鬼危怪傀 2.
翌朝、登校中の僕の足取りは、いつになく重かった。
制服のズボンのポケットには、ハンカチに包んだ例の『鏡の破片』が入っている。歩くたびに太ももを撫でるそれは、まるで小さな氷の塊のように、妙に冷たく、そして重い。
『……ねぇ、マヤ。これ、やっぱりただのゴミじゃないよね?』
心の中で問いかけてみるが、腹の底の女王様は「ふん」と鼻で笑ったきり、朝のまどろみを楽しんでいるようだった。
「おっはよー、信也!」
教室のドアを開けた瞬間、背後から猛烈な勢いで肩を叩かれた。
振り返るまでもない。この、朝からフルスロットルなテンションは、幼馴染の島村美咲以外にありえない。
「……おはよう、美咲ちゃん。朝から元気だね」
「当たり前でしょ! 信也こそ、なんか顔色悪くない? 昨日のバイト、そんなに忙しかったの?」
心配そうに顔を覗き込んでくる美咲ちゃん。
忙しかったなんてレベルじゃない。
昨晩、神代さんたちの「ラーメンバトル」が終わった後の客入りは半端じゃなかった。あんなに息つく暇もなかったのは久しぶりだ。
おまけに、得体の知れないモノまで持ってるなんて、口が裂けても言えない。
「まぁ、いろいろあったんだよ。……それより美咲ちゃん、何かないの? 今日は」
あえて話題を振ってみる。美咲ちゃんがわざわざ僕を待ち伏せていたということは、十中八九、彼女の「オカルトセンサー」に何かが引っかかったということだ。
「えへへ、正解! さすが信也、分かってるぅ」
美咲ちゃんはパッと顔を輝かせると、声を潜めて僕の机に身を乗り出してきた。
「ねぇ、知ってる? うちの学校の旧校舎、三階の突き当たりにある大きな姿見」
「あー? えっと……あそこか。確か、もう立ち入り禁止になってるはずだよね」
「そう! そこにね……出るんだって。『笑う鏡』が!」
ドクンッ
心臓が嫌な音を立てた。ポケットの中の破片が、一瞬だけピリリと震えたような気がした。
「夜中にその鏡を覗き込むと、自分の顔がニターッて歪んで、そのまま鏡の中に引きずり込まれちゃうんだって。昨日、一年生の女子が一人、放課後に部活の荷物を取りに行って、そのまま行方不明になったっていう噂まであってさ……」
「え……行方不明?」
「警察にはまだ届けられてないみたいだけど、ネット掲示板はもうお祭り騒ぎだよ! これ、絶対に流行りの都市伝説が実体化したやつだって!」
美咲ちゃんの瞳には、いつもの好奇心と、わずかな「本物の恐怖」が入り混じっていた。
(……ふふ。下僕、お聞きなさい。その娘が言う『鏡の門』……案外、的外れでもありませんことよ)
脳内に直接、マヤの妖艶な声が響いた。
彼女はいつの間にか目を覚まし、僕の視界を共有しながら、楽しそうに唇を歪めているようだった。
『マヤ、気づいてるの? この噂の正体に』
(さて。わたくしが興味あるのは、その破片が『誰の欠片か』……ただ、それだけです。……あら? 面白い。あの『猫』、もう来ているようですわよ? 思ったより鼻が利く猫ですこと……ふん。あの手の輩は、わたくしの周りをぶんぶんと飛び回る”小蝿”のようですわね)
言うとマヤは一度、窓の外に意識を向けた後、僕はその言葉に導かれるように視線を動かした。
教室の窓際に――
一人席に着き、硝子玉のような瞳で、静かに教科書を開いている黒髪の少女がいた。
昨日、うちの店であの『黄金の聖域(淡麗塩)』を完食してみせた女の子――神代凛だ。
お店で一緒にいたサラリーマン風の人は、やっぱりお兄さんなのかな? 彼女は一度もこちらを見ることなく、ただ淡々と、しかし鋭い集中力で「何か」を待っているようだった。
その指先が、時折、机の下にある何かに触れ、硬質な音を立てる。
「……信也? どしたの、転校生の神代さんばっかり見て」
美咲ちゃんがジト目で僕を小突き始めた。
「いや、別にそういうんじゃなくて」
「ふーん……。まぁいいや! とりあえず今日の放課後、旧校舎、行ってみようよ! 信也も気になるでしょ?」
美咲ちゃんの誘いは、もはや断れるような状況ではなかった。
ポケットの中の破片が、まるで脈打つようにドクドクと熱を帯び始める。
日常の皮を被った学校に、ゆっくりと、しかし確実に「鏡の向こう側」の何かが滲み出そうとしていた。




