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祈りの果てに ― 無限の箱庭で笑う者 ―  作者: 酒の飲めない飲んだくれ
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第85話:雲の裂け目に立つ者


 甲板の上には、まだ儀式の後が残っている。

 風は穏やかで、大砲についた雫が光っていた。

 大騒ぎの後とは思えない静けさだった。


 リシアンが運ばれてきた地図を前に話し出す。


 「……王都は試練派の支配下に落ちました。

  残った慈悲派は兵と民を連れて北の山岳に逃げ込むはずです」


 リュリシアはその言葉に俯く。


 「リシアン様、そこの守りはどれほどですか?」

 「我々の陣営でも最も堅牢でしょう。ですが避難民や負傷者が多い。放っておけば、いずれ殲滅されます」


 沈黙が落ちた。

 甲板の向こうで雲が流れ、青い光が船体を照らす。

鎧を脱ぎ、いつもの服に戻った俺は無言のまま、遠くの空を見ていた。


 「……降りるか?」


 俺の問いに、誰よりも早くリュリシアは顔を上げた。


 「行きます」


 俺は目を細めて彼女を見た。


「本当にいいんだな? このまま逃げることもできるぞ?」


 少しの間。

 彼女は空を見上げ、ゆっくりと答えた。


 「……もし、ここで逃げたら、私、きっと一生自分を嫌いになると思うんです」


 風が吹いた。

 その横顔は、もうあの墓地で泣いていた少女ではなかった。

 俺に抱きついて泣いたときの温度だけが、まだ残っている。


 彼女の中で何かが形を変えた。

 誰かに守られるための祈りから、誰かを守るための願いへ。


 リュリシアは手すりを握りしめ、小さく息を吐く。


 「怖いです。戦うのも、失うのも。でも……もう見てしまったんです」


 青空の向こうに目を向け、言葉を続ける。


 「この空を。この船を。そして――どんな時でも“諦めない”姿を」


 風が髪を揺らし、光が頬を照らした。

 彼女はその光を見つめながら、静かに言う。


 「怖いけど……いなくなってほしくないから、立ち止まれない。

  “誰かがいなくなる”のを泣いて見ているだけなんて、もう嫌なんです」


 言葉の端に、確かな震えと火があった。


 「だから、行きます。私は――私の選ぶ“優しさ”を信じたい」


 その言葉が落ちた瞬間、甲板の空気が変わった。

 風が鳴り、帆が軋む。

誰もすぐには言葉を返せなかった。


 ……その中で、ひとりだけ、息を呑む音がした。

 エレナだった。

 普段はどんな戦場でも動じねぇあいつが、まるで雷に打たれたみたいに立ち尽くしていた。


 「リリアン……様……?」


 小さな声。

思わず漏れたその響きに俺は目を向けた。

 ――リリアン。その名は確か……。


 リュリシアが驚いたように顔を上げ、エレナを見る。

 エレナは一瞬、息を止めたように動けず、すぐに顔を伏せた。


 「!? 失礼しました。リュリシア様……」


 それ以上、何も言わなかった。

 だが肩が震えていた。

 その背中を見たとき、俺にはわかった。

 あいつの目には、今のリュリシアが――重なって見えたんだ。


 リュリシアはそんなエレナに、静かに微笑んだ。


 「エレナ……私、強くなりたいの。誰かを救える強さを……あなたや、お母様のように」


 「……リュリシア様」


 エレナは一瞬だけ目を見開き、すぐに姿勢を正した。

 そのまま膝をつき、剣を立て、胸の前に手を添えて深く頭を垂れる。

 騎士としての礼――その形は、限界まで抑え込まれた感情の裏返しだった。


 「――必ず、私があなたをお守りいたします」


 声は震えていなかった。

 だが、握る指先だけがわずかにいつもより深く握り込まれている。

 誰にも顔は見せなかったが、甲板に落ちた雫が光を反射した。


 俺はその背中を見ながら、ゆっくりと息を吐いた。

 風が雲を裂き、光が差す。


 その光の中で――リュリシアはもう、誰かの庇護にいる少女じゃなかった。


 ――――北の山岳。


 谷はすでに火の海だった。

 慈悲派の陣は半ば崩壊し、兵も民も散り散りになりながら岩陰で必死に耐えている。

 試練派の旗が丘を覆い、赤い炎が空を舐めた。


 「もう駄目だ……!」


 誰かの叫びが混ざる。

 矢は尽き、剣は折れ、仲間の叫びが次々と消えていく。

 誰もが悟っていた――ここで終わりだ、と。


 その時だった。


 空気が震えた。

 風が、逆に吹いた。


 頭上の雲が一瞬で裂け、眩い閃光が天から降る。

 耳をつんざく轟音。

次の瞬間、試練派の最前線が――消し飛んだ。


 「な……なんだ!?」


 誰かが叫ぶ。

 炎の向こうで、黒煙を突き破って“それ”が現れた。


 ――空を飛ぶ船。


 巨大な帆を広げ、光を帯びて浮かぶ船だった。

 その船体が唸りを上げ、再び砲撃音が響き渡る。


 「野郎ども! 撃ちまくれぇッ!!」


 声が、空から響いた。

 瞬間、空そのものが吠えたようだった。

 轟音と閃光が走り、試練派の陣が次々と崩れていく。

 煙の中の兵が、まるで砂のように吹き飛ばされる。


 「空が……助けを……?」


 誰かが呟いた。

 だが違う。助けているのは――“あの船”だ。


 雲の切れ間から光が降り、船が山腹へと降下を始める。

 爆風が谷を包み、やがて静寂が訪れた。

 残った慈悲派の兵たちは、その光に照らされながら立ち尽くす。


 ――奇跡だ。


 船から橋が下りる。

 そこに立っていたのは二人の影。

 一人は銀の鎧を纏い、もう一人は長い金髪を風に揺らしていた。


 「リュリシア陛下……!」


 誰かがその名を叫んだ。


 光を背に、彼女はゆっくりと歩み出た。

 地面に足をつけた瞬間、歓声が爆発する。

兵も民も涙を流し、手を伸ばし、名を呼んだ。


 「陛下だ! 本物だ!」

 「生きておられたのか……!」

 「女神が、我らの祈りに……!」

 「リシアン様もおられる! 奇跡だ!!」


 リュリシアはその声を聞きながら、ゆっくりと民の方へ進む。

 その背後では、リシアンが剣を抜き、燃える谷を見据えていた。


 上空でイルクアスターが旋回し、退路を断つように砲撃を放つ。

 その一撃が試練派の残党を薙ぎ払い、山を震わせた。


 空と地が一体となったその瞬間、誰もが確信した。

 ――この戦いは、終わり“つつある”。


 リュリシアは民の中に膝をつき、泣きじゃくる少女を抱きしめた。


「大丈夫。もう大丈夫です」


 その声は、涙の中でもはっきりと響いた。


 その上で、帆を広げたイルクアスターが静かに空を滑っていく。

 光が雲を裂き、風が谷を渡る。


 「神の力だ! 陛下は信託を授かったのだ!!」


 誰かが叫んだ。

 その声を皮切りに、慈悲派の士気が一気に跳ね上がった。


 崩れかけていた陣形が再び立ち直り、倒れていた兵が立ち上がる。

 負傷兵でさえ武器を握りしめ、歯を食いしばって叫んだ。


 「神は我らを見放していなかった!」

 「陛下万歳!」

「旗を掲げろ!」


 信仰が現実になった瞬間だった。

 祈りが形を取り、戦場の空気がひっくり返る。

 それは希望というより、畏れすら伴う“神の介入”に近かった。


 リュリシアは群衆を見つめ、微かに首を振る。


「これは奇跡ではありません……皆が諦めなかった結果です!」



 ――その頃、試練派の指揮所では混乱が広がっていた。


 焦燥と怒号が交錯し、秩序は完全に崩壊している。

 その中央で、バルデス卿が立っていた。

 黒衣の上に鎧を纏い、剣の柄を握る手は白くなるほど強張っている。

 かつては冷静沈着な戦略家――だが今、その瞳には焦りの色があった。


 「……ふざけるな、神の加護だと? あるはずがない! ならばなぜ奴らを選ぶのだ!!」


 机を叩き、地図が裂ける。


 「計画が……ここで崩れるなど、あってはならん……!」


 部下が震える声で告げた。


 「バルデス卿、このままでは我々も包囲されます!」

「黙れ!」


 怒声が響くが、その声音にはもはや威圧ではなく怯えが混ざっていた。


 バルデスは懐から黒い印章を取り出す。

 血のように赤黒く光る、古代文字の刻まれた石。

 王都の地下で封印された、禁忌の遺物だった。


 「……まだだ。“導師殿”が残していった“保険”がある。

  これさえあれば……呼び覚ませる……!」


 副官が青ざめる。


「まさか……それを使うおつもりですか!?」

 「奴らは偽りの神を用意した……ならば!!」


バルデスの叫びが指揮所を震わせた。


 「我らは悪魔を用いるまでだ!」

「バルデス卿ッ!!」


 ――数刻後。


 谷に静寂が戻り、慈悲派の拠点では治療と整備が始まっていた。

 リュリシアのもとに、リシアンとエレナが控えている。


「……撤退が確認されました。試練派は完全に退いています」


 リシアンの報告に、リュリシアは小さく頷く。


「追撃は?」

「なりません。彼らもまたこの国の民です。負傷者の保護を優先しましょう」


 勝利の声が、谷のあちこちで響いていた。

 焚き火の煙が立ち上り、沈んだ空にゆらめく。


 「道を開けろッ! 重傷者だ!!」


 怒鳴り声と共に人の壁が割れた。

 血に染まった鎧を着た男が、二人の兵に支えられてよろめき出てくる。

 胸元には、試練派の紋章。


 周囲の空気が一瞬で張りつめた。

 剣が抜かれ、槍の穂先がその男に向けられる。


 「おやめなさい!」


 リュリシアが一歩前に出た。


「武器を捨ててください。そうすれば、治療を――」


 男は震える手で剣を投げ捨て、その場に膝をつく。

 口元から血を垂らしながら、必死に顔を上げた。


 「リュリシア……陛下……」


 リュリシアは頷いた。


「そうです。あなたは……?」


 「……試練派前線指揮官、バルデス卿の……副官、でした」


 “でした”という言い方に、周囲がざわめく。

 エレナが前に出かけたが、リシアンが手を上げて制した。


 「降伏しに来たのか?」


 リシアンの問いに、副官は首を振る。


 「それだけなら……こんな無様な真似はしません」


 血の混じった息を吐き、彼はリュリシアを真っすぐに見上げる。


「伝えに来ました……今すぐに、止めなければならないことがある」


 「止める……とは、誰を?」


 リシアンの声が低く響く。


 「バルデス卿です」


 副官は唇を噛んだ。


「卿は……この戦を見て悟ってしまった。

 もはや通常の戦力差では勝てぬ、と。だから卿は――封印の地へ向かいました」


 空気が…凍った…。

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