第29話 始まりの鼓動
小さなライブハウスで開演を待つ人混みの中、周囲を見回しながら歩いていた男が美琴にぶつかった。軽く頭を下げて通り過ぎようとしたところ、
「しっかり、前見て歩かんか! ぼけ!」
との罵声である。
可憐な少女から聞こえてきたとも思えぬ罵声に思わず二度見する男だったが、ぺこぺこと頭を下げる美琴を見て空耳とでも思ったか、首をひねりながら離れていった。
もちろん美琴が怒鳴ったわけではない。
その胸ポケットに納まる小さなくまのマスコット、自称式霊だか神様の温州蜜柑の仕業だ。わての可愛い美琴はんにぶつかりよってと鼻息を荒くする蜜柑に、五郎が顔を寄せる。
「いまの、相手に聞こえてたよな?」
「聞こえるように言うたったんや」
「それもどうかと思うけど。そもそも、おまえの声は、俺と三姉妹にしか聞こえないんじゃ?」
「へっへっへっ、見損なってもらっては困りますな。きみの湯の御神湯に入るようになって力が湧いてきてな。聞かせようと思ったら、誰にでも声を聞かせられるようになったんや」
「だからって、あんまり勝手なことを……」
と言いかけたところで、葛音に頭を叩かれた。
「寄りすぎだ! 馬鹿!」
ん? と思って顔を上げると、美琴が恥ずかしそうな表情でいる。蜜柑との話に気を取られ、美琴の胸に顔を寄せてしまっていたのだ。これだからセクハラパオーンは、とジト目の葛音である。しかし、その声は明るく屈託のない雰囲気だった。
そうこうするうちに照明が消え、ステージを白い煙が覆い始めた。煙の途切れた中央部にスポットライトが当たり、一匹の黒猫の姿が照らし出されていた。
光を弾いて、ひらひらと乱反射する煙。すっと静まった会場に猫の鳴き声が響いた。それを合図に、
ドクン!
と、鼓動のようなドラムソロだ。
短く伸ばした黒髪に白い肌、小刻みに体を震わせるのは、今宵のドラムス、猫柳理奈である。黒いドレスに身を包み、白い腕をライトに晒してスティックを打ち鳴らしたと思うと、強烈なバスドラムの音を響かせる。激しくリズミカルに揺れる黒髪と、官能的に伸びる華奢で白い腕が、精密に、情熱的に、きらきらと煌めく。白と黒の影絵のように踊り始めた。
ドクン! ドクン!
バスドラムのひと蹴りひと蹴りが空気を痺れさせ、振動となって、聴く者の胸を震わせる。




