最終話:【完済】あなたのためだけのASMR
机の上のホログラム端末に、鮮やかな緑色で『完済』の二文字が躍っていた。
音無メロから叩きつけられた高額のスパチャ、そして一連の騒動で爆発的に跳ね上がった広告収益。それらは、白華と凛音が途方に暮れていた巨額の借金を、嘘みたいにあっさりと消し去ってしまった。
もう、命をかける必要はない。白華の荒い呼吸や心音を、世界中に垂れ流す理由もなくなった。
それは間違いなく、最高のハッピーエンドのはずだった。
「……そっか。これで、終わり、ね」
薄暗い整備ドック。凛音は一人、工具も持たずに『ガーデニア』を見上げていた。その横顔は、どこか酷く寂しげで、今にも消えてしまいそうに見えた。
「凛音ちゃん」
「……白華」
彼女の足音に気づき、凛音は慌てていつもの冷徹なメカニックの顔を作ろうとする。だが、眼鏡の奥の紫色の瞳は、隠しきれない孤独に揺れていた。
「ちょうど良かったわ。あいつらに書類を提出して、これで正式に契約解除よ。あんたはもう、あの窮屈なパイロットスーツを着て戦わなくていいし、配信だって――」
「嫌だよ」
白華は歩み寄り、凛音の手をぎゅっと握りしめた。
「白華……?」
「私ね、凛音ちゃんにまだ、ちゃんとお礼をしてないもん。いつも私の音を一番近くで守ってくれた凛音ちゃんにだけ、どうしてもしてあげたいことがあるんだ」
白華は驚く凛音の手を引いて、ドックの奥にある完全防音の音響調整室へと歩き出した。重厚な鉄の扉が閉まり、カチャリとロックがかかる。世界から全ての雑音が消え、二人きりの完全な静寂が訪れた。
配信のスイッチはオフ。マイクも、スピーカーも、補助AI“エコー”のシステムさえも動いていない。
「ちょ、ちょっと白華、何を……っ」
戸惑う凛音をコントロールパネルの椅子に座らせ、白華はその後ろから、彼女の華奢な体にそっと抱きついた。首元に白華の銀髪が触れ、凛音の体がビクリと跳ねる。
本物の、ゼロ距離だ。
「……静かにして、凛音ちゃん。私の『本音』、聴いて?」
白華は凛音の耳元へ、限界まで唇を寄せた。マイクを通さない、生身の吐息が、彼女の耳の輪郭を優しくなぞる。
「凛音ちゃん。いつも私の汚い音を、綺麗に調律してくれてありがとう……。冷たくて重い戦場だったけど、凛音ちゃんの声が聞こえるから、私、全然怖くなかったよ」
「し、白華……あんた、声が、近……っ」
「いつもは凛音ちゃんが私の音を管理してくれるけど……今日は、私がお返しするね」
白華は耳元で、わざと小さく、深く呼吸を繰り返した。すぅ、はぁ、と、極薄のスーツ越しに彼女の胸が凛音の背中に押し当てられ、二人の心臓が直接重なり合うようにドクドクと脈打つ。
「……いくよ?」
ふぅ、と熱い息を耳孔に吹きかける。
「ひゃうっ……!?」
凛音の口から、配信では絶対に聴かせられないような、甘くて情けない声が漏れた。真っ赤になった耳たぶが、白華の目の前で愛おしく震えている。
白華は我慢できなくなって、その小さな耳たぶを、そっと唇で食んだ。
「――ん、……ちゅ」
濡れたリップ音が、防音室の静寂に生々しく弾ける。
「あ、……う、あ……だめ、白華、脳が、変に……っ!」
「ダメじゃないよ。凛音ちゃん、ここ、すごく熱くなってる……。れろ、……んぅ……っ」
舌先で、耳の裏の柔らかい輪郭をゆっくりと這い上がる。
ちゅ、ぱ、と、鼓膜を直接震わせる肉肉しい音が、凛音の防衛線を粉々に砕いていく。世界中に絶頂を届けた白華のASMRは、今、目の前の愛しい幼馴染一人を溶かすためだけに、その全てを注ぎ込まれていた。
「あぁっ……! もう、無理……っ、無理だからぁ……っ!!」
快感と羞恥がキャパオーバーを起こし、凛音は涙目で振り返ると、白華の体を壊れそうなほど強く抱きしめてきた。彼女の狂ったような心音が、白華の胸にダイレクトに伝わってくる。
「……もう、嫌。あんたのこの音、一生、私以外に聴かせたくない……っ! 世界中の誰にも、一瞬だって渡したくない……!」
首筋に顔を埋め、子供のように泣きじゃくりながら、独占欲を爆発させる凛音。白華はその愛おしい頭を優しく撫でながら、耳元でくすくすと微笑んだ。
「うん。私の『一番大切な音』は、一生凛音ちゃんだけのものだよ。……でもね? みんなにも、私たちの『幸せな音』、少しだけお裾分けしてあげよ?」
【ライブ配信:白華と凛音のカップルASMRチャンネル】
同接数:780,000人
『おい!! 借金完済したって聞いたのに、普通に配信始まって草なんだが』
『てか、運営のノイズ除去の「執念」が昨日までの比じゃないんだがwww』
『【赤スパチャ:1,000,000円】音無メロ:ちょっと! 何よその新しいパイロットスーツの密着音! 昨日の夜、二人でどんな「調律」をしたのか吐きなさいよ、この泥棒猫!!』
『白華親衛隊・金融支部:白華様! 借金がなくなっても我らは一生の奴隷です! 今日も最高の「くっ」をありがとうございます!』
オペレーター席に座る凛音は昨日よりもさらに深いクマを目の下に湛えていた。朝方まで白華と一緒にいたことによって刻まれた愛のクマだ。凛音は、諦めたように笑う。
「……もう、本当にどうにでもなれ」
機嫌を損ねたメロからの凸通知を弾き飛ばし、借金取りたちの熱狂的なコメントをノイズゲートで処理しながら、彼女は白華のバイタルログに、特別なプロトコルを上書きした。
『――生体共鳴率、測定不能。……二人の「愛の鼓動」、世界中に永久配信を開始します』
補助AI“エコー"の声が響くと白華は微笑んだ。
「みんな、今日も聴こえるかな? 私と凛音ちゃんの、本当の音だよ」
コックピットの中で、白華はパイロットスーツの胸元に手を当て、カメラの向こうの世界へ、そして誰よりも愛しい幼馴染のメカニックへ向けて、世界一甘い吐息を吹きかけた。
重なり合う二人の波形は、もう二度と、離れることはない。
(鋼鉄のASMR 編・完)




