第82話 蕎麦
悪いことでもいいから何か起きないか、不意によぎった考えを振り払う佳乃だが、果たして、これは良いことか悪いことか。翌朝、名坂警部補が五郎の部屋を訪ねてきた。
「先日は世話になった。任せっぱなしで悪かったな」
「あ、名坂さん。おはようございます。今日は早いですね。何かあったんですか?」
「いや、あいさつだよ」
「あいさつ?」
との問いかけに、うむ、とうなずいて渡されたのは箱入の蕎麦だ。
「先ほど大家にもあいさつしてきたが、品の良い御婦人だな。少々肝の座った風もあったが」
「もしかして、引越しのあいさつですか?」
「そうだ」
「ここに?」
「そうだ」
「ここって学生アパートじゃ?」
「家賃さえ払ってくれれば誰でもOKだと言っていたぞ。職場の都合で官舎を追い出されてな。市内で一番安いアパートを探したら、ここになった。文化住宅というのか。なかなか趣きがあってよろしい」
「狭いし、風呂ないですよ?」
「ああ、構わん構わん。職場で寝泊まりすることが多いからな。ほとんど帰らんのに、荷物が置ければ十分よ。風呂もいらん。普段は、ジムのシャワーで済ませておるのさ」
笑いながらいうその後ろには、上階に住む千里が立っており、いたずらっぽい表情で口に人差し指を当てていた。黙っとけ、と示して部屋に入っていく。
「例の不良娘は、このあたりに住んでいるらしいな。家がわかったら教えてくれ」
「え、ええ、わかりました」
では、上にも住人がいるようだし、あいさつに回ってくるとしようと千里の部屋へ向かった。あ、と声をあげかけるも、言いそびれる五郎である。
耳を澄ませていた五郎の耳に、わざとらしく甲高い女性の悲鳴が聞こえた。覗きだ、覗き! との千里の声に、そんな格好で来客に応じる馬鹿があるか! との名坂警部補の声だ。固いこと言うな、固いのは下だけでさ。ええい、寄るな! と、今後、なにかと騒がしくなりそうである。




