3-21
アウロは一念発起すると、すぐさま作戦行動を開始した。
攻略目標はガルバリオンの娘アルカーシャ。既にターゲットの居場所は確認済みだ。
彼女は現在、ブランドル家本邸内の客室に滞在中。心身ともに衰弱状態に置かれているらしい。
計画の第二段階はアルカーシャを励まし、立ち直らせることだ。が、これに関してはアウロも全く自信が持てなかった。
元々、自分は心理カウンセラーではないし、対人コミュニケーション能力も貧弱だ。例えるなら、砲身の錆びついた0.3インチ機関砲。厳しい空戦を勝ち抜くにははなはだ心許ない武装だった。
――ともあれ、今は手持ちの装備でやりくりするしかない。
などと考えつつ通路の角を曲がると、そこで知り合いとぱったり顔を合わせた。
立ち止まり、幾度か目を瞬かせたのは、ふわふわした栗色の髪を持つ少女だ。ランドルフ家の令嬢クリスティアである。
「あれ、アウロさん?」
この日の彼女はクリーム色のインナースーツではなく、絹のチュニックに身を包んでいた。
肩からは防寒用の上衣も羽織っている。おかげで幾分か貴族の娘らしく見えた。
「クリスティア嬢か。久しぶりだな」
「一週間ぶりですね。あの戦いの後、顔を合わせてませんでしたから。あっ、それと私のことはクリスでいいですよ」
「分かった、クリス」
アウロは頷き、少女の顔色を窺った。
水気を失った唇。肌はかさつき、目の下にも黒いものができている。疲れの滲んだ表情だ。
「もしや、アルカーシャのところに?」
「はい。アルカのことが心配ですし」
「そうか。しかし、あなたの方こそ今の状況を不安に思っていないのか?」
「不安なのは確かですよ。ただ、嘆いたところでなにも変わりません」
クリスティアは力なく微笑んだ。
彼女の置かれている境遇は複雑だった。
前回、諸侯会議に参加していたランドルフ家のカーシェンは、開戦の報が広がるなり早々に中立を宣言してしまっている。
が、娘の方は関係ありません、という訳にはいかない。なにしろ、モンマス上空でヴェスター・ガーランドに攻撃を仕掛けてしまったからだ。
もしカーシェンがクリスティアを庇えば、ランドルフ家自体が同盟に参加する運びとなっていたかもしれない。
しかし、実際はそうならなかった。【盾の侯爵】はクリスティアを勘当し、モンマスでの一件は娘の独断――という形で決着をつけてしまったのだ。
要はトカゲのしっぽ切りである。貴族の社会では珍しくもない。
「まぁ、父さんに見捨てられたことはショックといえばショックでしたが……」
クリスティアは虚空に視線をさまよわせ、
「あの人、グロスターを出る前に言ってたんです。ひょっとしたら、私を娘と呼べなくなるかもしれない。その時は自分を恨んでくれていいって」
「カーシェン殿はこうなることを予想していたと?」
「多分……。だからこそ、私を使者に選んだんだと思います。いざという時に見捨てても困らないように」
「だが、見捨てられる方としてはたまったものじゃないだろう」
「それは当然です。今度、父さんに会うことがあったらしばき倒してやります」
ぐっと拳を握りしめるクリスティア。なかなか肝の座った娘である。
「ただ、アウロさんは私よりもアルカのことを心配してあげて下さい。あの子、なんだかとても危ない感じなんです」
「危ない感じ? 具体的にはどういう状態なんだ?」
「それはアウロさんが直接確認すべきだと思います。確か、まだアルカの部屋に行ってないんですよね」
「ああ、今から訪ねようと思っていた」
我ながら言い訳じみた台詞である。
が、クリスティアは「お願いしますね」とだけ言い残し、アウロの前から立ち去ってしまった。
とぼとぼ歩くその後ろ姿は、見た目以上に小さく見える。気丈に振る舞っていても、精神面での疲れが出ているのだろう。
(彼女もこれからどうなることやら……)
今の諸侯同盟にとって、クリスティアは単なる客人に過ぎない。
ランドルフ家との縁が切れた以上、彼女自身の価値もほとんどなく、できることといえばアルカーシャの話し相手くらい。
唯一の救いは乗機である《ブリリアント》が飛行場に残っていることだった。パイロットの固定されやすい骸装機には、搭乗者の生体データを認証するシステムが組み込まれている。つまり同盟内で《ブリリアント》を動かせるのは、クリスティア一人のみということだ。
そこでアウロはふと気付いた。
カーシェン・ランドルフはこの展開を見越して、娘に貴重な骸装機を預けたのかもしれない。彼女自身が価値のない役立たずにならないように。せめてもの親心として。
――ともあれ。
今はアルカーシャの問題を解決する方が先だ。
アウロは少女の姿が消えた後で、通路の反対方向へと歩き出した。
現在、モンマスから逃れた兵士たちの大半はこのブリストルに滞在している。
といっても半農半兵の民兵や金銭目的の傭兵たちはほぼ離散し、残っているのは爵位持ちやその血族、家臣ばかり。
数も千程度と寡兵だが、戦力的には軽視できない。なにしろ、彼らはガーランド家の保有していた騎士甲冑や機甲竜をそのまま運用しているのだ。
ただ、流石に四侯爵のブランドル家といえど、全ての人々に屋根付きのゲストハウスを提供することはできなかった。
貴族の半分近くは空きの邸宅や別荘に放り込まれたものの、もう半分は仮設された天幕での暮らしを強いられていた。
一方、アルカーシャにはブランドル家の本邸にある客室が割り当てられている。これはアウロや他の大貴族たちも同様だ。
「アルカーシャ、いるか? 俺だ」
アウロは目的地に辿り着いたところで樫の扉をノックした。
すぐに中から「アウロ?」と返事がくる。思っていたより元気そうな声だった。
「少し話したいことがあるんだ。中に入ってもいいかな」
「あ、うん。いいよ。大丈夫」
無事にお許しも出たところで、アウロは扉を押し開けた。
外は既に夕暮れ時。半開きの窓から降り注ぐ斜光が、四角いクッションを敷いたソファと、傷ついた木製の作業台を照らしている。
まるで病室のような雰囲気の中、アルカーシャは壁際のベッドに両膝を揃えて腰掛けていた。
薄手のチュニックの上からごつい革のベルトを巻いた格好だ。普段、紅色の髪を留めているバレッタはマットレスに置かれている。
その代わり、少女は片手に物騒な代物を握りしめていた。
アウロは最初、それがなんだか分からなかった。だが、夕闇に目を凝らす内にふと気付く。
アルカーシャが持っているのは、柄と刃が一体になったような形状のナイフ――いや、カミソリだった。
「おい、アルカ……」
「怖い顔するなよ。別に自分の手首をかっ切ろうとしてる訳じゃない」
アルカーシャはカミソリの刃を指で挟むと、柄の方をアウロに差し出した。
「髪を切りたかったんだ。でも、自分一人じゃ上手くできなくてさ。悪いけど手伝ってくれ」
「クリスに頼めばいいだろう。さっきまでここにいたんじゃないのか?」
「頼んだけど断られた。綺麗な髪なんだから切るのはもったいないって」
「……そもそも、何故急に髪を切ろうだなんて思ったんだ」
後ろ手に扉を閉めたアウロは、ひとまず幼馴染の手からカミソリを取り上げる。
「何故って、もちろん邪魔だからだよ」
アルカーシャは美しい紅茶色のロングヘアにそっと手をやった。
その隙に、アウロは作業台の上に置かれた魔導式ランプを点灯する。
――パチン。
たちまち、水晶型の照明装置が室内を明るく照らした。
白く浮かび上がった少女の横顔は、以前とさほど変わりないように見えた。
少なくとも目元に涙の跡はないし、寝不足に悩まされている様子もなさそうだ。顔色も良く、見た目は健康そのものだった。
しかし、淀んだ瞳にかつての溌剌さはない。あれは怒りと憎しみに囚われた人間の眼だ。かつての純粋な眼差しが、土足で踏みにじられたように濁ってしまっている。
(クリスが言っていたのはこういうことか……)
確かに、今のアルカーシャは危うい。
彼女は崩れ落ちるギリギリのところで、憎悪を支えに踏みとどまっているのだ。
アルカーシャはベッドから立ち上がると、二人がけのソファにすとんと腰を降ろした。しかし、羽毛入りのクッションはほとんど変形していない。ちゃんと食事を取っているのだろうか、とアウロは不安に思った。
「別に、髪を切ろうと思ったのは昨日今日のことじゃない。元々、短い方が楽なんだ。動きやすいし手入れにも時間がかからないし」
「なら、どうして伸ばしていたんだ?」
「母さんがせめて髪型くらいは女の子らしくしなさい、って言ってたから。でも、その母さんも死んでしまった。だったら、髪を伸ばす必要もないと思って」
「……アルカ」
「もう決めたんだよ」とアルカーシャは固い声で言った。
「私は必ず父上と母さんの仇を取る。いまさら、『女らしさ』なんてのに時間を割いてる余裕はないんだ」
「その考えは危険だぞ。復讐を果たした時、お前の中にはなにも残らなくなってしまう」
「……アウロ、お前もクリスみたいに反対するのか?」
「いや――反対はしない」
アウロはためらいつつも首を横に振った。
アウロにもアルカーシャの気持ちはよく分かった。
なにしろ彼自身、モグホースに両親を殺されている。ここで頭ごなしに否定したところで、相手を意固地にさせるだけだろう。
復讐心というのは燃え上がる炎のようなものだ。その火勢を鎮めるにはまだまだ時間が必要なはずだった。
「それにリアノンさんが死んだ原因の一端は俺にもある。反対できる立場でもない」
「それは違うよ。悪いのはヴェスターだ。アウロじゃない」
「だが俺があの瞬間、アルカたちの命を守ることより、ヴェスターを倒すことを優先したのは事実だ」
「……ええと、まさかと思うけどさ。今までずっと姿を見せないと思ったら、そんなことを気にしてたのか?」
「多少は」
と誤魔化すような台詞を口にした後、アウロは数秒目を閉じ、それから再び言葉を続けた。
「いや、正直に言おう。お前に会うのが怖かった。だからここに来るのを避けていたんだ」
「ばかだな。別に怒ったりなじったりするつもりなんてないよ。そんなのどう考えてもお門違いだろ。大体、アウロが来てくれなければ私たちはヴェスターの奴にとっ捕まってたんだし」
「それはそうかもしれんが……」
「そういえば、ちゃんとお礼を言ってなかったな。――ありがとう、アウロ。お前のおかげで助かったよ」
アルカーシャはふわりと微笑んだ。
その屈託のない笑みに、アウロは思わずたじろぎかけてしまう。
(……あの小さな娘が強くなったものだ)
アウロが初めて彼女と出会ったのはもう五年――いや、六年以上前のことだ。
おかげでアルカーシャに対しては、未だに両親や自分にべったりな少女というイメージが強かった。
しかし、いつの間にか彼女も自分一人の足で立てるようになっている。アルカーシャの心は打ちのめされ、憎悪に染まっても、醜く歪んではいなかった。彼女は己の身を襲う災厄に、歯を食いしばって立ち向かおうとしている。
「で、アウロ。いつまでカミソリを持ったまま突っ立ってるつもりだ? そのままだと誰か来た時、妙な勘違いをされそうだぞ」
「それもそうだな」
流石にこれ以上の厄介事はごめんだ。アウロは頷き、少女の背に回った。
「アルカ、髪に触っても?」
「いいよ。そうしないと切れないだろ」
アルカーシャは目を閉じ、ソファの背もたれに体を預けた。
ぎしり、と音を立てて木枠が軋む。まつ毛を伏せ、膝の上で拳を握り、緊張気味に息を詰めた少女の姿は、まるで精巧な蝋人形のようだった。
静寂の中、アウロは手を伸ばして艶やかな髪をかき上げた。アルカーシャの頭髪は一本一本が細くてしなやかだった。枝毛もなく、入念に手入れされていることが窺える。
「綺麗な髪だな。クリスが惜しむのも無理はない」
アウロは髪の房に指を滑らせた。さらさらと心地よいビロードの肌触り。
たまらず、アルカーシャはくすぐったそうにみじろぎした。
「あの、そういう風に髪を撫でられると……恥ずかしいんですけど」
「すまない。つい夢中になってしまった」
「女の髪なんて触っててなにが楽しいんだよ。それとも、アウロくんは髪の毛に欲情する変態なの?」
「かもしれないな。こうでもないとお前の体にじっくり触れる機会がないし」
「ばか」
少女はぶっきらぼうに言った。その首筋はわずかに赤く染まっている。
(……そういえば)
アウロはふと思い出す。
この国において、自分以外の人間に髪を触れさせる行為は、ある種の特別な意味を持つのだ。
相手が血縁者、もしくはよほど親しい間柄の人間でもない限り、他人に髪を切らせることなどまずありえない。
男女の関係に落とし込めば、それはもう完全な恋人同士である。アウロはここ数年、ずっと自分で髪を切っていたためすっかりこの慣習を忘れていた。
「で、アルカ。髪を短くするといってもどれくらいまで切るつもりなんだ?」
慌てて尋ねると、アルカーシャは「え、えっと」と震える指先でおとがいをなぞり、
「じゃあ、長さはお前に任せるよ。適当に短くしてくれ」
「分かった。なら、俺の好きなようにさせてもらう」
アウロは少女の髪へとカミソリを押し当てた。
首筋を傷つけないよう、慎重に刃を引き、腰まで伸びた髪をばっさり切り落とす。
それから、短く持ち直したカミソリで全体の形を綺麗に整えてやる。沈黙の中、かすかに髪の毛のこすれる音だけが響いた。
「なぁ、アウロ」
整髪の途中で、アルカーシャはふと口を開いた。
「実はもう一つ、お前に協力して欲しいことがあるんだ」
「協力? なんだ?」
アウロは手を休めることなく尋ね返す。
アルカーシャは板張りの床を、そこに積もっていく自らの髪をじっと見つめながら言った。
「私は父上と母さんの仇討ちをしようと思っている。そのためにお前の力も借りたい」
「仇討ち、か。なら、丁度良かったのかもしれないな」
「どういう意味だ?」
「もう知っているかもしれないが、先ほどブランドル家とガーランド家を中心とする諸侯の間で同盟が結ばれた。王家と戦い、これを打倒するためにな。ちなみに盟主はルシウスだ」
「ルシウス兄さんが? ……ああ、その方が都合がいいのか」
と勝手に納得するアルカーシャ。こちらはルシウスよりも理解が早い。
「それと――同盟内ではお前を盟主補佐の座に着けようという動きも出ている」
「つまり、父上の代わりってこと? 私にその役目が務まるかな」
「それは実際にやってみなくては分からない。ただ、なにかを成す前から諦めるのは賢者ではなく愚者の行いだ。……俺も最近気付いたんだがな」
「私は愚か者になりたくない」
「なら、答えは一つだ」
そう告げて、アウロは少女の首元から刃を離した。
アルカーシャは肩にかかった毛を払い落とすと、うなじに手を回して襟足の長さを確認した。
淡い紅茶色の髪は丁度、鎖骨の辺りで切りそろえられている。全体的にはボブカットに近い形だ。
「まだ結構長いな。もっと短くしてくれても良かったのに」
「俺に任せると言ったのはお前だろ?」
「まぁね。でも、そっか。アウロくんはこういう髪型の女の子が好きなの?」
「いや、それくらいの長さがお前に一番よく似合っていると思っただけだ」
「あ、そう……。あ、ありがとう」
アルカーシャはもごもごと礼を言った。
一応、表面上は平静を装っているつもりらしい。が、短くなった髪から覗く耳たぶは真っ赤に染まっていた。
「え、ええと、それで、とりあえずさっきの話の続きだ」
アルカーシャはシャギーのかかった毛先に手を伸ばした。
彼女はなにか物事を考える時、髪をくるくるする癖がある。
が、散髪によって短くなった毛を上手く絡め取ることができず、指先は空を切るばかりだ。アルカーシャはむっと眉を寄せると、諦めの吐息とともに組んだ両手を膝の上に乗せた。
「今の王家を倒さなくっちゃいけないってのは私にも分かる。私にできることがあるなら協力を惜しむつもりもない」
「お前の仇討ちの対象にはマルゴンも含まれるのか?」
「あの人のことはどうでもいいよ。モグホースの言いなりになってるだけだしな。私が復讐をしたいのは三人だけだ」
アウロは尋ねた。「具体的には?」
アルカーシャは立ち上がると、先ほどと同じくベッドに腰を降ろした。
白い手指が放置してあった銀のバレッタをすくい取る。彼女は精緻な装飾の施されたそれを大切そうに一撫でした。
「父上を裏切ったモーディア・ガーランド、母上を殺したヴェスター・ガーランド――この親子は絶対に生かしておけない。それから父上を討ったガーグラーも、できれば私自身の手で決着をつけたい」
「前二人はともかくガーグラーを倒すのは難しいな。俺は奴と同じ『凶眼』の持ち主と何度か戦ったことがある」
「ダグラス・キャスパリーグ。【モーンの怪猫】だっけ?」
「そうだ。恐らく、ガーグラーはダグラスよりも強い。なにしろ、あのガルバリオンを真っ向から撃破するほどだ。この国で最強の機竜乗りと言っても過言ではないだろう」
王国最強――今までこの二つ名はガルバリオンのものだった。
しかし、あの男は敗れ、ガーグラーがその称号を受け継いだ。いや、奪いとったと言うべきか。
「難しくてもやるんだ。ついさっきお前だって言ってたじゃないか。『なにかを成す前から諦めるのは賢者ではなく愚者の行いだ』って」
「……そうだな」
自らを真っ直ぐ見つめてくる真紅の瞳。
その揺るぎない決意を前に、アウロはふっと肩の力を抜いた。
「アルカ、俺もお前の仇討ちを手伝おう。ガルバリオンとリアノンさんは俺にとっても恩人だ。ガーグラーはともかく、モーディアとヴェスターの親子は地獄に突き落としてやらねば気が済まない」
「ありがとう、アウロ。……正直に言うと、お前が私のそばにいてくれて涙が出るほど嬉しいよ」
「泣いても構わないさ。一度、思いっきり泣いた方がすっきりするだろう」
「枕を濡らすのは仇討ちを終えた後でいい。今、せき止めているものを溢れさせたら、自分が自分でなくなってしまいそうな気がするんだ」
アルカーシャは一転して硬い表情を浮かべると、バレッタの留め具を外し、短く切られたうしろ髪を一房まとめて留めた。銀盤に刻まれた竜のレリーフが夕日を浴びてきらりと輝いた。
「髪を短くしたのに、髪留めはつけたままなのか」
「……これは十五の時、母さんがくれた贈り物だから」
顔を俯かせる少女を見て、アウロはしまったなと思った。
彼女の故郷であるモンマスはモーディア・ガーランドに奪われ、領主の屋敷も裏切り者たちの手に落ちてしまったはずだ。
ガルバリオンとリアノンの遺品もどのような末路を辿ったかは分からない。今の彼女にとって、この小さな髪飾りが唯一の形見なのだろう。
「アウロ、ちょっとこっちに来てくれないか?」
かける言葉も見当たらず立ち尽くすアウロを、アルカーシャは小声で招いた。
アウロは「ああ」と頷いた。そうしてベッドの前に足を運ぶと、アルカーシャは自らの隣にぽんぽんと手をやる。
座れ、ということだろう。アウロは大人しく従った。
二人分の体重を受け止めたベッドが、ぎしりと不満そうな軋みを上げる。
「なぁ、お前はこれからどうするつもりなんだ?」
アルカーシャは自らの手元を見つめたまま尋ねた。
「領地に戻るのか? 戦争の準備をするために……」
「一応そのつもりだ」
「私もついて行っちゃまずいかな」
不安そうな顔を見せる少女に、思わず理性が揺らぎそうになる。
それでも、アウロは心を鬼にして言った。
「まずいだろう。今はガーランド家の残党も纏まっていない状態だ。旗頭であるお前がここを離れるのは望ましくない」
「そっか。やっぱりそうだよな」
「その代わり、俺もできるだけこちらへ顔を見せるよ。どのみち、同盟内で話し合いがある時はそれに参加する必要があるんだ」
「……うん。お願い。なんだか一人でいると心細いんだ。嫌なことばかり考えてしまう」
ぽふっ、とアルカーシャはアウロの肩にもたれかかった。
薄い生地越しに伝わる少女の体温。短くなった髪先が、羽箒のようにアウロの首筋をくすぐる。
「アウロ、私の傍からいなくならないで。お前までいなくなったら――多分、私は耐えられない」
「……大丈夫。俺は死んだりしないよ」
アウロは寄り添った少女の腰に手を回し、軽く抱きしめた。
柔らかな肉の感触。ピンク色に色付いた肌からは、ほのかに甘い香りがする。未踏地に咲く野花のような、ひどく蠱惑的な匂い。
アウロの知らぬ間に、幼馴染の体はすっかり女性らしく成長しているようだった。
考えてみれば当然だ。アルカーシャも今年で十七歳。もう結婚していてもおかしくない年齢である。
それどころか、子供を作っていても――
(……待て待て)
思考が危うい方向に行きかけているのを感じ、アウロは冷や汗をかいた。
と同時に軽いショックを受ける。アウロにとってアルカーシャは妹のような存在であり、『そういう』対象として見たことは一度もなかった。この程度で揺らぐ自らの自制心が、どこか節操なしの裏切り者のように思えた。
「アウロ、なんだかどきどきしてるな」
が、そこでアルカーシャは追い打ちをかけるようにアウロの左腕を手にとった。
否応なしに加速する鼓動。二の腕に辺りに柔らかな双丘を押し付けられ、アウロはごくりと息を呑む。
ただ、心音が跳ね上がっているのはアルカーシャの側も同じだ。胸の膨らみ越しにせわしないビートが刻まれているのを感じる。少女の耳たぶからうなじにかけてのラインは、リンゴのように赤く染まっていた。
「アルカ、お前も緊張しているみたいだが」
「そ、そうかも」
アルカーシャは震える声でそう言ったきり、黙りこんでしまった。
沈黙の中、お互いの心拍だけが肌越しに感じられる。
アウロは急速に思考力が鈍るのを感じた。温かい夕陽に包まれ、理性が飴細工のように溶かされていく。
気付けば、アルカーシャの赤い瞳がじっとアウロの横顔を覗きこんでいた。視線を逸らすことはできない。どこまでも広がる紅玉に、意識ごと吸い込まれてしまいそうだ。
(まず……い……)
アウロは誘われるように、少女の頬へと手をやった。
滑らかな肌。その感触がじわじわと脳に侵蝕する。ブレーキが利かない。邪な衝動が意識を支配する。
「…………」
アルカーシャは頬に当てられた手の平に自らの右手を重ねた。
やがて、二人の間を隔てる距離がゼロに近付き――
――トントン。
その直後、乾いた音が甘い空気を打ち破った。
扉がノックされたのだ。アルカーシャはびくっと全身を硬直させると、野良猫のように素早い動きでアウロの傍を離れた。
「アルカ、今大丈夫かい?」
ドア越しに響く青年の声。ルシウスが訪ねてきたらしい。
アルカーシャは慌てて乱れた髪を整え、ベッドから立ち上がった。
「る、ルシウス兄さん?」
「そっちにアウロが来てないかな。三人で話したいことがあるんだけど」
「あ、うん。いるよ。中にいる」
「……入っても大丈夫?」
アルカーシャは咳払いした後で言った。「もちろん」
少し間を置いて、ルシウスは遠慮がちに扉を押し開けた。
が、一歩室内に足を踏み入れたところで立ち止まる。
赤みがかった瞳はベッドに座るアウロ――ではなく、その隣にできたマットレスの窪みへと向けられていた。
「これは失礼。お楽しみ中だったのかい?」
「まぁな」
苦笑交じりに答えるアウロ。
途端、アルカーシャは火がついたように顔を赤くした。
「ばか! なに言ってるんだよ!」
「落ち着け、アルカ。なにもいかがわしいことをしていた訳ではないだろう」
すぐさま冷静さを取り戻すアウロに、ルシウスは尋ねた。
「じゃあ、なにをしてたのさ?」
「別に。ただ親睦を深めていただけだよ」
「ベッドの上で?」
「女性と仲良くなるにはそれが一番だろう?」
機竜乗りらしい下品なジョークだ。
アルカーシャはきっとアウロを睨みつけると、肩を怒らせたまま部屋を飛び出してしまった。
ばたん! と閉じられた扉が耳障りな音を立てる。ルシウスは小さくため息をこぼした後で、アウロに向き直った。
「アウロ、君は機竜の操縦はうまいけど淑女と付き合うのは下手くそだな」
「……知ってるよ」
アウロはベッドに座ったまま天井を仰ぐ。
握りしめた手の平には、まだほのかに少女の体温が残っていた。




