第83話 湯舟
名坂警部補が文化住宅へ越してきたその日のこと。うだるような暑さも日暮れとともに治まり、山から吹き下ろす風が心地よい。きみの湯へ行こうとして部屋を出たところ、名坂警部補に声をかけられた。缶ビール片手に夕涼み中だったらしい。
「どこへ行くのだね?」
「近くの銭湯ですよ。名坂さんは、今日もジムのシャワーですか?」
「いや、今日はジムが休みでな。どうしようかと思っていたところよ」
「じゃあ、一緒にどうですか。きみの湯でアルバイトしているんです。案内しますよ」
「……銭湯か」
何やら気が進まない様子ながら、昼間の暑さに汗を流したいのだろう。一緒にきみの湯へいくことになった。徒歩数分の暖簾をくぐり、これまた趣きある引き戸を開けて中へ入ると、二十代半ばの若い女性が、ほんわかした笑顔で出迎えてくれた。
稲田月子さんです、との五郎の紹介にも上の空の名坂警部補だ。どうかしましたかと月子さんに問われて、落ち着かなげにあいさつを返していた。
さて、ところどころ剥げ落ちたタイルに錆びた蛇口、壁に描かれた富士山の絵と、五郎を喜ばせたザ・銭湯の光景。名坂警部補もいたくお気に入りの様子である。日々、浴場清掃に励む五郎としても気に入っていただけたようで何より、そんな心持ちだった。
身体を洗って湯舟へ向かうが、名坂警部補は突っ立ったままでついて来ようとしない。五郎が湯舟に浸かっても、入ろうとしないではないか。どうしたのか問いかける五郎に、躊躇いがちに応じた。
「そうだな……。白状すると、水が怖いのだ」




