第74話 燃える王都と揺らぐ均衡
ーーーーーすこし戻り
アークが城を出てから、まだ間もない。
宰相執務室の灯は落ちず、地図の上に揺れていた。
アドリアンは沈黙のまま東方を見つめている。
報告書が積まれ、印のついた街の名が赤く並ぶ。
その背で、エレナが慌ただしく出入りしていた。
伝令が次々と駆け込み、指示が飛び交う。
増援部隊の編成――その準備が進んでいた。
「……宰相殿」
リシアンが一歩進み出て、静かに言った。
「私の方でも、先行して偵察隊を出しておきます。
地形を確かめ、補給路を確保しておくために」
アドリアンは小さくうなずいた。
「助かる。……しかし、なぜこの時に魔族が……」
そのぼやきに、誰も答えられなかった。
リシアンは静かに一礼し、執務机の脇に控える。
地図の上で、炎を示す赤い印が、揺らめいて見えた。
やがて――
遠くの鐘が一つ鳴る。
報告の兵が駆け込み、息を切らして叫んだ。
「報告! 北街区に火の手!、武装した試練派が蜂起しました!」
目を凝らすと窓の外が薄く赤く染まりはじめている。
そして…王城の外壁の向こう、並ぶ松明の列が夜を裂くように灯りはじめる。
暗闇を押しのける無数の炎――執務室の空気が凍りつく。
アドリアンは信じられぬように立ち上がった。
「……何を、言った? 蜂起……だと?」
窓の外がさらに明るく燃え上がった。
街の通りごとに松明の列が伸び、
まるで夜そのものが裏返るように光が広がっていく。
「そんな……!」
リュリシアが小さく息をのむ。
震える声で「お父様……」と呼ぶその姿は、
今は王ではなく、ただ怯える娘のようだった。
アドリアンが振り返るより早く、
リシアンの怒声が弾けた。
「バルデス!−−−ここで王都にまで手を伸ばすか!!
国を焦がし何を得ようというのだっ!」
炎に照らされたその顔は怒りに歪んでいた。
アドリアンはその横顔を見て、
唇を噛み、震える声で呟いた。
「まさか軍閥派が……ここまで愚かな真似を」
地図を握りしめた手が、白くなる。
「……リシアン、例の件…頼む。陛下を守れ」
「はっ」
リシアンは即座に一礼した。
アドリアンは扉の方を向き、叫ぶ。
「伝令! エレナを呼び戻せ! 東の編成は後回しだ!
陛下の護衛を最優先にしろ!」
兵が駆け出す。
外の光が一層強くなり、執務室の壁を真紅に染めた。
アドリアンはその炎の中で、
この国が“燃え始めた”ことをようやく理解する…いや、ちがう。
その火は元からあったのだ…、ただそれは目に見えず、地の中でくすぶっていた。
それが今、王を失ったことをきっかけに表に出ただけのこと…、最初から遅かったのだ‥。
「どうしてだ……なぜ、こうも人は…」
風が吹き込み、書類をさらっていく。
その紙片を見送りながら、リシアンだけが――
ひとり、静かに目を伏せていた。
外の夜空が、まるで血のように赤く染まっていた。
燃え上がる街を見下ろす窓の外で、試練派の旗が次々と立ち上がる。
報告が飛び交う。
「北門、突破されました!」「南区からも火の手が!」
アドリアンは地図を睨み、唇を噛む。
「くそっ……こんなにも早く……!」
その横で、リシアンが静かに口を開いた。
「宰相殿、ここで抗えば兵は全滅します。
やはり、今は陛下をお連れして退くべきです」
アドリアンが顔を上げる。
「この城を捨てろというのか…」
「はい。人命を優先するなら、それしかありません。
私の兵を先行させ、退避路を確保してあります」
アドリアンは拳を握りしめた。
だが外の炎は止む気配もなく、すでに内門付近まで敵影が迫っていた。
「……やむを得ん。リュリシア、行くぞ」
その声に、リュリシアは小さく頷く。
だが、その目には不安が滲んでいた。
エレナが膝をつき、頭を下げる。
「陛下の護衛は私がいたします。
ですがその前に、城内の守備を厚くし時間を稼いでまいります」
「頼む……」
アドリアンの言葉に、エレナは力強く頷いた。
「すぐに追います。お先に!」
彼女は部下に短く命令を飛ばす。
「西回廊で防衛線を維持しろ! 陛下が離れるまで持たせる!」
兵たちが走り出す。
その間に、リシアンが前へ出た。
「こちらです。裏門まで抜け道を確保しています」
アドリアンとリュリシアが彼の後ろにつづく。
炎と煙が渦を巻き、壁の影が不気味に揺れる。
ーーーーー裏門の前
リシアンは部下に目配せをした。
鉄の扉が軋みを上げ、静かに開く。
「陛下、お待たせいたしました」
「エレナ!」
そこに鎧を鳴らし、返り血を鎧に浴びたエレナが駆けつけた。
リュリシアは血など気にせず、エレナに抱きついた。
「エレナ殿、ご無事で何より。では参りましょう」
エレナはリュリシアを抱くようにして外へ出た。
アドリアンも続く。
そして、彼らの背が夜の闇に消えた瞬間――
リシアンは振り返り、別の部下に低く命じた。
「……王門をすべて開きなさい、無用な争いはせぬよう」
部下たちが無言で頷き、重い鎖を外す。
鉄の扉が地響きを立てて開かれていく。
ーーーーー王都・北門 試練派陣営
黒い軍勢の前で、バルデスは馬を止めた。
「……何だ、門が開いている?」
炎に照らされた城門は、まるで歓迎でもするかのように開かれていた。
部下が駆け寄る。
「報告! 抵抗ほぼなし、城内の兵が次々と投降しています!」
「……あり得ん」
バルデスは低く呟き、夜風に髪をなびかせる。
「宰相は?」
「姿なし。王も確認されず」
バルデスの眼が細められた。
「ほう…逃げた、いや、誘われたな」
彼は城の塔を見上げ、唇を歪めた。
「いいだろう。――逃げた先ごと、燃やしてやる」
号令が響く。
無数の松明が一斉に掲げられ、
王都の中心へと、試練の軍勢が流れ込んでいった。
ーーーーー
夜明け前の空は、まだ灰色を残していた。
逃走を終えた一行の馬蹄が、ようやく静止する。
霧の中にそびえる尖塔――慈悲派の大聖堂が姿を現す。
「……ここが、リシアン様…慈悲派の本拠ですか」
エレナが周囲を警戒しながら馬を降りる。
城壁に沿って兵が並び、すでに防衛陣が築かれていた。
鎧の擦れる音が微かに響き、聖堂の鐘が風にかすかに揺れる。
リシアンは振り返り、穏やかな声で言った。
「ここなら安全です。我々の信徒が暮らす街ですから、
試練派も軽々しく手は出せないでしょう」
アドリアンは深く息を吐いた。
「……助かったな」
その声には、安堵よりも疲労の色が濃かった。
護衛兵たちは倒れこむように休み、医官が負傷者の手当てを始める。
聖堂の扉が開き、司祭たちが灯を掲げて迎え入れた。
「ようこそ、陛下。すべては神の御導きにございます」
リュリシアは小さく頷き、静かに答えた。
「……いいえ。これは、人々の勇気と犠牲が導いてくれた結果です」
彼女はアドリアンとともに聖堂の奥へ進む。
天井の高い礼拝堂には、避難してきた者たちが膝をつき、祈りを捧げていた。
すすけた外とは違い、そこだけがまるで別世界のように静かだった。
燃える街の残光が、ステンドグラスを赤く染めている。
リュリシアは膝を折り、両手を組んだ。
「……どうか、皆をお守りください。
これ以上、誰も失われませんように」
小さな声だった。
けれど、その祈りは確かにこの場所に生きる者たちの心を照らした。
兵士たちも、息を潜めてその姿を見つめていた。
ーーーーーその頃
聖堂の奥、封鎖された会議室。
長机を囲む慈悲派の幹部貴族たちが、低い声で言葉を交わしていた。
「……陛下をこのまま留め置けば、試練派の標的になりますな」
「やはり避難ではなく“保護”の形を取るしかありません」
「リシアン卿、例の手筈は?」
窓の外では、朝焼けがゆっくりと空を染めていく。
リシアンは一度だけ瞼を閉じ、静かに答えた。
「準備は整っています。……彼女には、“しばしの眠り”を」
誰も異を唱えなかった。
その静けさはどこか不気味であった。




