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湯けむり怪異譚「ぶらぶら」  作者: 秋野きつ
第3章 変化
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第98話 ハンカチ


 優しく寄せる波の音。


 砂浜すべてを呑み込もうとしていた大波はかすみとなって消えた。我先に逃げ出そうとしていた人々も狐につままれたよう。五郎たちもその体を波の洗うに任せて呆然としていた。ところが、


「まだ、終わっていませんよ」


と告げると、スーが海面から何かを摘まみ上げた。


 日の光と波の煌めきに浮かび上がるのは、金色の細い糸だ。きらきらと、有るか無しかの形を見せており、その一端は名坂警部補の小指に、もう一端は海中へと繋がっている。儚い金糸の先から、ぼんやりとした光が浮かび上がり、ぱしゃん、ぱしゃんと音を立てて波間に跳ねる。淡い光の塊が真夏の海の上を歩いて、それは十歳くらいの少女のよう。揺らめく少女の影は御門ひかりの幽霊なのだろうか。


 記憶の中の姿と相まって、名坂警部補にはその姿がはっきりと見えているようだ。そっと見つめ合うようにし、互いの小指から伸びる金糸が絡み合う。スーが静かに五郎に声をかけた。


「お渡しした縁切りばさみを」


 呼びかけに頷いて、五郎がそれを名坂警部補に手渡した。だが、金糸を切ることを躊躇う様子を見て、諭すようにスーがいう。


「その金糸は貴方にとって大切なもの。また後悔と悲しみと喪失と、そして貴方を慕い、気にかけ、旅立てぬ御門様の想いが互いを縛るものでもあります。

 様々な想いがり合わされた糸ですが、本当に大切な思いは決して断ち切られることはありません。断つべきものを断ち、その先へ、さあ」


 そっと鋏を開いた名坂警部補の手に、御門ひかりの小さな手が寄り添い、ぱちんと刃が合わさった。断たれた金糸が虹のように煌めく。

 誰の目にも涙を流して微笑む少女の姿が見えたという。ゆっくりと唇を動かし、声は聞こえなくとも名坂警部補の名を呼んだに違いなかった。長い時を経て、様々な想いを込めて。


 ひかりの幽霊は、ついと伸び上がると名坂警部補の首に手を回して抱きついた。わずかな抱擁を終え、さらりと離れた少女の涙を名坂警部補が拭う。手にしているのは、あたたかみある色合いのハンカチだ。


 涙を拭われるに任せてじっとしていた少女がハンカチを受け取り、今度は名坂警部補の涙を拭うと、ふわり、空へと消えていく。ひらひらと舞い落ちたハンカチを受け止め、揺蕩う海はただ優しく歌っていた。


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