第22話「貧血」
月経の描写入ります
温かい日差しが私を照らしている。目の前を通りがかった5歳くらいの男の子が、大きな声を上げていた。
「ばーあーあー!! カード!! あーーゔーー! あーーーー!!」
「いい子にしないとコンビニで働くかお掃除するだけの人になっちゃうよ」
それを嗜めるように、その子供の母親らしき人が子どもを叱っていた。
2人は私の前を通り過ぎて行く。私の目線はとても低く、車のパイプガードにようやく届くほどだった。
2人が通り過ぎた後には、コンビニの自動ドアがある。散らかった出入り口の空き缶を、お婆さんがトングで拾い上げる。そのままお婆さんは、どこかに消えて行った。
「ママ、コンビニの店員さんとおそうじのひとは悪いひとなの?」
呂律の怪しい幼い声だった。その声は、私の口から紡がれている。
見上げた先に、優しい顔立ちの女性が居た。長い髪を一つに纏めている。上品なカーディガンを羽織り、紺色のパンツを履いていた。私はその人と手を繋いでいる。
女性の少し皺を刻んだ目元が私を見た。
「ふふふ、何言ってるの。■■はコンビニでお菓子を買うでしょ? みんなも買うよね」
「うん」
「みんな持って行ったらどうなる?」
「……無くなっちゃう。どうしよ、私のクッキーなくなっちゃう」
「無くならないように、棚に出してくれるのは店員さんだよ。お買い物だって、店員さんが居なきゃ出来ないでしょ」
「うん」
「くだらん」
左側から声がした。私の左手を握っている。
少し白い髪が混じる、きっちりと髪を固めた男性だった。皺が深く、縁のない眼鏡から覗く瞳は厳しい。茶色のジャケットと黒いスラックス姿の、整った服装をしていた。
女性の方が困ったような声を上げる。
「ちょっと、あなた」
「くだらんだろう、人の生業を躾けに用いるなど馬鹿馬鹿しい」
「それを教えるのが親でしょう」
「そうだとも。■■」
「なあに、パパ」
ノイズが走り聞き取れないのに、私は私の呼び名を知っていた。
「掃除をするお仕事はどうして必要かわかるか?」
「……わかんない」
「■■はよくご飯を溢すだろう。それを掃除してくれるのは誰だ?」
「ママとパパ!」
「そうだな。掃除をしないと汚したままだ。人は生きているだけで汚してしまうことがある。家族ですらない人が汚したものを掃除する仕事は、立派に決まっているだろう」
「えらいおしごと?」
「当たり前だ。どんな仕事にも価値はある。覚えておきなさい」
「はあい。私おそうじのひとになろうかな」
女性は優しく笑っていた。この世界で一番甘ったるい声で囁く。
「どんな人になってもいいのよ。あなたが生きていてくれれば、それだけでいいの」
男性は厳しく眉を顰めていた。この世界で一番正しい声で呟く。
「どんな人だろうが、■■は素晴らしい子に育つだろう。私たちの娘なのだから」
私は、この2人が好きだった。飴のように甘いお母さんと、棘のように不器用なお父さんと。
2人は決して、人の価値を見下したりしない正しさを持っていた。
私は2人の手を絶対に放したくなかった。強く握り返して、小さくコンクリートを蹴ってジャンプした。
お父さん、お母さん、だいすき。
毒親なんて言ってごめんね。
目を覚ましたら、見慣れた木製の天井があった。視線がぐるりと周りを見回す。何人か子どもが残っていて、わいわいと声が聞こえた。モカはまだねんね? という小さい声が耳に届く。
昨日までの記憶を辿る。私の名前はモカ。ネバーランドで転生を待つ天使。でも本当は、ネバーランドは嘘っぱち。
もうひとつの記憶。私の名前は■■。お父さんとお母さんが大好き。だいすきなのに、毒親と呼んだことがある。
ネバーランドの秘密を暴くだとか、家族を助けたいとか、そういう気持ちで昨日から動いていた。でも目覚めた今、浮かんだのはたったひとつの願いだった。
お父さんとお母さんに会いたい。会って謝りたい。
私は起き上がろうと腕を伸ばして、すぐに枕に突っ伏した。全身が気怠く重たい。身体が錘になったようにベッドに沈む。もう少し寝ていてもいいだろうか……私は瞼を閉じる。
「おっっはよー!! マーイエンジェール!!」
布団越しでも誰なのか分かるほどクソデカいボイスが、鼓膜をぶん殴ってきた。
頭まで被った布団を下ろして、声の主を思いっきり睨み付ける。ヒツジは悪気のない笑顔をぴかぴかに輝かせている。お日様か。昨日のことなんて無かったみたいに……とは言わない。目元は赤く腫れている。
私はやっと身体を起こした。布団を退かして床に爪先をつく。
途端に、足元がふわりと浮遊した……気がした。目の前が暗くなって、立つはずの二本の足は、自然とその場にしゃがみ込んだ。
「……ゔぅ」
「モカ、大丈夫!? どうしたの!?」
ヒツジが大声を出して駆け寄ってくる足音が聞こえた。頭にがんがん響く。
「お腹空いた? 頭痛い? どうし、た──うわぁぁぁぁァァァァぁ!!」
心配する声が、途中で途切れて叫び声に変わった。彼の様子がおかしい。ふらつく頭を振り払い、私は顔を上げる。
……視界に飛び込んできた光景に、私の喉が引き攣った。
「ひっ……」
私が寝ていたベッドの白いシーツ。その上に、紅染め色の不定型な楕円が描かれていた。
同時に、下着の中でぬるりと粘質な液体が、尻の合間に伝い落ちる感触がする。どろっとした何かに、顔から血の気が引いていくのが分かった。
……下着を、汚した? なんで? どうして? 気持ち悪い、きもちわるい。
胃の奥から吐き気が迫り上がる。私は咄嗟に口元を覆った。
「このベッドのって、血……!? モカ、吐きそう? どっか痛い?」
「お腹と……あたま……ぐらぐらする、きもちわるい」
「ちょっと〜、いつまで待たせる気なの──」
出入り口の方からミヤの声がした。そうだ、今日は健康診断。病院に堂々と近づける日。それなのに。
「ミヤ! モカがお腹が変って言ってて、それで、あの」
「……何これ?」
ヒツジが助けを求めて必死に訴えようとしていた。
その声を遮って、張り詰めた声がする。ミヤだった。普段の間延びした声色は消えていた。
私は答えようとしても、上手く言葉が出てこない。頭の重たさと一緒に、全身の血が下に降りるように巡っている。どくどくと心臓の音が聞こえた。
「わ、わか……らな……」
「は? あり得ない、……嘘でしょ、何で? どうしてこんな事になってんの……」
あり得ない、どうして。ミヤの口から、そんな言葉が繰り返し聞こえてくる。
何があり得ないの?
そんな疑問は口に出せない、嗚咽に変わってしまう。
目覚めて間も無く、私の意識は再び闇に引き摺り込まれた。




