第97話 乾いた舌
手も足もなく、目も鼻も耳もない芋虫然とした化け物が誇るように身を持ち上げていた。それが吐き出した糸に誰も彼もが捉えられてしまっていた。
ただ、美琴と葛音を捉えた糸は佳乃が断ち切り、二人だけが自由だった。続けて飛んできた糸に絡めとられて、もはや佳乃も動けず、大波は間近に迫っている。それなのに、化け物の内部に見える凄惨な死体の山のおぞましさに葛音は動けずにいた。乾いた舌が喉に張り付いて声も出ない。傍らでは美琴が、
「く、葛音。わ、わたしたちで……」
と、怯えながらも声を絞り出したのだが、そう言われても動けなかった。恐怖に囚われながら思う。
いつだってそうだ。格好だけ不良っぽくして、耳の聞こえない美琴を守っている気になって。本当は、いつも守られてきたんだ。勇気なんてない。みんなのように強くない。と、諦めかけた葛音の耳に、千里の声が聞こえた。
「葛音! しっかりしな。怖がらない人間なんていやしないさ。心の揺れない人間なんていない。揺れない振りをするんだよ」
その言葉に唇を噛んで顔をあげた葛音の目と、美琴の目が合い、互いに頷き合うと、ともに祝詞の奏上を始めた。
二人の声が響き合い、深く、優しく、人々の悲鳴や喧騒を包み込む。その声が化け物に届き、その身を粉微塵に砕いた。化物の内部にあった数多の死体も等しく砕け散り、潮風に溶けて崩れた。迫る大波も力を失い、揺蕩うようにして落ちかかると、化物であったものを呑み込んでいく。
五郎らを縛り付けていた糸も風に溶け、海に溶けた。後に残ったのは、真夏の日差しを受けて輝く、穏やかな海だけだ。




