第84話 御立派
文化住宅へ引っ越してきた名坂警部補ときみの湯へ行った五郎だが、湯舟に浸かろうという時、なかなか入ろうとしない名坂警部補が、水が怖いのだと告げた。怖いものなどなさげな御人の告白に驚いていると、苦笑しながら話を続ける。
「もちろん、頭では、こんな湯舟に何を怖がることがあろうかとわかるのだがな」
意を決したように、そっと手の指を湯舟に浸けると、躊躇いがちに足先から入った。
「いや、不思議だ。ここは大丈夫だ。月子さんのような美しい方が、日々磨いておられるからかな」
「ええ」
と応じながら、磨いているのは俺ですけど、という言葉を呑み込んだという。
「ふぅ、湯舟に浸かるのは久しぶりだ。信じられないかもしれないが、普段は、10センチ、20センチの深さの水でも足を入れられなくてな」
「そうなんですか。それは……」
遠慮がちに理由を聞こうとしたが、名坂警部補が機嫌よく被せた言葉に打ち消された。
「ところで、稲田月子さんと言ったか。おしとやかで優しい、あたたかみのある女性と感じたが、もう結婚されておるのかな」
「いや、独身だと思います」
「お付き合いされている人などは?」
「いないと思います」
「そうか、お綺麗なのにな」
嬉しそうな様子の名坂警部補は、湯上がり、にっこりとした月子さんから声をかけられ、
「名坂さん、湯加減はどうでした? これから、よろしくお願いしますね」
「いい湯でした。毎日、来ますよ」
と応じた。あれ? ジムのシャワーで済ますんじゃ、と言いかけた五郎を肘で突ついて黙らせる。そんな様子にも気付かず、
「あら、ありがとうございます。毎日、お会いできるのが楽しみです」
と喜ばされたところが、続けて、
「五郎さんの可愛いのと違って、さすが名坂さんは御立派ですね」
と来て、五郎を突つく肘に力が籠もった。げほげほと咳き込むところに、どういうことだ! と目で問いただす名坂警部補である。




