4-19
ロゼ・ブラッドレイがその第一報を耳にしたのは、彼がまだ王都の養成所にいる頃のことだった。
【斧の侯爵】ブレア・アクスフォード、公王ウォルテリスに反旗を翻す。
――後に『斧の反乱』と呼ばれる内戦の始まりだ。
この報告はロゼにとって正に青天の霹靂だった。
なにしろ、アクスフォードはブラッドレイ家の主家筋。血縁的にも地理的にもほど近い位置にある。
斧の侯爵家が立ち上がるというのであれば、その一党も自動的に反乱へ加わるはずだった。少なくとも、ロゼはそう確信していた。だから彼はすぐさま荷物を纏めてカムロートを脱出し、領地であるタウィンへと向かった。
王都で悠々自適の生活を送っていたロゼにとっては、なんともはた迷惑な話だ。
ただ、同時に彼は心躍るような感覚に囚われていた。別に英雄願望がある訳でもなかったが、戦争という非現実は年頃の青年を興奮させた。『邪悪な王家を打ち倒す』という筋書きまであるのだから尚更だ。
元より、現王家に――というより、宰相モグホースに恨みを持つ貴族は少なくない。四侯爵の一角であるブレアが音頭を取れば、反王家の一大勢力を築き上げることが可能だろう。場合によっては、あの王弟ガルバリオンを味方につけることだってできるかもしれない。
そうして、青年は期待に胸を膨らまして実家の門を叩いた。
が、帰郷した彼を待っていたのは兄カラムの出奔という報だった。
未だ、ブレア・アクスフォードは動いていなかった。
彼はごく一部の貴族に声をかけただけで、北部に根を張る血族たちとまるで連絡を取っていなかったのだ。カラムのように家を出てまで侯爵についた例はごくわずかに過ぎなかった。
それでも、ロゼは辛抱強くブレアが王国全土に号令をかけるのを待った。だが、その時はついぞ来なかった。ロゼは理解した。ブレアは最初から少数の人間だけで事を起こすつもりだったのだ。
つまり、これは王家転覆を目的とした反乱ではない。侯爵の企みは別にある。その企みに兄カラムは参加し、自分や父ドナルといった面子は省かれた。それだけの話だ。
「一体、侯爵様はなにを考えておられるのやら……」
カムロート北西の港町タウィン。
その自室のベッドの上で、ドナル・ブラッドレイはくぐもった声をこぼした。
ロゼの父ドナルは枯れ木のように痩せた男だった。
歳は今年で四十五。若い時分はブレアと共に戦場を駆け回ったという噂だが、この頃は体調を崩して寝床から起き上がれなくなっていた。
ブレアがブラッドレイ家に声をかけなかったのも、恐らくはドナルの体調を気遣ってのことだろう。だが、長男のカラムは何くわぬ顔で反乱軍に参加している。ロゼはその事実がなんとなく気に入らなかった。
「しかし、兄さんも無責任だな。家を継ぐべき嫡男が出奔してしまうなんて」
「先日、あやつから絶縁状が届いたよ。カラムはお前に家督を譲ると言っている」
「身勝手なことを。あの馬鹿、死ぬ気か?」
「そうかもしれんな。ブレア殿は己の身命を賭け、この国を変えるつもりなのだろう。それも可能な限り犠牲の出ない方法で――」
天井を仰ぎ、苦しげにうめくドナル。
ロゼはその脇で意味もなく室内をうろうろした。どうやら、事態は芳しくない方向に進展しようとしている。彼はその事実にひどく苛立っていた。
「ブレア殿の考えは甘っちょろすぎる。あれもこれもと理想だけを求めて、一体なにが守れるんだ? 剣を取ると決めたのなら徹底的にやるべきだ。父さん、俺は今からでもブレア殿に直談判してくる」
「待て、ロゼ。お前が行ってどうなる。ブレア殿にはブレア殿の考えがある。それをお前のような小僧の説得一つで変えられるとでも?」
「変えなければブレア殿は死ぬぞ。シルヴィや兄さんだって無事じゃあ――」
「カラムは全て上手く行けば、誰一人傷つかずに済むと言っていた」
「全て上手く行けばだって? そんなもの机上の空論と同じじゃないか。父さん、あんたちょっと楽観的すぎるよ」
「……分かってくれ、ロゼ。私でさえ、ことが起きるまでなにも聞かされていなかったのだ。お前一人があがいたところでブレア殿の計画は止められん。シルヴィア嬢のことは――残念だが、神に祈るしかない」
「あいにく俺は無神論者だ。誰かに祈るくらいなら自分で動く」
ロゼはため息をつくと、その場から身を翻した。
「待て、ロゼ。どこへ行く」
「カラムが出奔した以上、家を取りまとめる人間が必要だろう。父さんは寝ていてくれ。後は俺が全てやっておく」
「しかし……」
「戦争が本格化すればここが最前線になる。バカなお貴族様の事情で民を死なせるわけにはいかない。ブレア殿の暴走を止められないのなら、せめて振りかかる火の粉だけでも払いのけなくっちゃな」
吐き捨てるように言って、ロゼは父の居室を辞した。
こうして、ブラッドレイ家はアクスフォードと袂を分かった。
十二月初頭。タウィンの地にはらはらと雪が降り始めた頃の話だ。
その後、ロゼは『斧の反乱』の中で王国側の戦力として戦った。
機甲竜騎士として空に上がり、かつての同胞と矛を交え、顔なじみの騎士を討ち果たしもした。
そして、一連の争乱はブレアの投降と公王ウォルテリスの崩御で幕を下ろすこととなる。
兄カラムは戦死し、ブレア・アクスフォードは処刑され、彼らに協力していた貴族の多くは一族郎党に至るまで皆殺しにされた。結局、ロゼはブレアたちがなにを目的としていたのか最後まで知ることはなかった。
ロゼが理解したのはただ二つだけ。
ブレアの計画が極めて優柔不断で愚かだったこと。
彼らの独善が国内に混乱を招き、それに巻き込まれた人々が意味もなく命を散らしたこと。
反乱が終息し、北部に平穏が戻る頃には、ロゼはもうシルヴィアの顔を思い出すこともできなくなっていた。
XXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXX
舞台は高度15000フィートの上空に戻る。
謎の大型機甲兵器を行動不能にした直後、アウロはロゼとの一騎討ちに突入していた。
骸装機同士の高速戦闘において、量産型の《ワイバーン》など空飛ぶ障害物にしかならない。アウロとロゼの思惑は、味方に無駄な被害を出したくないという点で一致していた。
ただ、アウロの側には予想外の出来事があった。
一つは一度撃破したはずの機甲要塞が再び動き出したこと。
もう一つはロゼの乗機である《エクリプス》の性能が、見違えるほど強化されていたことだ。
【あ、主殿、右後ろ! 四時の方角!】
「くっ……!」
カムリの警告に従い、アウロはハーネスを捌いた。
直後、後方からエメラルドグリーンの弾丸が自機の右脇を突き抜けていく。
六枚の羽根をくねらせる機影。風竜の骸装機《エクリプス》。
アウロにとっては都合、三度目の激突となる相手だ。その優れた格闘性能、ずば抜けた機動力、風竜のブレスを応用した魔導兵装については重々承知している――はずだった。
『どうした、アウロ! 逃げるばかりで勝てるとでも思ってるのか!』
虚空を裂く蒸気線跡。
ロゼは機体を八十度バンクさせ、水平方向に急旋回しながら、再度の突撃を試みようとしていた。
まだ戦闘が始まって五分足らず。だが、アウロはこの間、敵機から逃げ回ることしかできなかった。
原因の一つはスピードだ。
前回の空戦の際、《ミネルヴァ》はその優れた運動性によって《エクリプス》を翻弄していた。が、今回は敵機の旋回半径が大幅に短縮されている。
つまり小回りが利くようになっているのだ。これは胴部に追加された前翼が安定板の役割を果たしているためだろう。
(おまけに――)
アウロは歯を食いしばり、敵機の進行方向へ機首を向けた。
機動力で劣っている以上、格闘戦を挑むのは愚の骨頂。
となると、後はもう真っ正面から《エクリプス》を切り伏せるしかない。
「……〝スピキュール〟」
搭乗者の意志に反応し、幾何学模様の刻まれたランスにぼっと火が灯る。
強化魔導兵装〝スピキュール〟。
《アニシード》の短剣とは比べ物にならない魔力を秘めた魔導兵装だ。
しかし、輝く槍の穂を前にカムリは不安そうな声をこぼした。
【主殿、それ……】
【もう一度だけ試す】
アウロは短く告げ、ぴしゃりとハーネスを打った。
アフターバーナー全開。急加速した機体が敵機との交錯軌道を取る。
対する《エクリプス》も機体後部から緑色の光を噴き出した。
次いで、右腕甲に携えたランスを振りかぶる。アウロは螺旋状の穂先に、白く濁った大気が絡みつくのを見た。
ランスチャージ。超高速で空を飛び回る機甲竜騎士にとって、最大最強の攻撃手段だ。アウロは息を詰めたまま、飛翔する敵機めがけてガンランスを振りかぶった。
――ジジジジッ!
衝突する両機の武装。
炎熱と烈風とが干渉し合い、火花に似た飛沫をまき散らす。
元々、〝スピキュール〟の火力は騎士甲冑一体をまるごと蒸発させてしまうほどだ。
しかし、敵の魔導兵装――〝スピレッタ〟は魔力を帯びた旋風によって、ランスに絡みついた炎を残らず吹き飛ばしてしまった。
とはいえ、《エクリプス》の穂先もアウロを捉えることはできない。二機の機甲竜騎士は反動によって武装を弾き合う結果に終わる。
悠々と空を駆け抜ける緑甲の機竜を見送りながら、カムリは【くっそー!】と声を荒げた。
【やっぱり、駄目だよ! あの風で魔力が散らされちゃう!】
【相変わらず厄介な武器だ。接近戦は通じないか】
【でも、遠くから撃っても避けられるか防がれるかどっちかだし……】
【参ったな。現状、《ミネルヴァ》の兵装では奴を捉えることができない】
アウロは敵機が旋回するタイミングを狙い、補助尾翼に内蔵された機関砲を発射した。
が、《エクリプス》はこれも左腕甲のシールドで跳ね返してしまう。〝マースク〟ご自慢の風力結界だ。
更に敵機は盾を構えたまま機体を加速させた。ジグザグのシザーズ軌道を刻みながら、こちらの左手に回り込もうとしている。
【主殿、爆弾が来る!】
「ええい……!」
アウロは自機の前方にシールドをかざした。
すれ違う機影。盾の表面で乾いた金属音が鳴る。
と同時に爆裂が轟き、アウロの体は衝撃によって乗機ごとぐらりと傾いだ。
《エクリプス》の左腕甲から発射された破甲爆雷だ。幾度となく敵の兵装を受け止めたシールドは、既にもぐら塚の如く穴だらけになってしまっていた。
【あぐぐ……また直撃弾! 一体なんなんだよ、あれ!】
【シドカムが言うには、翼付吸着式破甲爆雷という代物らしい】
【ふぃ、ふぃんす?】
【敵機の表面に取り付き、指向性の爆薬で装甲を貫く対機甲兵器だ。ロゼの奴め、厄介な兵装を……】
アウロは毒づきながらバイザーの端に視線をやった。
既に収束砲《プロミネンス》は使用不可。シールドを支える左腕甲も貫通した噴流によって出力が低下している。
なによりまずいのは爆風によって空戦エネルギーが削られていることだ。
高度こそ15000フィートを維持しているものの、速度は既に250ノットを下回りつつあった。このままでは、400ノットの速度で飛び回る《エクリプス》になぶり殺しにされてしまう。
【ランスチャージは通じず、射撃兵装の類もかわされるばかりか。残された手段は最後の切り札くらいだが……】
【よし、さっさと脱ごう! あのナナフシ野郎をぺしゃんこにしてやる!】
【少し待て。ロゼの奴、先ほどから旋回と突撃を繰り返してくるばかりだ。どうも攻め方が単調過ぎる】
【こっちの出方を伺ってるってこと?】
【かもしれん】
アウロは確信を持てぬまま呟いた。
遅れて、ヘルム内に狂熱を押し殺したような青年の声が響く。
『どうした、アウロ。なにを出し惜しみしてる? どうせ君のことだ。奥の手の一つや二つはあるんだろ?』
「……ロゼ、お前こそ一体なにを隠しているんだ?」
『なんのことかな?』
「しらばっくれるな。奥の手を用意しているのはお前も同じだろう」
『戦いというのはある種の博打さ。優れた駒を用意し、それをいつ場に出すかで勝負が決まる。アウロ、君は賭け事の類が嫌いだったっけ』
「俺は賭博場より図書館の方が好きなんだ」
『君のそういうお高くとまったところは好きになれないな。……ああ、そうとも。君はいつもそうだった。どれだけ他の連中に罵倒されようとも、けなされ、後ろ指をさされようとも、決して誇りというものを失わなかった。「貴族の誇り」なんてもの、クソの役にも立たないっていうのに――』
アウロは淡々と吐き捨てられる台詞の中に、なにかドロドロと濁ったものが渦巻いているのを感じた。
が、その正体について思いを馳せる前に相手が動いた。ロゼは螺旋槍を水平に構え、再び突撃の姿勢を取った。
《エクリプス》の六翼から放たれる異様なプレッシャーに、アウロは全身を緊張させた。
【主殿、あいつ……】
【来るぞ。注意しろ】
短い警告。直後、敵機はアフターバーナーを噴かせて加速した。
ランスチャージだ。表面上は先ほどまでと同じ、考えなしの突撃に見える。
だが、アウロは一つの違和感に気付いた。通常、敵機の槍――〝スピレッタ〟は螺旋状の穂先に沿って風を放出している。それが今では逆方向に、つまりは槍の穂の内部に向けて空気を巻き込んでいる。
不吉な予感がした。アウロは半ば反射的に左ペダルへと重心を移した。
遅れて、ロゼは右ガントレットを振りかぶった。唸る乱気流が螺旋の中で収束し、風の刃を作り出す。
圧縮、形成、研磨、装填。凝結した水分が雪のように煌めくのを見て、アウロはぞっと背筋を凍らせた。
――あれは、まずい。
あの一撃、まともに受ければこちらがやられる。
アウロは本能の叫び声に従い、全力でペダルを踏み抜いた。帆のように翼を立てた機体が失速降下を始める。
刹那、ロゼは〝スピレッタ〟を一閃させた。
『切り裂け、風刃!』
ごうっ、と空を斬る音がした。
研ぎ上げられた旋風が、虚空に見えざる断層を刻み込む。
《エクリプス》の螺旋槍から放たれた斬撃は、数十フィートの距離を一瞬で駆け抜けると、《ミネルヴァ》とその騎乗者に牙を剥いた。
アウロが理解したのは敵が攻撃をしたこと。自らが攻撃を受けたこと。
そして、敵の放った刃が自機の右腕甲を捉えたことだけだった。
――ざりっ!
鈍い破砕音と共に、装甲と筋繊維とが断ち切られる。
アウロはガンランスを掴んだ右腕甲が、手首の辺りから吹き飛ぶのを見た。
「な……!」
『どうだい、アウロ! 〝スピレッタ〟の切れ味は! 魔導兵装はあくまで魔導具の一種。人間の意志で出力をコントロールすることができる! 本来の用途から外れた宴会芸も、極めれば必殺の一撃になるって訳さ!』
アウロが怯んでいる隙に、敵機は下方から回り込んで《ミネルヴァ》の後方象限を陥れていた。
ランスの一撃が来る、と身構えたアウロだが、《エクリプス》は予想に反してシールドを構えた。放たれた破甲爆雷が補助尾翼に齧り付き、小規模な爆発を起こす。《ミネルヴァ》は尻を蹴り飛ばされたかのようにつんのめった。
【うきゃう!】
【く……補助尾翼をパージ。体勢を立て直す!】
がこん、とボルトの外れる音と共に損傷したパーツが切り離される。
補助尾翼はあくまで機体の安定性を増すためのもの。失ったところでそれほど機動力が下がるわけではない。
問題は尾翼に内蔵された〝ツインバレル〟0.8インチ砲が使えなくなってしまったことだ。既にガンランスを失い、収束砲も破壊されている以上、アウロに残された武器は予備のブレード一本だけだった。
『ふ、ふ、見事に満身創痍じゃないか。もう落ちる一歩手前ってとこか。……地上を這いずり回ってる連中と同じだな』
「なに?」
『気付いてないのか? 下を見ろよ、アウロ。面白い光景が広がってるぜ』
挑発じみた台詞だ。しかし、アウロはそれを無視することができなかった。
隙を見て眼下に視線をやると、果たして、前線では未だに塹壕を挟んで激しい攻防戦が繰り広げられていた。
だが、よく見ると戦場の後方――本陣のあたりから火の手が上がっている。どす黒く濁った煙が、まるで不吉な標のように霧のかかった空を侵していた。
【げっ、後ろの方で火が!】
【あの影、騎士甲冑だな。本陣が奇襲を受けたのか……】
突然の事態にも、アウロはそれほど驚きを感じていなかった。
一応、こうなることは予想済みだ。そのための布石も打っている。
とはいえ、不安とストレスに胃がささくれ立つような感覚だけは抑えきれなかった。
『どうも同盟軍の中から裏切り者が出たらしいね。所詮、急ごしらえの軍隊などこんなものさ。バカな夢想家どもには似合いの末路だ』
「もう勝ったつもりか。俺はまだ生きているし、下の人間だって剣を取って戦い続けているというのに」
『意味のない抵抗だよ。君だって本当は分かってたはずだろう? この戦力差でまともな戦いになるはずもない。……ああ、そうとも。なのに、どうして君は王家に剣を向けたんだ?』
「お前は今の王国に正義があるとでも思っているのか?」
『さぁね。ただ、彼らは力を持っている。騎士道物語に憧れるお貴族様みたく、くだらない妄言を吐いたりもしない』
「ロゼ。お前は俺の後ろに誰を見ている? ブレア・アクスフォードか? カラム・ブラッドレイか? それとも、シルヴィ――」
『黙れよ』
ふいに、通信機越しに響く声が一変する。
気取った余裕が失せ、ヴェールのように纏っていた嘲笑が消える。
アウロの挑発じみた口撃は、相手の逆鱗に触れてしまったらしい。
ロゼは槍を構え、乗機のヘッドを対敵へ向けた。アーマーの頭部にはめ込まれたバイザーが、鈍い光彩を宿したままアウロを見据えた。
『そろそろ清算の時間だよ。じゃあな、アウロ。君との戦いは楽しかったが……いい加減、おしまいにしよう!』
西へ傾きかけた太陽をその六翼で蝕みながら、日蝕は飛翔する。
【主殿、来るよ! これ以上は――!】
【落ち着け。奴の手札は場に出切った。次はこちらの番だ】
【よし! じゃあ、早速パージアタックを……!】
【その必要はない】
アウロは切り捨てるように言った。
ロゼの操縦技術は恐らく自分と同程度だろう。
だが、あの男は不完全だ。ブレアを見限り、主家と決別したようなことを言っていても――やはり自分の戦う理由に迷っている。シルヴィアに対する未練を断ち切れずにいる。
結局のところ、今のロゼはご主人様に放置されて拗ねている子犬と同じだ。
そんな中途半端な人間に、アウロ・ギネヴィウスは負けない。
(ロゼ、お前は理解していないんだ)
ブレア・アクスフォードの理想も、彼に与した男たちの覚悟や決意も。
実際に彼らと剣を交えた自分だからこそ、分かることがある。
あの日、王都の空でダグラス・キャスパリーグと交わした言葉は今も一字一句、胸の奥底に刻みつけられている。
もっとも、アウロとて彼らのやり方を肯定するつもりはない。彼らの方法は間違っていた。それは確かだ。
しかし、その理念を鼻で笑い、その生き様を無意味と断じることは――決して許せない。
「……カムリ」
アウロは深々と息をつき、告げた。
「行くぞ。あの馬鹿を教育してやる」
【で、でも、今のままじゃあ】
「《ミネルヴァ》は《エクリプス》に速さで劣っている。だから、これほど苦戦する。その一点さえ解決してしまえば、あれはそう難しい相手じゃない」
【けど、どうやってスピードレースで勝つつもり? それも装甲を切り離す以外の方法で……】
「手はあるさ」
そう、手はあるのだ。
アウロはおもむろに左腕甲とシールドとを繋ぐ供給管を切り離した。
敵機は三時の方角――つまり、武装の失われた自機の右方面より接近中。
高低差はほぼゼロ。しかし、速度には絶望的な隔たりがある。
加えて《エクリプス》は先ほどと同じく、螺旋槍の穂先に風を呑み込んでいた。今度こそ、あの不可視の刃で自らの未練とともども《ミネルヴァ》を両断するつもりだろう。
ここはもはや逃げ場のない袋小路だ。
正面から突っ込めば切り捨てられ、側面に逃げれば回り込まれる。
必要なのは一瞬の隙だ。アウロは左ガントレットを振りかぶると、そこに装着されていたシールドを迫る敵機めがけて投擲した。
『やはりそう来たか!』
しかし、ロゼの側に動揺はない。
相手は迫るアダマント鋼の塊を、槍の一閃で切り捨てた。
途端、風の刃に断たれた盾がザクロのように弾けた。四散したのはシールドに内蔵されていた収束砲の機械部品だ。
その予想外の出来事のため、ロゼはほんのわずか、一秒に満たない時間だけ怯んだ。空戦では十分過ぎるほどの間隙。その好機を逃さず、アウロは《ミネルヴァ》を急降下させた。
恐らく、ロゼの目には敵機が消えたように見えたことだろう。
《エクリプス》の腹下に潜り込んだ《ミネルヴァ》は、地表付近まで高度を落とすと、獲得した運動エネルギーを推力に変え、一気に高度15000フィートの上空へと羽ばたいた。
が、それでも《エクリプス》の尾を捉えることはできない。アウロとてそこまでは望んでいない。
今、重要なのはとにかく地表から遠ざかることだ。
緑甲の機竜をかわした《ミネルヴァ》は、そのままぐんぐんと空を駆け上がる。
アウロは急上昇によるGのせいで、上半身の血液が両足に集まるのを感じた。自分の体が泥で満たされていくような、不気味な喪失感。バイザー越しの視界が徐々に狭まり始める。
その、狭まった視界の向こうで太陽が輝いている。
白い隻眼が興味深そうにアウロを見下ろしている。
ここは高度25000フィート。どこまでも静かな空間だ。
地上の喧騒など、天の頂にはまるで届かない。
【ちょ、ちょっと、主殿。こんな上の方まで来てどうするつもり?】
『……なにをする気だ、アウロ』
ふいに静謐を破り、異口同音の声が響く。
虚空の中、アウロは雲上を滑る《エクリプス》へと視線を落とした。
相手は未だ高度15000フィート付近を彷徨っている。遥か彼方。こうして見るとひどくちっぽけな存在だ。獲物を探す猛禽の気分とはこういうものか、とアウロは思った。
条件は整った。既に速度計はゼロを指し示している。
後は、溜め込んだ位置エネルギーを速度に変換するだけ。
例え敵に機動力で劣っていようとも、瞬間的なスピードで上回ってしまえば勝機は見える。
その事実を教えてくれたのは師でもなければ同僚、仲間でもない。一度は矛を交え、憎悪をぶつけ合った宿敵だ。
アウロは目を閉じ、深呼吸をして息を整えた。
そして、腰から漆黒のブレードを抜き放った。
「行くぞ、ロゼ。お前に答えをくれてやる。高度25000フィートから振り下ろされる黒鉄の刃! その身で噛みしめるがいい!」
直後、戦女神の名を冠した機竜は空中で反転すると、地表めがけて垂直降下した。
――今日に至るまで音の壁を突破した機甲竜騎士はいない。
と、言うには少し語弊がある。
厳密には、水平飛行で音速を突破した『超音速機竜』が開発されていないだけで、骸装機の機動力をもってすれば急降下中、瞬間的に音の壁を突き破ることはそう難しくなかった。
実際、アウロも何度かその光景を目の当たりにしている。
曇天の空、微茫の月を背に失墜する漆黒の影。
あの時に感じたおぞましさは、今もはっきりと思い出すことができる。
(……だが)
あの時『狂っている』と思った領域に、今度は自分が足を踏み入れる番だ。
アウロは潜水するかの如く息を吸い込むと、ペダルを踏み込み、《ミネルヴァ》のヘッドを真下へ向けた。
たちまち、重力に手招きされた機体が急降下を始める。全身が浮かび上がる異様な感覚。本能が反射的に手綱を手繰ろうとする。
「く……」
それでも、
アウロは全身の筋肉を緊縮させ、奥歯を食いしばって恐怖に堪えた。
しかし、彼のパートナーはこの暴挙に耐え切れなかった。
【え、ちょ、ちょっと! 主殿、この動きってまさか!】
【お前の想像通りだ。カムリ、推力を全開にしてくれ】
【駄目だよ! あ、あんな無茶なことをしたら主殿が死んじゃう!】
【死なんさ。約束する。だから、お前も俺を信じろ】
【信じてるよ! でも……!】
【『でも』はなしだ】
【……うう!】
口ごもったカムリは、とうとう【主殿のばかぁー!】とやけくそ気味に叫ぶと、翼をはためかせて機体を加速させた。
速度計の表示がみるみる跳ね上がる。アウロは高度20000フィートを越えたところで、ぴしゃりとハーネスを打った。
アフターバーナー全開。背後で破滅的な噴出音が轟き、眼球に集中した血液が一瞬で視界を真っ赤に染め上げた。
『加速した……!? まさか、直接来るつもりか!』
こちらの思惑を読んだのか、慌てて旋回機動に移るロゼ。
とはいえ、その動きはあまりに遅い。この時点で既に《ミネルヴァ》の速度は《エクリプス》の機動力を凌駕していた。
だが、真に重要なのはここからだ。
アウロは眼下の敵を見定めたまま、ハーネスの前につき出た操縦桿を掴んだ。
レバーを倒し、可変翼を折り畳む。《ミネルヴァ》は隼のように身を窄めた。
更に加速。速度計の値がとうとう660ノットを振り切る。
直後、視界が真っ白な蒸気に覆われた。
次いで音が消えた。静寂の中、自らの息遣いすら後方に吹き散らされる。
そこは不思議な空間だった。まるで自分の体が空に溶け、世界と一体化してしまったかのよう。
ただ、奇妙な白昼夢に浸っていたのも一瞬のことだ。刹那の後、微睡みから醒めるように視界が弾け、《ミネルヴァ》は蒸気円錐を纏いながら音の壁を突き抜けた。
――バーティカル・ファルコン。
超音速の垂直降下で敵機を攻撃する近接格闘機動術。
【モーンの怪猫】ダグラス・キャスパリーグが得意とした、必殺の空戦機動だ。
『正気か……!?』
流星と化して迫る敵を前に、ロゼ・ブラッドレイは絶句した。
それでも、彼は我を忘れることはなかった。
青年は一瞬で自己を取り戻すと、脇目もふらずハーネスを捌き、アフターバーナーを全開にし、《ミネルヴァ》の降下軌道から逃れようとした。
その判断はある意味正解だった。超音速の機動の中、機体の制御に気を取られていたアウロは、旋回しながら逃げる《エクリプス》を捉えそこねてしまった。
すれ違った両機が空に十字架を描く。
至近距離で裂かれた空気が不協和音を響かせる。
地鳴りじみた振動の中、ロゼは下方へ消えていく錆色の影を見た。
『かわした! ……貰ったぞ!』
勝利の確信とともに槍を振りかざすロゼ。
だが、その直後。《エクリプス》のウィングがぐにゃりとたわんだ。
――超音速で飛行する物体は、その周囲に円錐状の衝撃波を発生させる。
この衝撃波が減衰し、音波へ変わったのがソニックブームだ。
が、《エクリプス》に襲い掛かったのはその減衰する前の圧力波だった。すなわち物理的破壊力を伴った見えざる波動だ。
この、超音速による造波抵抗は旋回中の骸装機を容赦なく飲み込み、その左ウィングを根本から食いちぎった。《エクリプス》唯一の弱点――装甲の脆弱さが仇となった形だ。
『な……翼が!?』
ぐらりと傾く愛機の背で、ロゼは思わずパニックに陥った。
あいにく、彼はアウロほど航空力学に詳しくない。だから自らの身を襲った現象について理解することも、推論を立てることもできなかった。
――一体、何が起きたのか。訳が分からない。
空でこの感覚に囚われてしまったら、機竜乗りとしてはおしまいだ。
アウロは敵機が混乱している隙に、ハーネスを手繰ってヘッドを引き起こし、Vの字を描くようにして《ミネルヴァ》を急上昇させた。
「ぐあっ……!」
途端、体の中から、ばきばきと、みしみしと、ぶちぶちと。
肉叩きでミンチを作る時さながらの音が断続的に響く。
急激な戦闘機動によって全身の骨が軋み、筋肉が千切れ、内臓が破裂しているのだ。致命的なダメージに一瞬、頭の中が真っ白に染まりかける。
【主殿!】
が、少女の声が危ういところで思考を断崖絶壁から引き戻した。
一つ、息を吸う。視界は既に真っ赤だ。けばけばしいレッドスクリーンの中に、エメラルドグリーンの星が浮かび上がって見える。
敵は、動いていない。いや、動けない。
四枚の主翼の内、左側面の一枚が脱落し、もう一枚も折れ曲がってしまっている。
ウィングは機動の要。それを失ってはいくら最速の骸装機といえど案山子と同じだ。
そして、バーティカル・ファルコンの機動は急降下だけで終わりではない。
降下によって得た運動エネルギー。これを高度に変換。
アウロは痛む体を鞭打ち、再び下方から敵機に強襲を仕掛けた。
「お、おおおぉぉぉぉっ!」
血反吐とともに溢れる咆哮。
機体後方から真紅のアフターバーナーを噴かせながら、アウロは最速の機竜めがけて超音速の一撃を叩き込んだ。
――ガギッ!
ブレード越しに伝わる確かな手応え。
風を纏った魔槍が、節くれだった腕甲ごと切り捨てられる。
『く、よくも……!』
槍を失ったロゼは、体勢を崩しつつも破甲爆雷を放った。
が、既に《ミネルヴァ》は遥か彼方へ消えている。被弾はしていない――にも関わらず、アウロは瀕死同然だった。
元々、『バーティカル・ファルコン』は人外じみた身体能力の持ち主だけが扱える空戦機動だ。無謀な賭けの代償は確実に当人の体を蝕んでいた。
(だが……)
幸い、騎士甲冑を動かすのに筋力は必要ない。
重要なのは戦うという意志だ。血を吐こうが骨が折れようが、この心が砕けない限りアウロは剣を振るい続けることができる。
『っ……こんな! こんな、無茶苦茶な機動法! 狂ったのか、君は! 一体、何をそこまで……!』
青年の喚きはアウロだけでなく、世界の全てに向けられているかのようだ。
シールドを捨て、ブレードを抜き放つロゼ。
対するアウロはなにも答えなかった。
ただ、機体を旋回させて緑甲の機竜に肉薄した。
言葉はいらない。振り上げた刃に全ての回答がある。
アウロは一人、空に取り残された男に告げた。
「お前の負けだ、ロゼ」
一閃。
二本の刃がまるで鏡写しのようにかち合う。
しかし、勝敗は明白だった。アウロの振り抜いた黒剣は、ミスリル製の刀身を砕き、野太い腕甲をフレームごと粉砕し、《エクリプス》の青磁色のボディを薄板のように断ち切った。
アウロのブレードは魔剣。ダグラスから受け継いだ〝エスメラルダ〟である。
最後は、単純な武器の性能差がお互いの命運を分けた。
『く……ぅ!』
ぐらり、とバランスを崩す敵機。
ウィングを引きちぎられ、両腕甲を失い、ボディを刻まれた《エクリプス》は完全に飛行能力を失っていた。
『と、届かないか。やはり強いな、君は。けれど、これでようやく……』
なにかを言いかけ、しかし、結局は言葉にすることができず。
ロゼ・ブラッドレイは己の愛機と共に大地へと沈んでいく。
アウロは霞みかけた目で《エクリプス》の最後を見届けた。
「――撃墜確認」
呟いた途端、再び咥内から血が溢れ出る。
同時に、思考回路がぶつぶつと音を立てて断絶した。
アウロの肉体はもはや限界に達していた。バーティカル・ファルコンとその後の急旋回で肺がパンク。先ほどから食道がポンプのように鮮血を汲み上げている。
また鎖骨が折れ、血管もところどころが破裂しているらしい。急激な出血で体が冷え込んでくる気配には覚えがあった。今、左腕に握っている剣に肩を貫かれた時と同じだ。
【や、やったよ、主殿! でも……!】
不安そうな声を寄越してくるカムリに、アウロは言った。
【すまん、カムリ。後は任せた】
【ちょ、主殿!?】
視界が暗転し、意識が消失する。
少女の悲鳴を最後に、アウロの視界はブラックアウトした。




