナは膝の上でぎゅっと拳を握り、頷いた。







 リビングの奥に続く廊下を歩くと、ヴァンとウィルの私室がある。


「ヴァン? 入りますよ」


 声をかけても返事がないので、フィオナはドアを開けた。


 フィオナの部屋より幾分広い寝室には、寝台が二つ並んでいる。

 それ以外にもいくつか棚があるが、全体的にあまり物がなく、二人の若者が住んでいるにしては、いささか整然とし過ぎている気がした。


 二つの寝台の間にある小窓から、月明かりが差し込んでいる。


 それ以外は薄暗い部屋の中で、奥の寝台にヴァンが腰をかけていた。


 薄闇と対峙するように、腕を組み、じっと壁を睨みつけている。


「なんだ」

「夕飯の支度が出来ましたけど、なかなか来ないので、呼びに来ました」

「もうそんな時間か」


 そう答えたヴァンは、フィオナを見てはいない。

 微動だにしないヴァンからは、いつもとはまた違った重々しい雰囲気が漂っていた。 


「…………」


 沈黙が続く。

 なかなか動こうとしないヴァンに、フィオナは不安になった。

 ウィルは「気にするな」と言ってくれたが、ことの発端はフィオナたちにある。

 仲の良い兄弟の間に亀裂を生むのは、本意ではなかった。


 部屋の奥に進み、彼の表情が見える距離で立ち止まる。


「まだ怒っているんですか?」


 そう問うと、虚を突かれたようにヴァンが顔を上げ、ようやくフィオナを視界に入れた。


「考えていた」

「考えて?」


 どうやら、怒っていたわけではないらしい。


 だが、あれから小一時間は経っているが、ずっと何かを考えていたのだろうか。

 フィオナの質問に、再び、ヴァンが厳しい表情で宙を睨んだ。


「仮にウィルにとって俺が疎ましい存在であった場合、俺はどうあるべきか、だ」


 ヴァンの言葉は必要以上に堅苦しく、頭に入ってくるまで少し間があった。

 しかもその内容は、フィオナにとっては驚くべきものだった。


「ウィルが、ヴァンを疎ましいだなんて……そんなこと、あるわけありません」


 反論すると、ちらりと、ヴァンの視線が向く。


「仮に、だ」


 仮にでも何でも、そんなことは考えるだけ、ウィルの気持ちを疑っているようで嫌だった。


 確かに、ウィルは儚げな外見以上に芯が強く、ヴァンに意見することもある。

 過剰に心配してくる弟に、呆れることもあるだろう。

 だが、疎ましいなどと思うはずはない。


 ヴァンのいささか強引な判断に、他のメンバーが不平を漏らす時も、必ずフォローを入れるのはウィルだ。

 何より、二人はかけがえのない兄弟だ。


「そんなことはあり得ないので、考えるだけ無駄です」


 口に出すと、思ったよりも強い口調になってしまった。


 意外そうに、眉を開いたヴァンの表情は、はじめて見たかもしれない。

 いつも、眉間に皺を寄せている印象の方が多かった。


「無駄、か」


 復唱される。

 随分と一刀両断に言ってしまったものだと、瞬時に反省した。


「くっ……くっくっく」

「ヴァン……!?」


 ヴァンが笑ってる。


 肩を震わせて笑い出したヴァンに驚き、思わず一歩後ずさる。


 フィオナがこの家に来てもう8日になるが、そう言えば、彼が声を上げて笑っているところを見たことがない。


「俺も随分と、平和ボケしているらしい」


 込み上げる笑いを抑え、吐き出された呟きは、フィオナに向けられたものではなかった。

 反応に困っていると、ヴァンが立ち上がった。急に、見上げる形になる。


「確かにその通りだ。つまらないことを話した」


 フィオナの脇を通り過ぎ、部屋を出ようとしたヴァンが、ふいに立ち止まった。


「お前は、ウィルのことをどう思う?」


 振り返ったヴァンの表情は、暗くてよく見えなかった。

 急な質問の意図に迷うが、フィオナは思った通りの感想を口にした。


「優しい人、だと思います」

「優しい……か」 


 それは、はじめて出会った時から変わらない印象だ。


 優しくて、きれいなひと。

 ウィルには悪いが、たまに、母が生きていたらこんな感じだろうかと想像することがある。


 だが――


「でも、優しいだけじゃない……ですよね」


 そういう印象を受けたのは、つい最近のことだ。


「なんというか、頼りになるというか」


『儚いんだか、強いんだか分かんないよね』――それは1年に1度必ず咲く、美しい樹に向けた言葉だったが、そのまま彼にも通じる気がした。


「綺麗で、とても強い人」

「…………」


 ヴァンは黙っている。

 出来るだけ真剣に、心を込めて伝えたつもりだ。


 彼にとって、この回答は『正解』だったのだろうか。


「ヴァンはどうなんですか?」

「ウィルは、俺が守らなければならない唯一の存在だ」


 聞き返すと、ほとんど間を置かずにヴァンは答えた。


 フィオナは言葉に詰まった。

 紫闇の瞳が、暗い部屋で、一筋の矢のように迷いのない光を放っている。


(唯一の、存在)


 それは他の全てを、切り捨てた言葉のように聞こえた。


「礼を言う。本質的な部分を見落としていた」


 ふっと、瞳の力を緩め、ヴァンが微笑した。


 それは、やはりあまり見ることのない貴重なものだったが、フィオナは嬉しいと思うよりも先に、寂しさを感じた。


「お前は、人を見る目がある」

「ありがとうございます」


 初めて褒められた気がする。喜びと同時に、なにか割り切れない不安のようなものが胸を過ぎる。


 胸の奥に小さな穴が空いていて、そこから空気が漏れているようだ。

 手を当ててみるが、その穴が塞がった様子はない。


 先に部屋を出たヴァンを追い、フィオナは二人の部屋を後にした。



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