第36話:雲の彼方
空の上…今日の船は、やけに騒がしい。
手すりのそばでは、金髪の少女――リュリシアが無邪気にはしゃいでいた。
「すごい……本当に、空を飛んでいるのね!」
その隣で、赤髪の騎士――エレナが落ち着かぬ様子で袖を掴んでいる。
「リュリシア様、あまり前に出ては……風が強いので危険です」
「平気よ! ほら、あの山があんなに小さく見えるわ!」
さらにその後ろでは、オレンジ色の長髪を揺らすメイドが半泣きで裾を押さえていた。
「お嬢様ぁぁ、スカートが……もう、お願いですから下がってくださいませぇ〜!」
「平気よセラ! 落ちたりしないわ!」
「落ちたら平気じゃありませんってばぁ〜!」
――実に賑やかだ。
俺は少し離れた場所で、手すりにもたれながらその様子を眺めていた。
風が頬をかすめ、帆の音が静かに響く。
空は澄んでいるのに、胸の中は妙にざわついていた。
(……不思議なもんだ)
戦場で誰が死のうと、心は揺れなかった。
だが、さっき、あの騎士の顔を見た時に、胸の奥が痛んだ。
理由は分からない。
ただ、放っておけなかった。それだけだ。
騎士の”エレナ”が風に押されるリシェリアを支える。
その手つきがぎこちなくも優しい。
俺も言えたことではないが……まるで、誰かを守り慣れていない人間の動きだ。
俺は小さく息をついた。
「はぁ…」
足音がして、後ろからウィンスキーが現れた。
無言で俺を見て、軽く会釈して舵の方へ戻っていく。
言葉はなくても、言いたいことは分かる。
――「らしくない顔してるぞ」
(余計なお世話だ)
「ったく……」
風の音が静寂を埋めた。
雲の切れ間から光が差し込み、甲板全体が白く輝く。
「あなた、笑うのね!」
甲板の向こうから声が飛んできた。
リシェリアがこちらを振り返り、まっすぐ俺を見ている。
「……ん? なんだ?」
「さっきまでずっと怖い顔してたのに、今は優しい顔ですもの」
俺は思わず目を逸らした。
(……誰がそんな顔をしてた、か?)
横でエレナが軽く会釈する。
「改めて……助けていただき、感謝いたします」
その言葉は真っ直ぐで、礼儀を崩さない。
だが、その瞳の奥に、まだ警戒の色が残っている。
…無理もないがな。
「礼は……いらん」
そう返すと、エレナは不服そうにきゅっと口を結んだ。
俺は帽子の位置を直し、視線を逸らす。
ふと、甲板の影で何かが動いた。
視界の端――扉の隙間から二つの影が覗いている。
リュカとシアだ。
顔の半分だけ出して、こそこそと様子をうかがっている。
リュカが口を動かした。
(出ていいのか?)
シアが首を横に振る。
(待ちなさいリュカ、見たところあれは騎士みたいですし、コール様もバツが悪そうよ)
俺は思わず吹き出しそうになり、咳払いでごまかした。
エレナが首を傾げる。
空の海を滑る音だけが響く。
雲の上の静寂の中で、リシェリアの笑い声と風の唸りが重なる。
その音が、やけに遠く、心地よかった。
風は冷たい。
だが、胸の内は妙に熱い。
(困ったな……、厄介なものを拾ったかもしれん)
しばらく船を進め、街が見え始めてきた。
空の海を抜け、船はゆっくりと下降を始めた。
遠くに、霧のかかった街が見える。
塔の尖端が雲を突き抜け、その下に白い屋根が並んでいた。
「……あの街でいいな?ならあそこの丘に止める」
俺がそう言うと、リュリシアは少し驚いたようにこちらを見た。
「街の中じゃないの?」
「騒ぎはごめんだからな」
「……なるほど」
エレナが小さく頷く。
その横で、セラが慌てて荷物を抱え直した。
船は街の外れ、小高い丘の上に降り立つ。
周囲には誰の姿もない。風と草の音だけが響いていた。
俺は甲板の縁に立ち、軽く手を振った。
「ここで降りな」
リュリシアが裾をつまみ、深く礼を取る。
「本当に……ありがとうございました」
「この借りは、必ず」
エレナの声は、律儀なまでに真っすぐだった。
俺は肩をすくめる。
「礼はいらん。こっちも風向きが良かっただけだ」
それでもリシェリアは食い下がる。
「せめて報酬をお渡ししたいわ。何か望むものはないの?」
「……報酬」
言いながら、俺の視線は勝手に動いていた。
無意識に、隣に立つ赤髪の騎士を見ていた。
その瞬間、喉の奥で言葉が詰まる。
「……あんたの――」
「?」
エレナが眉を寄せる。
沈黙が落ちた。
「……っㇵ!?、な、なんでもねぇ」
「なによそれ〜?」
リシェリアが首をかしげる。
「今、何か言いかけたでしょ?」
「冗談冗談。ガキから礼なんていらん」
リュリシアは俺の言葉に眉を吊り上げた。
「どういう意味よ!」
俺の挑発にまんまと乗ったリュリシアをメイドのセラがなだめ、
それを少し後ろから笑うエレナの顔が俺に目に焼き付いたようだった。
「ッ」
「?」
俺は彼女と視線が合うとすぐに視線をそらし、彼女は騎士の鉄のような面持ちに即座に戻りリュリシアを見守っている。
「ちょっと聞いてるの!」
「へいへい…さて、俺は行く」
帽子を深くかぶり直し、俺は空を仰いだ。
吹き抜ける風が頬を撫でる。
「じゃあな…あと…その…あれだ…」
「?」
「報酬はそれでいい……あんたが笑ってる顔、悪くなかったぜ」
エレナが目を見開く。
リュリシアとセラはポカンと口を開けたまま、
面白い顔をしている。
そうして俺は軽く背を向け、歩き出す。
「じゃあな」
帆が鳴り、船体がゆっくり浮かび上がる。
風が爆ぜ、砂と草を巻き上げる。
振り返れば、三人が並んで見送っていた。
金の髪、赤の髪、オレンジの髪――空の青に映えて、やけに眩しい。
風が吹き抜け、船はゆっくりと雲の中へ溶け込んだ。
ーーー空の上
雲の上に戻ると、空はいつもより暗く見えた。
日が傾き、帆の影が甲板に長く伸びている。
俺は舵のそばに立ち、ただ無言で風の流れを見ていた。
遠くに、さっき降ろした街の塔の灯が小さく光っている。
後ろでリュカが顔を出した。
「なぁ、シア。……コール、さっきから黙ったまんまじゃねぇ?」
沈黙。
次の瞬間、低い声が返ってきた。
「……何か、問題でも?」
リュカがピクリと肩をすくめる。
「ヒィッ!?…い、いや! 別に!ちょっと静かだなって思っただけだよ」
「あら?、リュカ……そう、気になるの?」
「は?」
「コール様のこと」
「いや、だからそういう意味じゃ――っておいシア、怖ぇ顔すんなって!?!?」
シアは笑っていた。だが、その笑みが妙に冷たい。
俺はそのやり取りを背中で聞き流しながら、ポケットの中のコンパスを握りしめていた。
針が、微かに震えている。
まるで、まだ下の誰かを指しているように。
「……はぁ」
ため息が風に溶けて消える。
「ん? 今なんか言ったか、コール?」
「言ってません」
シアの返しが早すぎた。
俺は小さく息を吐き、二人に向き直る。
「舵を頼む。俺は少し、上を回る」
「上??」
「あぁ」
帆の柱にかかるロープを一度引くと見張り台まで一気に引き上げられた。
「何だそれっ!?」
下でリュカの声がしたが、特になにもないだろう…。
雲を抜け、船は白い靄の平原へと再び浮かび上がる。
一方下ではリュカが小声でぼやいていた。
「……シア、あれ絶対なんかあったよな」
「そうね」
「……お前、怒ってる?」
「怒ってません」
「……嘘つけ」
シアは風に髪をなびかせながら、黙って夜空を見上げた。
その瞳は、太陽の光よりもずっと鋭かった。




