誘
「悠長に話してる場合かよ! お前、この間どんな目にあったのかもう忘れたのか!」
二週間前のことを思い出す。あの時、酔いつぶれて身体から魂が出てしまった玲子は死にかけた。あれが酒を飲み過ぎたせいならいいが、身体から離れていた時間が長かったせいだとしたら……。俺は腕時計を見る。俺が今日、最初に玲子に尾行されながら帰宅した時間から……四十分は経っている。
「私だって必死で探して……。でも見つからないんです」
「見つからないだと? お前、抜けたタイミングに心当たりもないのかよ!」
冗談じゃない。気がついたら幽霊でしたなんて、どうしたらそんなことになるんだ。
「な、無いんです。……でも少なくとも駅を出てから荘司さんのマンションに着くまでのどこかなのは確かです。定期券を使って改札を出ましたから」
「そうか。……待てよ。幽霊なら改札もすり抜けてた可能性もあるぞ。気づかないんじゃないのか」
「ゲートが開かなかったら気付きますよぅ。帰りはそれで気付いたんです。ほら、これ。鞄も定期もあるように見えて実体は無いんです。荘司さん触れませんよ? 物の幽霊みたいな状態なんですよこれ、きっと」
玲子は傍に置いていた鞄から定期を取り出して俺に突き出す。試しに触ろうとしたが、手がすり抜けた。
「物の幽霊ってのもあるのか」
「……みたいです」
「わかった。じゃあ駅からここまでの道だな。俺の後をつけてきたんなら最短ルートか」
俺は立ち上がる。椅子の背にかけてあった上着を取る。
「え、どこ行くんですか」
「ばかかお前。探しに行くに決まってるだろ」
「は、はい……。でもあの、私もひと通り探したんですけど見つからなくて! それで途方に暮れちゃって……」
「だからってここで泣きぬれてても解決するのかよ。あの合コンの時と同じなら身体から抜け出てから八時間くらいがタイムリミットだ。いや、そこまで保つ保証だってない」
懐中電灯を戸棚から取り出しつつ、ドアを開ける俺。玲子が慌ててついてくる。
「そういえばお前、また飲み過ぎたのか?」
首と両手をぶんぶんと振る玲子。
「ち、違います! 一滴も飲んでません! 大体昼間は大学で授業受けてましたし」
「そうか……。となると酒を飲まなくとも抜けちまうのか」
「……私、どうなっちゃったんでしょうか」
玲子の声に元気がなくなっていく。
俺は何も言わず、エレベーターに乗り込んで、1階のボタンを押した。玲子もついて入る。ドアが閉まり下へ。
「しかしお前がついてきてたの、全然気付かなかったな。あんまり人通りの無い細い道なのにな」
「電柱の影に隠れたりとか……してました」
「なるほど。尾行は得意なんだな」
「あの、いつもこんなことしてる訳じゃないですから。ご、誤解しないでくださいね」
俺は笑う。無理に笑った。つられたように玲子も少し笑みを浮かべた。それでいい。
根拠はなかったが、この状態で玲子がやたらに落ち込んでいくのは良くない気がしていた。身体が無事かどうかわからないのは不安だが、心まで元気を無くしてはうっかり成仏しかねない……ような気がしたのだ。
「そういえばお前、俺をつけてきた時は部屋まで来たのか?」
「い、いえ……い、入り口までです」
その筈だ。なぜならマンションの入り口はオートロックで、俺のすぐ背後にはりついていたのでもなけりゃ入れる筈がないからだ。とすると……。少なくとも玲子が身体を落としてきたのはマンションの外だということだ。
「となるとここから駅までの道のどこかってことになるな。しかし……急に身体から抜けたら気付きそうなもんだがな。だって、体のほうはいきなりバッタリ倒れる訳だろ?」
「荘司さんを追っかけるのに夢中で気付かなかったんですかね」
しかし人通りは少ないとは言え道も十分に街灯に照らされている。正直言って、女が一人倒れているのに放っておかれるとは思えなかった。
「気絶してるのを病院に担ぎ込まれている、という線が一番ありそうだな」
「でも、救急車のサイレンが鳴ってたりしましたか?」
俺は記憶を呼び起こす。
「無かったな。帰宅して、着替えて。近所の牛丼屋まで歩いて。牛丼を食ったらまた戻って。ひっくるめて三十分か。その間、サイレンなんか聞いた覚えはない」
「じゃあ、病院じゃないんでしょうか?」
「わからん。救急車で運ばれた訳じゃないのか」
話しながら探し歩くが、すぐに駅前まで到着してしまう。念のため駅前の交番でそういった騒ぎが無かったか尋ねてみたが手がかりはなかった。
「ダメだ。人が倒れたとか運ばれたとかそんな話は無いらしい。今日あった事件といえば猫が車に轢かれて死んだくらいだと言っていた」
猫には気の毒だったが平和な町である。
「……私、どこにあるんでしょうか?」
なかなか口にする機会の無い台詞を口にする玲子。
「捜索願を出したほうがいいかもしれんな」
「え。そ、それは……。こ、困ります」
苦笑したところを見ると、玲子は冗談と思ったようだった。
俺は玲子を見つめた。
「わからないのか? こうなると……誘拐されている可能性だってあるんだぞ」
「えっ」
ふらりとよろける玲子を支えようとした俺の腕をすり抜けたが、幸い玲子は踏みとどまった。
「そんな……? わ、私なんか誘拐しても……。そんなに裕福じゃないのに」
「……身代金目的なら、まだいいがな」
それ以上は口にはせず、俺は再びマンションまでの道を探すべく引き返す。
「ど、どういう意味です?」
意識も無く倒れている若い女。しかも容姿も悪くない。救急車を呼んでくれる善意ある市民ばかりではない。この間の合コンの時とは別の意味で危機が迫っている。だがそれを伝えたところで玲子は取り乱すだけだ。
道なりの店に立ち寄って訊いてみたが、交番で聞いたのと同じだった。救急車も来ていないし何か騒ぎがあったということもないようだった。
結局収穫もないまま、マンションまで戻ってきてしまった。
「もう一度確認するぞ。お前は駅からここまでの道を往復してるんだよな」
駅を出たとこまでは正常。俺の後をつけてマンションまできた。そして再び駅に戻り、改札で身体が無いことに気づいた。
「はい」
「行きと帰りは同じ道を通ったんだよな?」
「はい」
「つけてきた時はマンションの入り口から中には入ってないんだな?」
「はい」
こくんと頷いてはすがるような目を向けてくる玲子。
俺はマンションの入り口を見る。玲子はここで俺の後をつけるのを止め、俺がマンションに入っていくのを見ていた。俺が鍵を差し込んでオートロックを解除し、部屋に上がっていくところを。
ふと、妙なことに気がついた。
「……そういえばお前、なんで部屋がわかったんだ?」
玄関までで、部屋に戻るところは見ていなかった筈だ。なのに、霊魂になった後、俺の部屋で待っていたのはなぜだ。
「え? えーと、その……郵便受けの名前で」
「それはあり得ない」
え、という玲子に、俺はオートロックの扉の向こう、郵便受けを指さして言う。
「郵便受けには部屋番号だけで名前は出してないんだ」
「え、えーと……その」
玲子はもじもじしている。
「お前、まさか郵便物まで調べたりしたんじゃないだろうな」
それじゃ本物のストーカーじゃないか。
玲子は慌てたように首をぶんぶんと振った。
「ち、違います。あの、本当のこと言いますから、えっとその……ひ、引かないで聞いてくれますか?」
「内容による」
俺の言葉に少し黙った玲子は決心したように話し出す。
「すぐに帰ろうとした訳じゃないんです。そこのベンチに座って……マンションを見上げてたんです。そしたら部屋の灯りがつくのが見えて、ああ、あそこが荘司さんの部屋なのかなって思ったんです」
言って、傍にあるベンチを見る。
「ほ……ほう」
俺はその答えに少し戸惑った。なんとなく申し訳ない気持ちになった。
「だから、偶然なんです。ただの偶然です。端っこの部屋だから印象に残っただけで……。身体さえ無くしてなかったらそんなこと忘れて家に帰ってましたよ! 本当です! ……でも無くしてパニックになっちゃって、とにかく荘司さんなら私のこと見えるし、助けてくれると思ってすがる思いで部屋まで行ったんです。そしたら荘司さんいなくて……。私泣きそうでした」
「確かに泣いてたな。……まあ、わかった。とにかく、そのベンチに座ってた時間がある、ということだな」
「ほ、ほんの少しですけど。五分くらい……だと思います。それが何か……」
「歩いてる時や立ってる時と違って、座ってる間だったら、魂が抜けちまっても気付かないかもしれない。一番可能性が高い気がする」
俺のその言葉に、すこし玲子は口に手を当てて考える素振りをした。
「そうかもしれません。……なんだか疲れてもいましたし。それでちょっと休みたいなって思ったんです」
「疲れると魂が抜ける体質なのかもしれないな……酒もまた肉体的には疲労を招くもんだしな」
だとしたら、なんとも困った体質だ。
「しかし……だとして、一体どこ行っちゃったんだ」
もう一度ベンチを見る。影も形もない。
「やっぱり……誘拐されちゃったんでしょうか」
涙声になり始める玲子。
俺は頭をかく。
「こういう時は…………あの人に頼ってみるかな」
俺は電話を取り出した。