瞳の契約者4
エルステリアが扉を開いた先に立っていたのは、俯き気味にこちらを見上げるリィズリットだった。
ワンピースのような薄手の寝間着に身を包み、美しい銀髪は艶やかに濡れているところを見ると、どうやらシャワーを浴びてきたらしい。
石鹸の優しい匂いが漂ってきて、リィズリットの清楚な雰囲気が増しているように見える。
予想外の来客に戸惑いながらも、エルステリアは微笑んで彼女を迎えた。
「いらっしゃいリィズリットさん、何かご用ですか?」
そう問われたリィズリットは、真っ白な肌を薄紅色に染めながら、透き通るようなエメラルドグリーンの瞳を泳がせる。
少しの間沈黙が流れるも、意を決したようにリィズリットが顔を上げた。
「あの、ご迷惑じゃなければ、なんですけど…。」
「はい、どうしました?」
「旅のお話、もう少し聞かせてほしいと思って…。」
その申し出に、エルステリアの表情がパッと明るくなった。
「勿論いいですよ、迷惑なんかじゃありません。さぁどうぞ、中に入ってください。」
エルステリアが招くと、リィズリットは初めて見せる小さな笑みを浮かべ部屋へと入ってきた。
思いがけず話す機会に恵まれて嬉しくなったエルステリアは、ベッドの縁に腰かけて隣に座るよう促す。
「よかったらこちらに、何でもお話ししますよ。」
「は、はい。ありがとうございます。」
恐る恐るといった様子でエルステリアの隣に腰かけたリィズリットは、彼女の姿を見て首を傾げた。
「あの、何かされてたんですか?」
「え?どうしてですか?」
「だって……汗を掻いているように見えますから。」
「あぁ、ちょっとトレーニングをしていたんですよ。ごめんなさい、臭いでしょうか?」
エルステリアが苦笑して自分の匂いを嗅いでみせると、リィズリットは慌てて手を振った。
「いえ、違います!臭くなんてないです!ちょっと気になっただけで、本当にごめんなさい!」
自分の声が思ったより大きかったからか、また俯いてしまったリィズリットにエルステリアは苦笑する。
少しずつ距離が縮まればいい、そう思っているエルステリアは大丈夫だと笑いながら言う。
「気にしないでくださいね、怒ったりとかしてないですから。」
「はい、すみません。」
「あぁ、一つ提案があるんですが聞いてもらえますか?」
そんな言葉に顔を上げたリィズリットに笑いかけながら、エルステリアは人差し指を立てて言った。
「よかったら私のことはエルスと呼んでください、敬語も止めにしましょう。その方が話しやすいでしょう?」
「えっと、いいんですか?だって、エルステリアさんはお客様なのに。」
「いいんですよ。歳も近そうですし、女の子同士じゃないですか。折角会えたんですから、仲良くしたいじゃないですか。」
「……私も、仲良くしたいです。」
「じゃあ決まり、ね?」
微笑むエルスにリィズリットは嬉しそうにはにかんで、小さく頷いた。
「あ、あのねエルス。」
「なぁに、リィズリット。」
「えっと、私のこともリィズって呼んで。」
「うん、よろしくねリィズ。」
名前を呼び合い、互いの間にあった見えない壁が取り払われたように、二人は笑顔になる。
緊張が解れたのか、少しだけエルスに寄ったリィズは嬉しそうに言った。
「なんだかね、お姉さんができたみたい。」
「本当?凄く嬉しいよ。」
「エルス姉さま、えへへ。」
可愛らしい笑顔で見上げるリィズに感極まったエルスは、思わずリィズを抱きしめた。
「わっ、どうしたのエルス姉さま?」
「えへへ、すっごく嬉しくなってつい。」
リィズから漂ってくるいい匂いを嗅ぎながらそう答えると、リィズも嫌がらずにエルスの背中へ手を回した。
どくんどくんと、お互いの鼓動が胸を通じて伝わってくる。
それはエルスにとって、久し振りに感じた安心感。
綺麗な景色や、様々な人たちとの触れ合いの中でも得ることがなかった幸福だ。
こういう温もりを感じられたのは一体どれほど前だったかと考えていると、リィズがもぞもぞと動いた。
「エルス姉さま、ちょっと苦しい。」
「あ、ごめんね。」
思った以上に力を込めてしまっていたらしい。
エルスは慌ててリィズを放し謝った。
「ごめんね、嬉しくて。」
「ううん、大丈夫だよ。私も嬉しかったから。」
笑顔を浮かべたリィズにエルスは安心し、区切りをつけるように手を叩いた。
「そうだ、旅の話を聞きに来たんだったよね。うーん、どんな話が聞きたいの?」
「あのね、エルス姉さまが旅を始めるきっかけになったお話から聞きたい。」
「あ………。」
ワクワクしているリィズに反し、エルスの表情が少しだけ曇った。
何かを迷うような表情で、視線が泳ぐ。
そんなエルスに、リィズは何かを察し慌てて首を横に振った。
「あ、ごめんなさいエルス姉さま。話しづらいことだったら無理しなくていいから。」
「………いいえ、大丈夫だよリィズ。あんまり楽しい話じゃないから、リィズに聞かせるのを迷っただけだから。もしも聞いてて嫌になったら言ってね、すぐに止めるから。」
少し力なく微笑むエルスに、リィズは小さく頷いた。
「始まりはね、とある事故だったんだ。」
まだ恐らくリィズリットが生まれていない頃の話。
エルステリアはとある村人夫婦によって拾われた。
村の近くに広がる大きな森の中、村の者が御神木と呼び敬っていた大木の根元に彼女はいた。
まるでそこに生まれたように眠っていたエルステリアを見つけた村の夫婦は、天からの授かりものだと喜び、彼女を実の娘として大切に育てたのだ。
他の村人たちも喜び、やがて美しく成長していくエルステリアに村人たちは喜び、たくさんの愛を受けて彼女は大人になっていった。
「両親になってくれた人も凄く優しくて、村の皆と畑を耕したり、動物に餌を与えたり、時には一緒に狩りに出かけたり、凄く幸せな日々だったんだ。」
だが、その事故は唐突に襲ってきた。
森と山に生きてきた村は、時折野生の動物からの被害は受けていても、平和そのものだったのだ。
だからこそ、突然の思念獣の襲来に対応できる者はいなかった。
群れを成すように森から現れた思念獣たちに村人は成す術なく、名もなき小さな村が壊滅するのに僅かの時間さえかからなかった。
蹂躙された村はそこかしこから煙を上げ、家畜は逃げ出し、或いは食われ、過ぎ去った悪夢の後には数刻前までの平和など見る影もない。
血と何かが焼ける臭いが立ち込める廃墟の中で、エルステリアは生きていた。
両親だった夫婦に守られるように、二人の死体の下で震えていたのだ。
自分を育ててくれた両親、村人たち、思い出の詰まった日常が、瓦礫となった家々と共に崩れていく。
その惨劇の中佇み、叫ぶように泣いた。
悔しさと無力感、ただ守られただけだった自分。
思念獣たちは、漸く大人になったばかりの少女の心までも、食い荒らしていったのだ。
「でもね、私を守ってくれた両親が言っていたの。」
私たちは、貴女を育て、守るために生まれてきたのかもしれない。
だから生きて、強く生きて。
命の灯が薄れゆく中で、二人は強く抱きしめたエルステリアにそう告げた。
自分たちは幸せだったと、エルステリアを死なせずに済んで幸福だったと。
「だから私は旅に出ることに決めたの。皆が守ってくれた命で、世界を見て回るために。」
たった一人で思い出を埋葬し、僅かに残った物資を手にしてエルステリアは旅立った。
話を終えて、エルスはリィズを見る。
リィズは瞳に涙を湛え、何も言わずにエルスに抱きついた。
やはり重かっただろうかと、エルスは嗚咽を漏らすリィズの頭を撫でながら思う。
初めて話した自分のこと、だが誤魔化すべきだったのかと。
でも、リィズには何故か嘘を吐きたくなかったのだ。
この宿に来て、かつての懐かしさを感じ、穏やかな気持ちになれた。
そしてこうして心を開こうとしてくれたリィズリットに、少し甘えてしまったのかもしれない。
温かな感触を胸に抱き、自身の迂闊さを反省する。
どうしたものかと思案していると、リィズが抱きついたまま顔を上げ、エルスに言った。
「話してくれてありがとうございます、エルス姉さま。辛いのに話してくれて。」
「…ううん、平気だよ。確かに辛かったし、今でも忘れることはできないけれど、だからって俯いて泣いていたら、皆に顔向けできないから。だからね、私はどんなことがあっても、前を向いて生きていきたいんだ。」
「…私、エルス姉さまに出会えて本当によかったです。」
そう言って笑うリィズの笑顔は、涙で煌めいていた。
そっと離れたリィズの涙を、エルスは指先で拭ってやる。
リィズは嬉しそうに顔をほころばせ、涙を拭う手を握った。
目を閉じて穏やかな表情のリィズに、距離を置かれず良かったとエルスは安心する。
憐れむでもなく、変に共感するわけでもなく、ただ涙を流して聞いてくれた。
それはエルスが心のどこかで望んでいたものだったようにも思え、気がつけば話し出す前よりも軽くなった気持ちに、再びの安心感が訪れる。
リィズはエルスの手を握ったまま暫くそうしていると、実はと前置きをして語りだした。
「私も、マリーの本当の子供じゃないんです。私が物心つく前、この町の外で思念獣に襲われた商人の荷馬車の中で発見されて、親も出自もわからない私をマリーが引き取って育ててくれました。だからかもしれません、エルス姉さまが何故だか凄く気になってしまって、話を聞いてみたくなって。」
「私も、リィズのことが気になっていたんだよ?でもどうやったら仲良くなれるかわからなかった。でもこうして仲良くなれて、今は凄く嬉しい。」
「はいっ、私も嬉しいです!話したくてもエルス姉さまがとっても綺麗で、なんか恥ずかしくなって、どうしようって思ってたけど、今は勇気を出してよかったなって思います。」
照れた笑顔のリィズを見て、エルスも照れてしまう。
だがこうして屈託なく話しかけてくれるリィズに、エルスは心から喜んでいた。
森で数日間彷徨った甲斐もあったというものだ。
賑やかで楽しげな町、懐かしさを感じる宿、温かく迎えてくれたマリーと、仲良くなることができたリィズリット。
それから二人は、お互いのことを話し合った。
エルスの旅の話や、リィズとこの町のこと。
美味しかった料理、珍しい宿泊客、山の盆地に広がる湖の話や、雨上がりに架かる平原の虹の話。
夕食時とは見違えるほど、二人は仲の良い本当の姉妹のようだ。
しかし楽しく満ち足りた時間ほど、流れゆく水のように過ぎ去っていく。
窓の外から聞こえてきていた喧騒が静まり、随分と話し込んでいたことに気付いたリィズが、申し訳なさそうに謝る。
「ごめんなさいエルス姉さま、疲れているのにこんな遅くまで話してしまって。」
「謝らなくていいよ、私だって楽しくて疲れを忘れていたんだから。」
「えっと……はい、私も楽しかったです。」
「そういえば敬語、戻っちゃってますね。」
「あ…。いいえ、これでいいんです。だってエルス姉さまなんですから、これでいいんです。」
少し得意げに言うリィズに、エルスは嬉しそうに笑った。
妹がいたことはないが、姉さまと呼ばれることが嬉しさを感じている。
エルスがベッドから立ち上がると、リィズも自室に戻ろうと扉の方へと歩き出す。
そして廊下へと足を踏み出したところで、振り返ってエルスに尋ねた。
「姉さま、明日はどんなご予定ですか?」
「明日?まずはギルドに顔を出そうと思ってます、路銀も稼がないといけないですし。」
「わかりました。それではゆっくり休んでくださいね、おやすみなさい姉さま。」
「えぇ、おやすみリィズ。」
スキップでも踏み出しそうな様子のままリィズが部屋を後にする。
本当に、いいことが続いた一日だったように思う。
ベッドに横になり、まだ温もりの残った布団を撫でて笑みが零れる。
いい町だと改めて思い、しかしふと平原での戦闘を思い出す。
あの思念獣には申し訳ないことをした。
見境なく人を襲い、町に向かってきていたとしても、それでも彼らは生きていて、人間の思念から生まれてしまった生き物だ。
例え自分の幸せな日常を壊したモノであっても、それが彼らの在り方である以上、エルスは恨もうと思えなかった。
殺し、殺されるような関係、それをエルスは善しとできないからだ。
「届くかどうかはわからないけれど、ごめんなさい。」
目を閉じ、ささやかな黙祷を捧げ、エルスは眠りにつく。
疲れ切った体は、海に沈むように意識を落としていった。




