第131話:星の浜辺
怪物の咆哮が、ようやく途絶えた。
最後の一本の脚が、ミラのハンマーで叩き折られ、
黒い巨体が地面へ崩れ落ちる。
キリサは血を拭いながら、ぜぇ、ぜぇと肩を上下させ、
ミラは膝から崩れそうになるのをハンマーを杖にしてこらえていた。
「……倒した……のか……」
「ぅう……さすがに…もう、動けませんねぇ…」
兵たちもその場に座り込み、夜風だけが荒れた戦場を撫でていく。
だが――
喜びは、どこにもなかった。
視線は、皆ひとつの場所に集まっていた。
ヴァルセリクスの微光に照らされたその場所に、
エレナがいた。
地に膝をつき、
倒れたナイルの上半身を抱きしめるように抱え込み、
震える指で彼の頬を触れていた。
ーーーーー
呼吸は浅い。
胸の空洞は塞がっていない。
それでもまだ、かすかに温かさだけは残っている。
リュカとシアはすぐ横で泣きそうな顔で見守り、
少し後ろでは、シャンディ、カミラ、レザの三人が固まっていた。
シャンディは震える手で、自分の指についた黒い霧の名残を握りしめていた。
そのときだった。
かすれた、擦れた、ほとんど息みたいな声が漏れた。
「……シャンディ……」
「!?」
エレナが驚いて腕を強く抱きしめる。
「アーク……! 喋るな、まだ……!」
だが、焦点の合わない瞳をゆっくりシャンディのほうへ向けた。
その目は――
もう何も見えていないのに、
それでも無理やり“確かめたいもの”を追うように。
「……久しぶり、だな……、仲間の顔ぶれ……ちがくねぇか?」
シャンディは、一度言葉を失った。
その一言が、胸の奥をめちゃくちゃに揺らした。
「……あれから、いろいろあったんです…コールさん」
震える声で、泣き笑いみたいに呟いた。
コールは弱々しく笑った。
「……そっか……
生きてりゃ……いろいろ……あるよな……」
レザとカミラがシャンディの肩を支えた。
そして――
コールの視線が揺れ、リュカとシアへ。
「……おい……
なんだその……泣きそうなツラは……」
「泣きそうじゃねぇ!! 泣いてんだよバカ!!」
「コール様…嫌です、死なないで!」
コールは息をしながら小さく笑った。
「……相変わらず……うっせぇな……
バカ娘ども……」
リュカとシアが胸を押さえる。
「……コール?……」
「…コール……様?……」
だがコールは、まだ言葉を終わらせない。
血の泡を吐きながら、それでも笑って。
「……俺の船……
ボロにしやがって……バカ娘ども……」
その瞬間。
リュカは子供みたいな顔で涙をこぼし、
シアは口元を押さえて声を震わせた。
「ほんとに……ほんとにコールだ……!」
「この言い方……コール様! 記憶が……!」
リュカとシアの涙を見届けるように小さく笑ったそのあと、
コールの視線が、ゆっくり……ほんとうにゆっくりとエレナへ向いた。
血で霞んでいるはずの瞳が、
それでも必死に“彼女だけ”を捕まえようとしていた。
「……エレナ……」
エレナの肩が震える。
抱きしめる腕に力が入り、声を押し殺すように唇が震えた。
「アーク……喋るな……もう喋らないで……」
コールはかすかに首を振る。
もう声にならないほどの荒い呼吸の合間で――それでも。
「……俺…お前…ゲホゲホッ」
エレナの目が大きく揺れた。
その言葉は、“あの視線”と同じだった。
夜風が止まったかのような静寂の中で、コールは続ける。
「……お前……見たら……
……目が……さめた……全部思い出せたんだ…」
エレナは息を呑む。
その声は、
感謝でも、別れでもない。
ただ――
「エレナを見た瞬間……」
それを伝えるための、最後の力を絞った言葉だった。
「……エレナ…………やっぱ……お前……」
言おうとして、言葉が途切れた。
「アーク…?」
コールの身体がぐらりと傾ぐ。
「アーク!!」
エレナが抱きとめる。
その顔が、耐えきれず歪んだ。
涙がぽろぽろとコールの胸元に落ちる。
「……バカ!……そんなッ……ひと言で……
私を泣かせるな……」
エレナは彼を抱きしめたまま、震える声で呟いた。
まるで――
その言葉だけが、どんな刃より深く胸に刺さったかのように。
エレナは涙の音すら立てず、ただ静かに彼を抱きしめていた。
誰も近づけなかった。
夜明けまで、彼女は動かなかった。
そして朝日が差し込んだ瞬間、
地面にたまっていたシャドーズたちの影が――ふ、と薄れ始めた。
どの影も光に溶けるように揺らぎ、霧のように消えていく。
ーーーーー
残された船は、
半壊したまま防壁の外に置かれている。
動かす者が、もういない。
リュカとシアは船の中の狭い部屋で、
まだ泣き腫らした目のまま、身を寄せ合っていた。
影の気配もない船は、
あまりにも静かで――
あまりにも寒かった。
「……ごめん、コール守れなくて……」
「……コール様が残した船も…どうしたら……」
リュカは胸を押さえ、
シアはただ静かに涙を流し続けた。
ーーーーー
オルデアでは追悼式が開かれた。
キリサが先頭に立ち、手向けを添え。
その後ろでミラ、とバルグが祈りをささげる。
戦いで倒れた兵士たちの名が刻まれた石碑に、
最後の一文字として――
《ナイル》
その名が刻まれたとき、
広場は静まり返った。
シャンディはその場に立つことすらぎこちなく、
カミラに肩を支えられていた。
「……ごめんなさい、コールさん……
探して、探して……やっと見つけたのに……」
嗚咽を堪えながら、
それでも前を向こうとするように、胸に手を置く。
「……でも……こういう時に支えてくれる人たちに出会えたのも……
コールさんのおかげなんです」
涙を拭き、シャンディは小さく微笑んだ。
「本当はちゃんといいたかった……ありがとうって。
生きていた頃も、死んでしまった今も……
いつだって、誰かの“背中”になってくれる人でした」
ーーーーー
そして、丘の上。
オルデアの外れにある一本の樹の下。
そこに、コールの墓は作られた。
夕日がゆっくりと落ちていく時間。
その前に座り込む一人の少女。
リネアだった。
頬は涙で濡れ、声は枯れていて、
それでも――動かない。
墓石に指を触れたまま、
まるでそこにまだナイルがいるかのように。
「…………ナイル……
いなくならないで……
いやだよ……どこにも行かないでよ……」
声は震えていた。
「助けてくれたのは……あなたなのに……
私、まだ……何も返してない……」
背後に座ったネラが、
リネアの背中をそっと撫でる。
言葉をかけられなかった。
かける言葉なんて、
この場にはひとつもなかった。
ただ――
リネアの震える背中を、
誰よりも近くで支え続けることしかできなかった。
風が吹き、木の葉が揺れた。
墓石の前で泣き続ける少女と、
寄り添う姉。
ナイルの笑顔は、もう戻らない。
それでも――
彼が救った命が、確かにここに残っていた。
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風が――ない。
音も――ない。
ただ、どこまでも深い夜空が広がり、
無数の星々が天の川のように流れている。
コールは、その星の下で――
小さな木製の小舟に、横たわっていた。
ゆら……ゆら……
揺れるはずの水音は一切ない。
それでも舟だけが、何かに押されるように静かに漂っていた。
(……ここは……どこだ)
瞼を重く上げたコールは、
視界にぼやけた人影が映るのを感じた。
肩を、そっと揺さぶられる。
ゆっくりと視界が戻っていく――
目の前に立っていたのは、
アドリアンだった。
リュリシアの父親、優しい目元。
だが――
瞳に“生気”がなかった。
ガラスのように濁り、
まるで遠くの虚空だけを見ている。
「……アドリアン……?」
答えは返らない。
アドリアンはただ、コールの肩に手を置いたまま、
ゆっくりと視線を上げた。
その後ろ。
そこに――十一の影。
全員、コールと同じ背丈。
コールと同じ体格。
コールと“同じ服装”。
しかし、人間ではない。
黒い霧のような影で構成され、
その内側に、黄色い目がひとつだけ浮かんでいた。
光でも、魔力でもない。
ただ、“視線”だけがコールに突き刺さった。
「お前ら…そうか‥、俺、死んだのか…」
再び俺の肩にアドリアンが触れる。
そして船の先を指さした。
その先には、この夜の星空の空間をそこだけ切り抜いたように、
太陽に照らされた綺麗な島がある……。
そして………浜辺には…、
二度と会う事のできないはずの人物が立っていた…。
手を伸ばすと、影達は座り、オールを漕ぎ始めた。
船はどんどん島に近づき、波のせせらぎが聞こえ始めた。
海の水は驚くほど透明で綺麗だった。
浜辺に足がついた瞬間、
コールは「重さ」を感じた。
さっきまで舟の上では、靴底に“感触”なんてほとんどなかったのに、
砂はちゃんと沈み、波は足首を撫でていく。
(……地面、あるな)
半ば反射的にそんなことを考えながら顔を上げた先に――
「やっほ!」
軽い声が降ってきた。
白いワンピース。
風に揺れる髪。
太陽の光をそのまま映したみたいな笑顔。
二度と会えないはずの女が、そこに立っていた。
「……元気してる?」
あまりにも、昔と同じ調子で言うから、
コールは思わず鼻で笑った。
「死んでるのに元気もあるかよ?」
「それもそうだね」
彼女はケラケラと笑い、それからコールの全身をじろじろと眺める。
「てかさ、その格好なに? 海賊?」
「船長。空飛ぶ船の。だから海じゃなくて空賊だな」
「うわ、一段階ダサくなった」
「おい」
即答で切り捨てられて、コールはかしげる。
「似合うだろ?」
「全然?」
「あ、ひでぇ〜」
罵り合いに近いのに、口元は勝手に緩む。
この遠慮のなさ。この間合い。
(……変わってねぇな)
「ねぇ」
「ん?」
彼女は、少しだけ視線を落として言った。
「ごめんね」
「なにが?」
「あんたより早く死んじゃって……大変だったでしょ」
「……別に?」
「嘘。毎日泣いてたくせに。何年も、何年も」
図星を刺されて、コールは言葉を詰まらせる。
「……仕方ねぇだろ。俺にはお前しか……世界に意味がなかったんだ‥」
「うん……知ってる」
彼女はふわりと笑い、それから真っ直ぐコールを見る。
「……でも、今はもう違うでしょ?」
「どうだろうな…やっぱお前の顔見ると、わかんなくなる」
「おいおい、せっかく顔見せてあげたのに、
そんなこと言うなよ〜」
そう言って、彼女は指先でコールの頬をつつく。
「いででで、やめろって……やめろって……」
痛いわけじゃない。
ただ懐かしさが込み上げてきて、気づけば視界が滲んでいた。
「やーい、泣き虫」
「好きに言えよ……。この世界は少し楽しめたけど……
やっぱさ、俺、お前がいないと……」
「ううん、違うよ」
「…なにが?」
彼女は小さく首を振り、波の方へ顎をしゃくる。
「もう、そういうのやめな。
あんた馬鹿だけど、こういうの察するのは得意でしょ? ほら……聞こえるでしょ?」
コールは口を閉じ、耳を澄ませた。
静かな波音。
その向こう――かすかな、かすかな声。
アーク。
コール様。
…コール。
コールさん。
ナイル。
泣きながら、怒りながら、縋るように。
名前を呼ぶ声が、波のリズムに混じっていた。
「……」
「ほらね。だから、あんたは行きなさい。そして生きなさい!」
彼女は、いたずらっぽく微笑む。
「私が好きになったやつはね……そういう“強い奴”なんだよ?」
「はぁ……なんで俺、こんなワガママ好きになったんだか……」
「なんでかなぁ〜?」
「さぁな……。なぁ」
「ん?」
コールは、ほんの少しだけ視線を落とし、言葉を絞り出す。
「……ありがとう。ずっと言えなかった」
「うん……」
返事は短い。
それだけで十分だった。
「……じゃあ、行ってくる」
コールが背を向けかけると、彼女がぱっと手を振る。
「はい、行ってらっしゃい。ちゃんと今度こそ幸せになるんだよ?、
じゃないと化けて出るぞ〜」
「もう出てきてるだろ?」
「あ、確かに!」
二人で、くだらないことを言い合って笑った。
それが本当に、惜しくなるほど幸せな時間だった。
やがて、コールは浜辺を離れ、小舟の方へ歩き出す。
振り返れば、彼女はそこから動かず、同じ笑顔で手を振り続けていた。
舟の縁に手をかけると、十一の影が静かに立ち上がる。
そのうちの一つが前に出てきて、無言のまま手を差し出した。
コールは、その手を握る。
(帰らないと…)




