第19話 知らぬが仏
きみの湯で不思議な体験をし、徒歩数分の文化住宅に帰る途中である。一人きりの寂しい家路と言いたいところだが、
「いやぁ、びっくらこいたな。こんなとこに御神湯があるやなんて」
と興奮気味に話すのは、自称式霊だか神様の温州蜜柑だ。小さなくまのマスコット姿で、五郎の胸ポケットから顔を突き出している。
「わても禍つ神やなんて、なんや大層なもんやったみたいやし。良かったな、五郎。得体の知れん化物や妖怪とちゃう、れっきとした神様やで」
「でも、禍つ神だろ。正式には禍津日神、禍の神様である。狭義には、黄泉の国から逃げ帰ったイザナギが禊を行った際、穢れから生まれた神々のことを指す。ネットや創作では邪神扱いされることも多い」
「調べんなや。貧乏学生のくせに、ネットを駆使しおって」
「鏡に映った血塗れの黒猫、あれは禍つ神の仕業ではなかろうか」
「ちゃうわ! わては知らん。なんかわからんけど、黒猫に気をつけろってことやろ。んなことより、きみの湯が神様の湯やったなんて。あの風呂に入ってから、えらい調子ええで。いまなら、なんでもできそうや。五郎に神辺大学を受けさせて良かったわ。あんまり頭の出来も良くない坊主やったで、だいぶん気をもんだけどなぁ」
「温泉のために神辺大学を受けさせたんじゃないだろうな? 俺の合格も妙な力で操作したり?」
「し、しとらんよ?」
言いながら目をそらせて、ぴぴぴーと下手くそな口笛を吹く。
「吹けてねぇぞ。あれだけ私利私欲のために使ったらあかんって言ってたじゃねぇか」
「妙な力なんぞは使ってへん。オカンみたいに口うるさく言うて無理やり勉強させとっただけや。夜な夜な耳元で、神辺大学へ行くんや、神辺大学へ行くんやって吹き込んどったけどな。自分でも、なんで神辺大学へ来たかったか、ようわからんかったやろ?」
はっはっはっーと、高笑いの蜜柑である。
「よくもまあ、しれっと言いやがったな。まあいいか。三姉妹にも出会えたし」
「わても話し相手ができて嬉しいわぁ。三姉妹には声が聞こえとるみたいやし。五郎なんぞと話しとっても、つまらんでな」
「なら、憑いてくんな」
「あかんあかん。おまんから運気を吸い取らんと、やなかった。悪いもんから守ったらんと」
「なんも伏せられてないぞ」
気のせい気のせいと、小さな手を振る温州蜜柑だ。五郎は、ふぅと溜息をついて自宅へ向かった。文化住宅とはいうが、いわゆるぼろアパートである。二階建ての古い木造家屋で、部屋ごとに入り口とトイレはある。上階のドアも階下にあり、入るとすぐ階段という奇妙な作りだ。そのため、家屋の大きさに比して、異常にドアが多く感じる。
まだ越してきて日も浅く、他の住民のことはほとんどわからない。その内の一人だろうか。すぐ隣のドアを開けて若い女性が出てきた。その位置からすると、五郎の上の階の住民と思われる。黒いライダースーツに身を包んで、片手にフルフェイスのヘルメット、背中にギターケースを背負っていた。
こんばんはと小声で挨拶する五郎を見て会釈すると、文化住宅から道路へつながる階段を軽快に降りて行った。その先で、ドゥドゥドゥドゥ、ドゥドゥドゥドゥとセルモーターを回す音が聞こえ、軽やかなエンジン音が響く。表通りへ消えていく走行音を追いながら、五郎がつぶやいた。
「格好いい人だったなぁ」
「なんや、尖った姉ちゃんやったわ」
と応じながら、蜜柑は別のことを考えていた。
あの姉ちゃん、ギターケースに黒猫のマークが入っとった。あれが警告の件なんやろか。五郎は気付いてへんみたいやし、無駄に意識させることもないやろ。世の中には、知らんでええこともようけある。
蜜柑の脳裏には、五郎の父親が電話をしている情景が浮かんでいた。縁あって神辺大学の関係者と懇意にしているのだ。そのことを五郎は知らないし、電話の内容は蜜柑も語らない。さてはて、言わずもがな、言わぬが花、知らぬが仏の徒心。




