第35話:空の海Ⅱ
空の海は、どこまでも澄んでいた。
青が深く、風が静かで、帆のきしみだけが音を立てる。
舵はウィンスキーに任せ、船は風まかせに漂っている。
俺は甲板で椅子を傾け、樽机の上にコンパスを置いていた。
そのとき、コンパスが震えた。
「ZZz……んぁ? なんだ?」
蓋を開けると、青白い光が広がる。
監視のゴーグルが捉えた景色が、水晶に映し出されていた。
街道のど真ん中で、馬車が立ち往生している。――いや、違う。襲われている。
馬車のまわりには、すでに息絶えた兵士たち。
盗賊風の連中が、血と煙の中で包囲を固めていた。
だが馬車の前に、まだ一人の騎士が立っていた。
「ほう……護衛崩れの貴族馬車か。助けりゃ礼金が出るかもな」
軽口のあと、俺の目はその騎士の動きに釘付けになった。
騎士は膝を折りそうになりながらも剣を構え、
盗賊を寄せつけまいと一太刀ごとに踏みとどまっている。
さながら英雄譚の主人公を見ているようだった。
だがその幻想は、次の瞬間に砕けた。
盗賊たちが数の暴力で一斉に襲いかかり、
剣が騎士の頭をかすめる。
兜が弾かれ、顔があらわになった。
「……」
こんな感覚は何十年ぶりだろうか……。
俺は椅子を蹴って立ち上がり、片手を上げて船の手すりに立つ。
手下の影たちが、ざわめきながら集まってくる。
「行くぞ……」
その一言とともに、俺は空の海に身を投げた。
――――地上。
砂埃と鉄の匂いが混じっていた。
喉が焼け、握った剣が自分の腕より重い。
それでも、足はまだ動いていた。
守るべきものを背にして、一歩も退くわけにはいかない。
「下がれっ外郎!こんなものかぁ!!まだ終わっていないぞ!」
叫ぶ声も、もうかすれていた。
周囲にいた兵は、皆倒れた。馬も息絶え、車輪が斜めに割れている。
盗賊どもの笑い声が、風に乗って近づいてくる。
「女が一人で守ってやがる!」
「鎧の中も血で赤くしてやれ!」
剣を構える。だが腕が上がらない。
(クソッ……銀剣さえ、あれば……)
出発の直前、護衛のひとりが裏切った。
魔族の手下だった。
やつに“銀の剣”を奪われた…。
ただの盗難と思ったが――。
(低級の魔族と野党が、なぜ……!)
刃が触れ合い、火花が散る。
普通の鉄では、奴らは死なない。
仕方なく、目の前の吸血鬼を木の幹ごと貫き、
剣を柄ごと押し込み、釘のように固定した。
「グ……ァ……ああ……!」
喉の奥から漏れる声が、人のものではない。
ただの鉄では、すぐには完全には殺せない。
標本のように貼り付けられたまま、そいつはまだ生きていた。
「女騎士が震えてやがる!」
「いい見世物だ!」
盗賊たちの戯言、笑い声。
(−−−笑わせる。)
「貴様らなど、私の相手にッ!」
再び騎士の剣を握り盗賊たちに相対する。
だが次の瞬間、風が爆ぜた。
――地面が揺れた。
砂が舞い、熱が走る。
中心に、黒い霧の中から男が現れた。
その背後に、影のような人形が二体。
「てめぇ、何も――」
盗賊の一人が叫んだ瞬間、乾いた衝撃音が響いた。
額に穴が穿たれ、倒れる音は遅かった。
黒衣の男は静かに周囲を見渡す。
片手を上げ、指を軽く折る。
その合図と同時に、闇が走り、雷のような閃光が地を裂いた。
盗賊たちは叫ぶ暇もなく崩れ落ちた。
あたりに沈黙だけが残る。
木に縫い付けられた魔族だけが、かすかに呻き声を上げていた。
黒衣の男が顔を向けた。
「?……まだ動くのか?」
彼が何かを魔族に向けると、奴は怯えたように身を引く。
「やめろ!危険だ! そいつは――!」
彼女が叫ぶより早く、雷のような音。
木に縫い付けられた魔族の頭が吹き飛ぶ。
だが数秒後、裂けた肉がゆっくりと再生していった。
男が眉をひそめる。
「……再生するのか?、人間じゃねえな」
「銀でなければ殺せません!」
足元に転がっていた奪われた剣の破片を拾い、
銀の刃先だけを引き抜いた。
ひと閃。
闇が裂け、魔族の体が砂のように崩れた。
風が止む。
黒衣の男が静かにそれを見届け、
「なるほどな」と呟いた。
――そして、馬車の扉が開く音。
「いけません! リュリシア様!」
声を張った。
掠れた喉でも、警告の意志だけは込めた。
馬車の扉がきしみを上げて開く。
その向こうから、長いオレンジ色の髪のメイドが慌てて飛び出してきた。
「お、お嬢様っ! だめですぅ、まだ危ないですから! ほら中に、危険です!」
だが、その声より先に金髪のリュリシアが出てきた。
血の匂いの中を、まっすぐこちらへと歩いてくる。
黒衣の男がまだ目の前にいる。
何者なのか分からない。
それでも――どこか、人ならざる静けさをまとっていた。
「危険です。お下がりください」
騎士としての声。
男とリュリシアの間に立ち、身一つで壁を作る。
冷静さを装ったつもりだったが、胸の奥では焦りが弾けていた。
だがリュリシアは止まらなかった。
彼女の靴が血に濡れた石畳を踏む音が、やけに軽く響く。
「もう大丈夫よ」
その声に私は息を呑む。
公女の柔らかい声色の奥に、確信の色があった。
黒衣の男は彼女に視線を向ける。
ほんの一瞬だけ。
「あなたが……助けてくださったのですね」
リュリシアが裾をつまみ、礼を取った。
血と灰の中に、彼女だけが場違いなほど清らかに見えた。
オレンジ髪のメイドが後ろで震えながらも、必死にスカートの裾を押さえて立っている。
「私はリュリシア・アルトリウス。この国の東を治める領主の娘です。
どうか、お名前を――」
男は少しだけ彼女に視線を戻し、けれどすぐに隣に立つ騎士へと目を戻した。
「あぁ……そうか」
それだけを言う。
まるで名乗りなど些末なことだとでも言いたげに。
リシェリアの表情が、わずかに固まった。
そしてほんの少し、唇を尖らせる。
「あ、あの……お礼も言わせていただけないのですか?」
その言葉には、年頃の少女らしい拗ねた響きがあった。
だが男は気づいていないのか、無関心なのか――。
彼はただ、どこか遠くを見るような目をしている。
「あ、あのっ……ちょ、ちょっと! 失礼よあなた!
せっっっかく! 私がお礼を言おうと出てきたのにぃ!」
その声に、ようやく男がわずかに視線を動かす。
しかし、口から出たのはたった一言だった。
「……あぁ、悪い」
その声に謝意はなく、
まるで別の世界を見ているような調子だった。
「全然伝わってません!」
リシェリアは頬をふくらませて足を鳴らした。
メイドが慌てて小声でなだめる。
「お、お嬢様ぁ……もう、怒らないで……」
その姿に、騎士は一瞬だけ微笑みそうになり――慌てて視線を逸らす。
男はただ、風の音のように淡々としていた。
だがその視線は馬車を見ている。
焦げた木の匂い、割れた車輪、血の染み。
馬はすでに動かず、風が吹くたびに鎧の金属音がかすかに鳴る。
男は黙って空を仰ぎ、
魔族を頭を弾けさせたものを空に向け、三度、音を撃ち出した。
「……?」
騎士が息を呑んだその刹那、
雲の上から巨大な影が落ちてきた。
騎士は最初は鳥かと思った。
だが、すぐにそれが――船だと気づく。
「な、何……あれ……?」
リシェリアが目を見開く。
声が震えている。
男は振り向かない。
ゆっくりと歩きながら、空から降りてくるそれを見上げていた。
風が爆ぜ、砂が巻き上がる。
木と鉄の板を組み合わせたような巨体が、
まるで生き物のように空気を押しのけて降りてくる。
帆が光を受けてきらめいた。
「……船、が……空を……」
リシェリアの言葉に、騎士は応えられなかった。
焦げた地面に靴跡が残り、血の匂いが風に流れる。
その中で――黒衣の男だけが、
まるで別の世界に立っているように見えた。
船体の側面が静かに開き、金属の橋が降りる。
帆の影が彼の背を包み込む。
そして、男が少しだけこちらを振り返り、言った。
「……乗ってくか?」
彼の声が、風より静かに届いた。
それが、新しい物語のはじまりだった。




